病のいやしと罪のゆるし

宣教要旨「病のいやしと罪のゆるし」         大久保教会 石垣茂夫  2018/01/07

聖書 マルコによる福音書2章1~12節

 

カファルナウムの家の中では主イエスが「御言葉を語っておられた」。イエスさまがこの家に居られると言うだけで、周りには溢れるほどの人が集まっていた。そこに四人の男が中風の人(体が動けなくなった人)を運んで来たが、大勢の人にはばまれて中に入ることは出来なかった。

この四人にとって、中風の人はどれほど大切な人であったのであろうか、何とかしてイエスさまの前にこの人を連れて行きたいと考えた。そしてとんでもない方法を思いついた。屋根に上り、イエスさまのいるあたりの屋根をはがして、目の前に吊り降ろそうというのである。四人はそれを実行した。

主イエスは「四人の男の行動」を見ておられた。「信仰を見て」見ておられたと聖書には書かれている。そしてこう書かれている「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

さて、四人の男の願いは「中風の人の癒し」であって「罪の赦し」などではない。そこに居合わせていた律法学者たちも、心の中で「神以外に罪を赦す権威は持っていない、このイエスは神を冒涜している」と思った。

その様な反発が予想される中で、なぜ主イエスはなぜ「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのであろうか。

当時は当然、病と罪には深い因果関係があるとされていた。しかも、病も罪も、いずれも人間を襲うものであることに変わりはない。人は病に犯されるように、同時に罪に染まるものである。主イエスの思いの中には、『病は決して罪の結果などではない。人は病に陥るとともに、罪にまみれていることも事実である。罪には倫理的な罪があるが、根本的には神から離れた存在としての人間の姿が罪にはある。病の癒しがどうでもよいと言うことではなく、罪の赦しを与えるのがわたしの目的であり、わたしにとって病の癒しは二義的なことに過ぎない』と伝えたかったのではないか。

主イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたが、最終的にはその人の病を癒された。

『人の子が、地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

この出来事の中で、今朝はもう一度四人の男の行動に注目してみよう。四人はそれほどまでの事をして、病の人を主イエスに会わせたいと思った。主イエスは、その四人の行動を見ておられた。

マルコ福音書が伝える「信仰」とは、四人の男の「行動」である。

ここ朝わたしたちに求められていることは、自分たちにとって大切な人を、何とかして主イエスに会わせたいと言う思いではないか。この年の歩みの中で、そのような「信仰」・「行動」に導かれていこう。