「神さまに造られた私たち」

宣教要旨「神さまに造られた私たち」   大久保教会副牧師 石垣茂夫     2017/07/16

 

招詞 イザヤ書463~4節 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

聖書  創世記126~27  神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」

応答賛美59「父の神よ 汝がまこと」

12年前、東京バプテスト神学校に入学して間もなくの事、自分にとっては、大変重いレポート提出が求められました。「聖書の創造物語を、求道者にどのように語るか」。「提出期限は一ヶ月。5000字以内。」というものでした。さて、どう書き始めたら良いのかと、とても苦心して、レポートを書いた記憶がありますが、その苦しさが神学校に通い続ける力を与えてくれたようにも思えます。創世記に、1章と2章、二つの創造物語があります。なぜ二つの創造物語があるのでしょうか。今回は特に、そのことを考えさせられました。

例えば、聖書に、「1章の創造物語」だけであったならどうでしょうか。

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。

そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

この創造物語では、主に人間の外見について語っています。他の生き物の創造と比べて大きな違いを読み取ることはできません。敢えていうならば、「人は神さまに似せて造られた」こと、「人は他の生き物を支配できる」こと、そうしたことに留まるように思います。

しかし、しかしその人間は、その後どうなったのか、あるいは、わたしたちの複雑な内面、人間の心はどう形成されていったのか、1章の創造物語には、触れられていません。

反対に、2章の「アダムとエバの物語」だけが聖書の人間創造の物語だとしたならどうでしょうか。ここでは、人間の罪の姿があらわにされて行きます。ここでは、「神は人の心を造られた」と言っているようです。それでもわたしは、創造物語はここだけでいいと、思っていました。それは1章の創造物語よりも、2章の方が受け入れやすかったからです。

それにしても2章だけですと、神は何故、天地を造られたのか、神はなぜ人を造られたのか、そうした問いには答えてもらえず、創造の目的や意味に言及していません。

しかし、聖書には紛れもなく、この二つの創造物語があります。二つあるということに、秘められた意味があるように思います。

皆さんの記憶に新しいことですが、「プロの将棋」のタイトル戦で29連勝をした中学生・藤井四段のことで、新聞の号外がでるほど、大いに沸きました。

藤井四段は苦しい局面に立たされたとき、先輩の加藤一二三さんの手法を思い出したのです。自分の座っている位置からばかり将棋盤に向きあっていないで、相手の後ろ側に立って、相手の目線でしばらく自分の差し手の方を眺めることをしていました。

一方からだけ見て居て行き詰まっても、反対の方向から、自分を見ることで、ヒントがあたえられたようです。結局その勝負には勝つことができました。

創世記の編集者は、神の創造をある一面からだけ見るという狭い思考ではなく、二つを置くことで、たとえ行き詰っても、物事を多面的に見ていくことをわたしたちに伝えようとしている、そのように思うのですが、どうでしょうか。

 

1章1節から始まり2章4a節に至る、最初の天地創造物語は、イスラエルのバビロン捕囚の時代に書かれたと言われています。悔い改める事のなかった民は、その後は、繰り返して大国に攻め込まれ、国は亡び、多くの大事な人材が、遠くの異教の地バビロンに捕虜として連れ去られたのでした。これがユダ王国の行き着くところとなりました。

バビロンでの70年の捕囚時代に、多くの人々が囚われの身となり、希望を失っていきましたが、その時代に「残りの者」(イザヤ46:3)と呼ばれた一団がいました。

彼らは、自分たちが、神に選ばれた民として、長い歴史を歩んできたのに、どこでその道は狂ってしまったのかと、神に問うようになっていたのです。

バビロンで、苦しい捕虜としての生活の中で、エルサレム神殿が無くなっても、もう一度、神を礼拝する生活を立て直そうとした人々がいたのです。これらの人々は「残りの者」呼ばれます。「残りの者」とは、千年に及ぶ「罪の歴史」を振り返って書き記し、自ら悔い改め、罪の赦しを主なる神に求めるようになった人々のことです。苦難の時代に、信仰を新しくし、信仰を復興していった人々がいたのです。その文献が今日の聖書として残され、彼らの存在が、今日のキリスト教へ、そして私たちにつながっています。

やがて彼らは、この世界は神が決心され、神が造られたのだと確信し、第一行目に、『初めに、神は天地を創造された』と書き始めました。このひと言、神の並々ならぬ決心を表明して聖書は書きはじめられています。わたしたちの信仰と生き方を支える、力強く、揺るがない言葉ではないでしょうか。

わたしたち人間の思いでなく、神が人を造ろうと決心されたことが重要なことです。わたしたち人間存在の根源は、神の決心にあるのです。この事を今朝は心に留めていただきたいのです。そのようにして造られた自分を大事にしていただきたい。神は、ご自分の造られたものを最後まで愛し、責任を取ってくださいます。

神のわたしたちに対する責任の取り方は、わたしたちの思いもよらないものでした。

神はご自分の独り子を十字架に付かせ、死を経て復活した姿をもって勝利を表わし、わたしたちに救いの道を示して下さいました。これが造ったものに対する、神さまの責任の取り方でした。

わたしたちが、この御子キリストを信じる時、わたしたちも新しく造りかえられていきます。神の創造の御業は終わっていません。今も、わたしたちのために、繰り返し続けられています。わたしたちはその恵の中にいます。感謝して恵みに与り、『神によって造られた者』として、この週の歩みを辿らせて頂きましょう。