あなたを慰める神

「あなたを慰める神」 十二月第一主日礼拝宣教 2021年12月5日

 イザヤ書 51章12〜16節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。12月最初の主日の朝です。今朝もご一緒に礼拝をおささげできて、本当に感謝です。今日から待降節・アドベントの第二週目に入ってまいりますが、12月のオープニング賛美として新生賛美歌180番の「イエスがこころに」という賛美歌を選びました。今から33年ほど前に副牧師として大久保教会の仕えてくださった20代の福永保昭先生が作詞・作曲された賛美歌です。大久保教会から三鷹教会の教育主事として転任され、最初のクリスマスの子どもクリスマス会で歌える賛美歌を探していた先生は、なかなかふさわしいものが見つからず、短時間のうちにその場でこの賛美歌を書き上げられたそうです。

今朝は2節を賛美しました。「喜びの道 手を取り合って 共に歩もうよ イエスに向かって 私の中で主イエスは生きて、愛と励ましを与えられる。イエスキリストが今、私の心に生まれた。その愛の深さに気づくこのクリスマス」という素敵な詩です。わたしの今年のアドベントの宣教テーマは、「神様の慰め」です。わたしたちを慰めるために神様が働いて主イエス様をこの世に遣わしてくださり、主を信じる時にイエス様がわたしたちの心の中に生まれ、共に生きて、神様の愛と励ましを与えてくださる。その深くて大きな神の愛に気付かされ、喜び、感謝する、そういう待降節シーズンになることを心から願って、現在は恵泉教会を牧会される若き日の福永先生が主にささげられた賛美歌を共にささげてゆきたいと願います。

この賛美歌のことで、もう1つ分かち合いたいことがあるのですが、最初の「喜びの道 手を取り合って共に歩もうよ」という部分、最初に作詞された時、先生は「十字架の道 手を取り合って共に歩もうよ」とされたそうです。わたしたちの心に生まれてくださったイエス様は、わたしたちの罪を贖うために、贖いの犠牲、小羊として十字架の道を歩み、十字架に死んでくださった。そのことを覚えながら共にこのクリスマスをお祝いしましょうという願いがあったそうですが、子どもクリスマス会の準備を手伝ってくれていた中高生たちから「喜びの道」がいいとアドバイスされ、変更されたそうです。神様の愛と励ましをわたしたちに与えるために十字架に死んでくださったイエス様の誕生をご一緒にお祝いしたいと思います。

話が変わりますが、先週、とても素敵なことがわたしにありました。先週の朝の礼拝前、すこし肌寒かったので、礼拝堂に今年初めてのストーブを付けました。しかし礼拝前にストーブを消すことをわたしは忘れてしまい、礼拝堂内はとても暖かくなって、宣教の時間帯、心と身体の休憩を取るのにもってこいの気持ち良い気温になったようで、いつもより多めの方が気持ちよく眠ってしまったたように見受けられ、宣教中にストーブの消し忘れに気づいたのですが、翌日、礼拝出席者のお一人からメールがあり、「先生、ごめんなさい。昨日の先生の宣教中、不甲斐なく眠ってしまいました。いつもは眠らないで聞くのに、昨日はなぜか眠ってしまいました。ごめんなさい。でも、家に帰って教会のホームページで宣教を読み返し、大変慰められ、励まされました。ありがとうございました。」と記されていました。わたしは、「黙っていれば良いのに、この人は本当に素敵で正直な人だなぁ」と感銘を受けました。

お恥ずかしい話ですが、わたしもこのお腹がいっぱいになった昼食後の会議や疲労が溜まっている時に暖かいと、必ずと言って良いほど睡魔に襲われ、最初は抵抗するのですが、最後は睡魔に負けます。小学生の頃から大人の礼拝に出席というよりも、「出されて」いましたが、父親の説教の時、がっつり眠っていました。その怠惰さというか精神的な弱さは大学生まであまり変わりませんでした。わたしの信仰の祖父である副田正義先生から、「眠たい時は眠りなさい。仕方ない。それも神様が許されることだ。ただいびきだけはかくなよ」と遠い昔に言われたことを思い出します。現代はホームページで宣教を読み直したり、ユーチューブでビデオを視聴できます。とても便利な世の中になりました。しかし、便利になりすぎて礼拝を平気で休んだり、おろそかにすることは神様に失礼なことだと思います。主に賛美をささげ、神様の語りかけに耳を傾け聴いてゆくことを共に大切にしてゆきたいと心から思います。

