あなたを必要としている神

「あなたを必要としている神」 二月第二主日礼拝 宣教要旨 2014年2月9日

コリント人への第一の手紙12章12〜18、27節      牧師 河野信一郎

 神はわたしたちを用いたいと願っておられるという真実が先週の宣教テーマでしたが、神はわたしたちを必要としているという真実を今回聖書から聴いてゆきたいと願っています。

 コリント人への第一の手紙12章27節に、「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその肢体である」と記されています。使徒パウロは、教会を「からだ」に例えているわけですが、教会を「キリストのからだ」に例え、わたしたちはその「肢体」であると言うのです。新共同訳聖書は「肢体」という言葉を「部分」と訳し、新改訳聖書は「器官」と訳しますが、キリストのからだ・教会にとってすべての教会員は非常に重要な器官だと言うのです。

 コリント教会の兄弟姉妹たちは、神から素晴らしい賜物がそれぞれ与えられていましたが、この手紙を読んでゆくと、それらの賜物がしっかりと管理されていなかった、一致のないまま、無秩序のままに用いられていたという事実が見えてきます。そのために教会に混乱が生じていたようです。コリント教会に必要であったことは、御霊を通して与えられた賜物は何の目的のために用いるべきか、どのように用いるべきかを明確に知ることでしたが、その目的は賜物を用い合って互いに仕えること、キリストのからだである教会を形づくるということでした。

 けれども、コリント教会では個人プレーをする人が多かったようで、せっかく素晴らしい賜物が与えられているのに、目的と目標に一致がなく、それぞれが気の向くままにバラバラに教会生活を送ったので、教会は病み、神の喜ばれる実を結ぶことができなくなっていたのです。

 ここからわたしたちが学ぶべきことは、キリストのからだなる教会を健康にし、建て上げ、神に喜ばれる実を結ぶ責任はわたしたち教会員一人ひとりにあるということです。確かに恵みと力を注いで成長させてくださるのは主なる神であられますが、教会を建て上げてゆくためには、わたしたち一人ひとりの信仰と献身が必要であり、とても重要なのです。

 おもしろい例え話があります。あなたのからだの重要な器官である腎臓、あるいは肝臓がある時あなたに向かって「わたしは今日からあなたに仕えることを止めたいと思います。今までずっと働いてきましたがもう疲れました。わたしは少し休む必要があります。今からしばらく何もせずにただ休養したいのです」と言ったならば、あなたのからだはどうなってしまうでしょうか。あなたはすぐに体調をこわし、それが続くようであれば命を落とすことになります。

 使徒パウロは、わたしたちを教会の目、耳、足、手、教会の重要な一部であると言っています。「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのです」とも言っています。すべての器官が教会にとって必要なのだ、不必要な部分などないと言っているのです。

 わたしたちは、何のために必要とされているのでしょうか。先週学んだ第二テモテ1章では、「福音のため」とありました。つまり、福音を必要としている人々のためということです。エペソ2章10節では、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのです」とあります。この「良い行い」というのは、神と人に仕えるという働きで、また教会につなげられ、教会の一部として仕えてゆくということなのです。

 神が与えてくださる賜物に大小は関係ありません。福音を必要としている人々に仕えるために、神はわたしたちを、わたしたちの働きを必要としてくださっているのです。わたしたちがそのままの自分を献げてゆく時、神はわたしたちを祝福し、御心のままにわたしたちを豊かに用いてくださいます。神のご用のためにわたしたちは造られ、救われ、生かされ、賜物が与えられていることを喜び、感謝し、主の召し・恵みに応えて、心から仕えてゆきましょう。