あなたの神はわたしの神

宣教要旨 『あなたの神はわたしの神』 大久保教会 石垣茂夫副牧師  2019/09/15

聖書:ルツ記1章から(旧約聖書p421)

モアブの女性ルツは義理の母に導かれ、『あなたの神はわたしの神です』と告白するまでに信仰を導かれました。わたしたちの、お互いの出会いは、生涯の中でも限られた一場面です。神が備えて下さった今の出会いを感謝し、深い主の愛に結ばれたいと願っています。

ベツレヘムからモアブへ:エリメレクとナオミ一家の故郷「ベツレヘム」とは、「パンの家」という意味です。更に古い時代「ベツレヘム」は、「エフラタ」と呼ばれていました。1章2節には、この家族が「ユダのベツレヘム、エフラタ族の者」と書かれており、この「エフラタ」も「豊かな土地」という意味です。皮肉にも「ベツレヘム・エフラタ」、「パンの家・豊かな土地」が飢饉に見舞われたのです。土地とは、ユダヤ人として手放してはならないものです。代々に亘って受け継がれて行かなくてはならない大切なものでしたが、一家はこれを捨てたということから物語が始まります。

この後の時代になりますが、ベツレヘムはダビデ王が生まれ育った地であります。なんといっても、イエス・キリストの降誕の地となりました。聖書全巻に登場する重要な町です。一家のこの行動は決してほめられたものではなかったことが、お読みした箇所から伝わってきます。21節に「出ていくときは満たされていた」とのナオミの言葉がありますように、この一家には、飢饉の町を出ていくだけの余力があったのです。これが出来ない人々はじっと耐える以外に手立てがなかったことでしょう。

モアブでの10年:しかし、モアブで10年を過ごしたころとありますように、比較的短い期間にナオミは夫エリメレクに先立たれ、二人の成人した息子はモアブの女性をお嫁さんとしたものの、お嫁さんたちを残して死んでしまうという不幸に見舞われました。そのためこの一家は、ナオミと二人の嫁、三人の女性だけの家族となってしまいました。この事は、ナオミにとって大きな重荷となり、思案する中でいつしか故郷のベツレヘムに帰って生きて行こうと道を求め始め、その思いは日に日につのっていったのです。6節に「ナオミは、主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということをモアブの野で聞いたのである」と書かれています。ナオミはベツレヘムの飢饉が終息したという情報を耳にしたのです。

モアブからベツレヘムへ:10年前、ナオミはベツレヘム・エフラタが飢饉に襲われた時、逃げるようにして家族ともどもそこを捨て、豊かに潤っていたモアブに走ったのですから、大きな顔をして故郷に帰るわけにはいかなかったはずです。しかし、恥を忍んで、ベツレヘムに帰るほかに手立ては見出せませんでした。生きていく術を失ってしまった今、二人の異国人を伴ってでも帰郷しようとナオミは決断したのです。どれほど気の思い旅であったことでしょう。

ルツの信仰告白:やがて一人の嫁オルパは、ナオミに別れを告げ、モアブへと戻って行きました。一方でルツは違った決断をし、ナオミにすがりついて離れようとせず、こう言いました。

1:16,17 ルツは言った。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。

さて、ルツはいつ、どこでこの信仰を身に着けたのでしょうか。一方でナオミはどのようにして異教の地で信仰を守り、ルツに伝えて行ったのでしょうか。

オルパと違ってルツは、ナオミと暮らすうちに、ナオミが教えてくれた神との交わりに喜びを見出していたのです。この神を教えてくれた姑ナオミとの絆を強くしていく中で、ルツは『あなたの神はわたしの神』という信仰告白に導かれて行ったのです。この短い信仰告白に、ルツの云わんとすることのすべてがあります。実に純粋で単純な信仰です。

わたしは、このルツの信仰への導かれ方というものは、少なからずみなさんが経験していることではないかと思うのです。信仰の始まりは、「知らず内にいつの間にか」導かれていった、そのような面があると、わたしは思うのですが皆さんはどう思われるでしょうか。

その頃のナオミは、モアブで生きていく自信を失い、神を恨むような言葉さえ口にしていました。ナオミは男手を失った苦しみを呟き、神を呪ってさえいました。そのような姑と暮らしながら、ルツはナオミの気付かないところで、ナオミを圧倒するような信仰をいつの間にか身に着けていたのです。旅の途中では、「わたしは神に撃たれた者だ。このような者の後を追ってなんの幸いがあるのか」と二人の嫁を諭していました。そのような絶望的な思いのナオミと接しながらも、ルツは自分の信仰を深めて行ったのです。ここが人間の面白い所だと思います。必ずしも力強い信仰者が、信仰を伝えられるのではない。自信を失い、確信を持たない者も神は用いて行かれるのです。

1:20 ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。

1:21 出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」

ナオミは神に対して不平を言いながらも、その神に向き合っています。このようなことをナオミが口走るようになっても、ルツはそうした悪い方へは感化されずに、純粋な信仰へと育っていたのでした。

ルツにとって生活の基盤のないベツレヘムはどのように見えていたでしょうか。今やルツにとって、そこには真の神がいて下さると言う喜びが待つのみでした。ナオミにとっても、いつの間にかルツという、これからの生涯に希望をもたらしてくれる宝を与えられていたのです。ナオミの孫は「オベド」と名付けられました。この名は「礼拝する者」という意味です。何故この名前なのかとふと思いました。その名を付けたのは近所の婦人たちとあります。ナオミとルツこそ日々「礼拝する者」であったからでしょう。

イエス・キリストを救い主として信じるわたしたちの信仰の道、そこには「楽しさ・ナオミ」が待っているとは言われてはいません。むしろ多くの「試練・マラ」が待つ十字架を負う生活が待っていると主イエスは言われました。わたしたちの、イエス・キリストを主と信じる信仰の旅路には、ナオミやルツのような出会いがあり、その先には神との出会いが待っています。わたしたちも、神との出会いを宝として受けとめ、歩ませて頂きましょう。