信仰の人・シメオンとアンナ

宣教要旨「信仰の人・シメオンとアンナ」    大久保教会 石垣茂夫2018/01/21

招詞 コヘレトの言葉12:1  聖書:ルカによる福音書2:22~38  応答賛美:520「人生の海のあらしに」

 

「青春の日々にこそ」

招詞で「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」コヘレトの言葉12章1節を読んでいただきました。口語訳聖書では「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」との言葉で大変有名な聖句です。

わたしは輝くような、前半のこの言葉だけでいいと思うのですが、この後(うし)ろに「苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。」という言葉が続きます。後半の言葉を読んでいますと、私たちが歳を重ねていくならば「やがて苦しみの日がやって来る」のか。私たちが歳を重ねていくと「年を重ねることに喜びはない」とつぶやくような、そうした日々になってしまうのか。わたしたちを、そのような、少々暗い気持ちにさせてしまう言葉に出会います。「伝道者」はどのような思いでこの言葉を語ったのでしょうか。

一方で、聖書朗読でお読みいただいたルカ福音書には、シメオンとアンナという二人の老人が、一つの出来事の中に登場します。祈りにおける神との交わりが、二人の老人にとって、老いて、ますます盛んになされていたことをこの二人の信仰から知ることが出来ます。「青春の日々にこそ」とは、特定の年齢ではなく、「人は、何よりも盛んな時に、多忙な時にこそ、神を知り、神と交わることが求められているのですよ」。「信仰に年齢は無いのですよ」と伝道者は言っているように思えます。コヘレトの言葉とシメオン・アンナの記事には、そうした意味でつながりがあると思います。

「シメオンと幼子イエスとの出会い」

ヨセフとマリアは、生れた子に、予(あらかじ)め天使から告げられていた名前、「イエス」と名づけました。この名はごく普通に長男につけられる「神は救いである」という意味です。二人は40日目に、その子を祭司に献げるため神殿に入って行きました。

するとシメオンがまるで祭司であるかにのように、幼子の主イエスを抱きとめたのでした。それでは、そのとき神殿の祭司たちは何をしていたのでしょうか。神殿の内部が乱れていた時代に在っても、シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望み」祈っていたと記されています。シメオンは希望を持って祈っていたのです。

シメオンは、「神が遣わされる救い主が現れる前に死ぬことはない」、との約束を与えられていました。このことは、逆にシメオンは「生きている間に必ず救い主を見る」ということになります。救い主は来てくださる、主は近いという望みを持って、シメオンは老いて体が衰えて行く中でも、生き生きと日々を過ごしてきたのです。

聖霊の助けを得ながら、シメオンは絶えず神に語りかけ、そして神からの示しを受けて日々を過ごしていたことでしょう。それだからこそ、シメオンはエルサレムの神殿において、両親に抱かれて宮参りに来ていた御子イエスに出会えたのです。そして「この方こそ、神が約束し、自分が信じて待ち望んでいた救い主である」と告白できたのだと思います。

2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、

 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」

この様に賛美し、シメオンは幼子イエスを抱いて「わたしはこの目で神の救いを見た」と喜びました。

36節以下にアンナという老婦人の預言者の事が記されています。彼女も「断食したり、祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた(37)」と記されています。

シメオンもアンナも老人でした。この二人は年老いて、ますます祈る人でした。神に語りかけ、神に問い、神からの答を得るという、神との交わりのために、二人の時間は多く用いられていたことでしょう。

その日、ヨセフとマリアはこの二人の老人の告白にどれほど驚き、また、どれほど励まされたことでしょうか。多くの疑問を抱え、周囲の人々の冷たい視線を浴び、重い課題に悩みながらも、律法に忠実であろうとして、恐れをもって入って来た神殿にて、ヨセフとマリアは、二人の老人によって、この幼子が「救い主」であるという信仰の確信に、初めて導かれたと言ってよいと思います。

その日、ヨセフとマリアの内にあった不安は取り除かれ、神に用いられていく喜びをかみしめたことでしょう。シメオンの言葉からは、マリアに対して、「救い主」の受難の言葉まで伝えられました。その時マリアがその意味を理解できたとは思えないのですが、神が人となってわたしたちの救いとなったことを、彼女の生涯をかけて証ししていくことになりました。

「祈ることが日々を支える土台となる」と今日の箇所から感じさせられるのです。私たちは多忙な時、盛んな時にこそ、祈りを身に着けて行きたいと思います。

シメオンは「イスラエルの慰められるように」と祈りましたが、わたしたちも、この日本が慰められるように、世界が慰められるように祈りましょう。

この様子を見ていたアンナは、賛美しつつこの幼子の事を人々に語り出したとあります。わたしたちも、アンナにならって、神の救いを語りましょう。

皆さまのそれぞれの人生の中で、自分が神さまを求めて教会に来たのではなく、神さまが、この私を訪ねてくださったのだとの思いを強くされておられることでしょう。

シメオンとアンナが神の導きを敏感に捉えて主イエスを迎え、自分の腕に抱いたように、与えられた主イエス・キリストという恵みを、わたしたちもそれぞれの腕に抱きとめて、これからも歩みましょう。