さて、先週の宣教のことを話題に取り上げましたので、もう1つお伝えしたいことがあります。先週は、「圧倒的な不条理」というわたしの心に突き刺さった言葉を紹介し、なぜそのようなことが起こるのかということと、それに対して人はどのようなリアクションを取るのか、そしてそのような不条理の中でもがき苦しみながら生きるわたしたちに情け深い神様は目をとめてくださり、救い主イエス様を通して慰め、力づけてくださるということを聴きました。

昨日12月4日は、2019年にアフガニスタンの地で何者かに銃撃され、亡くなられた中村哲医師の2回目の命日でした。皆さんもテレビや新聞でお聞きになられたと思いますが、中村先生はアフガニスタンの砂漠に用水路を引いて、その土地を緑豊かな地に変え、人々の命と生活を支援する活動を長年続けておられましたが、2年前に「圧倒的な不条理」で命を落とされました。わたしがやるせ無い気持ちになったのは、銃撃した実行犯の一人が「中村医師を殺すつもりはなかった」と言ったことで、2年前の悲しみがまた戻ってきました。しかし昨日のニュースは、アフガニスタンの人々が中村先生の意志を引き継ぎ、新しい用水路の建築に励んでいる様子と暫定政権を樹立したばかりのタリバンも中村先生の意志を引き継ぐとインタビューに答えているものでした。昨年と今年ひどい干ばつがアフガニスタンを襲っているそうですが、中村先生が思い描いていた戦いのない生活が戻り、平和に生きることを祈ります。

さて、今朝の宣教主題は「あなたを慰める神」がおられるということです。大久保教会には本当に可愛らしく利発で元気な3歳児の男の子がお姉ちゃんやお母さんと教会にいらしているのですが、もう何にでも興味があるようで、「これなに?」と質問し、その質問に答えると「なんで?」と次から次へと「なんで?なんで?」と連発して尋ねてくるそうで、わたしの娘たちをいつもうならせるのだそうです。本当に賢いお子さんです。お姉ちゃんも同じです。

「あなたを慰める神」と男の子が聞いたら、たぶん彼は屈託のない笑顔で「なんで?」と質問するでしょう。「なんで神様は慰めるの?」、「なぜわたしを慰めてくれるの?」、「なんで?」と質問してくるでしょう。皆さんは、そのように質問されたら、どのようにお答えになられるでしょうか。これは宣教の導入への1つの例えではありますが、「なぜ神様はあなたを、わたしを、わたしたちを慰めてくださるのでしょうか?」 先週の宣教では、「慰める」とは「力づける」という意味であることを聴きましたが、なぜ主は慰め、力づけてくださるのか。

基本的に答えは、3つです。1)わたしたちは神様に愛されているからです。2)わたしたちは日々の生活の中で苦しみ、悩み、痛み、疲れ、気持ちが弱まっているから。つまり、慰めが必要であるからです。3)神様に慰められ、力づけられたわたしたちが他に慰めを必要としている人を慰め、励まし、力づけるためです。

しかし、競い合い、妬み合い、むさぼり合い、憎しみ合い、蹴落とし合うような悲しい時代が続きます。無駄などんぐりの背比べをし、どうでも良いことにこだわったり、しがみついたり、お金や時間を注ぎ込む。そうしていく中でどんどん心が荒んでゆくのです。無謀な競争社会からつまはじきにされる人たち、小さく弱くされる人たち、格差に苦しむ人たちが出てきても無関心を押し通す。でも身体は疲労困憊、心は崩壊寸前。人間関係も同じ、人など信頼できない。日々の生活もその日暮らしのようで、将来は不透明、夢など全く描けない。意地や欲望につながれているだけで、自分は何のために生きているのか分からないで、ただひたすらあくせくしている状態。心も身体もがんじがらめに縛られて身動きが取れない。

どうして、そのような状態になるのでしょうか。どうしてわたしたちは苦しみ、悩み、涙し、歯を食いしばってどんなに頑張っても長いトンネルの中にいるようで、なかなか光が見えてこない、希望を見出せないのでしょうか。どうして平安がないのでしょうか。答えは簡単です。神様に愛されていることを知らないからです。イエス様の存在、イエス様がわたしたちを救うために何をしてくださったかを聞いたことがない、神様の愛を知らない、だからです。

今朝の聖書箇所はイザヤ書51章ですが、その1つ前の50章10節と11節にこのような神様の言葉が記されています。「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火を灯し、松明(たいまつ)を掲げている。行け、自分の火の光に頼って、自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう」とあります。自分で灯した松明を掲げて生きる者、つまり自分の知恵や力だけで生きようとする者は、苦悩のうちに倒れる」と主なる神様がおっしゃっているのです。そういう忠告・警告も神様からあったのです。今もあります。

しかしイスラエルは神様から離れ、自分たちで松明を掲げ、その火の光に頼って生きようとした。そうしたら案の定、神様の言葉どおりに苦悩のうちに倒れました。北イスラエルはアッシリア帝国に、南ユダはバビロニア帝国に倒され、捕囚の民となったのです。わたしたちは、このイスラエルの苦悩を「自業自得だ」と言って笑えるでしょうか。笑えないですよね。わたしたちもイスラエルと同じことをしてきたし、今もし続けて苦しんでいるのですから。

そういうわたしたちに対して主なる神様は51章で繰り返し叫ぶのです。1節と4節と7節にありますが、「わたしに聞け」という叫びです。主なる神様の正しさを尋ね求め、主の言葉と教えを心に置きたいと願う者に対して、「わたしに聞け」と神様はわたしたちを招き、言葉をかけ続けてくださるのです。そして新約の時代において、主なる神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)とペトロや弟子たちだけでなく、すべての人にお命じになられるのです。なぜでしょうか。それは、わたしたちが心から求めている生きる意味、人生の目的、平安、希望、真の道、真の救いがイエス様にあるからです。

わたしたちは不条理・理不尽な中で様々な恐れや不安を抱いて苦しみ悶えます。不条理や理不尽さはわたしたち人間の罪の結果であり、副産物であることを聴きましたが、そのように恐れや不安に苦しむわたしたちに対して神様は、12節で「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」であると明言されます。神様が、イエス様がわたしたちの慰め主なのです。しかし「なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を」と言われます。わたしたちは神様を畏れないで、目の前の人、圧力をかけてきたり、脅してきたり、わたしたちを悩ませる人、草のように死んでゆく人を恐れて苦しめられている。なぜでしょうか。

その理由を神様は13節で言っておられます。「なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ滅びに向かう者のように苦痛を与える者の怒りを常に恐れてやまないのか」と。わたしたちが苦しんだり、恐れたりする原因は、天地を創造され、わたしたち一人ひとりを造り、愛し生かしてくださっている主なる神様を忘れているからです。

しかし、わたしたちが神様を忘れるときも神様はわたしたちを決して忘れない。14節、「かがみ込んでいる者は速やかに解き放たれもはや死ぬことも滅びることもなくパンの欠けることもない」とありますが、倒れているわたしたちを助け起こし、苦悩から解放し、永遠の命に至るパンを与えてくださるのが主なる神様であり、主イエス様なのです。

15節に「わたしは主、あなたの神。海をかきたて、波を騒がせるもの。その御名は万軍の主」とありますが、すべての罪の戦いに勝利を与え、自由を与えてくださるのが愛の神様で、この神様が16節で「わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ、わたしの手の陰であなたを覆う。わたしは天を延べ、地の基を据え。シオンよ、あなたはわたしの民、と言う」と約束されます。神様がわたしたちの口に、心に、イエス・キリストという慰めの言葉を入れてくださり、御手の中でわたしたちを守ってくださる。「天を延べ、地の基を据え」とはイエス・キリストを通して新しい天地を創造されることで、そこで主を畏れ、忠実に従う者たちを「わたしの民」と呼んでくださるとの祝福の約束がされています。この約束を受け取りましょう。