お互いの喜びと向上のために生きよう

「お互いの喜びと向上のために生きよう」 七月第一主日礼拝 宣教    2019年7月7日

 ローマの信徒への手紙15章1〜6節             牧師 河野信一郎

 今朝は、「お互いの喜びと向上のために生きよう」と題して、隣人を愛するということ、そして神の家族の中で互いに愛し合うということをテーマに宣教をさせていただこうと思いますが、今朝の聖書箇所は、大久保教会の2018年度の年間聖句です。特に2節と5節と6節を選んで、この年間聖句と「キリストの恵みを共に分かち、神をたたえよう」という主題を掲げました。去年の4月末からローマの信徒への手紙を1章から共に聴いていて、すでに1年4ヶ月間を過ごしています。今朝の宣教を合わせてあと6回、8月末まで、この手紙から神様の語りかけを聴いてゆきますので、楽しみながら共に聴いてゆきたいと願っています。

さて、今朝は少しマニアックなお話を宣教の導入にしたいと思いますが、この1年4ヶ月の間、前のスクリーンに表示されますパワーポイントの聖書箇所のスライドをローマの信徒への手紙の1章から1節ずつスライドにして来ました。14章まで合わせて342節ありますが、長めの1節を2枚のスライドにしたこともあり、また昨日は来週の15章13節まで作りましたので、今日まで合わせて383枚となりました。他にも新生賛美歌234曲分、子ども賛美も多数、礼拝への招きの言葉である招詞もこれまでずっとスライドにして保存して来ました。他にマルコとルカとヨハネの福音書の受難の箇所のスライドもあります。

これまで毎週土曜日に、翌日の礼拝用スライドをコツコツと準備して来ましたが、だいぶ前に、ある人から、聖書箇所のスライドは特に今度いつ使用するか分からないのだから保存しておいても意味がないのではないかと言われたことがあり、少しカチンと来たことがありました。しかし、何でももったいなく思う欲張りな私は、「大切に保存しておけば、いつか絶対に用いられる時が来る」と思って保存してきました。

そうしましたら先日ある方とお話をしている中で、自分も今度ローマの信徒への手紙からシリーズで宣教をするので、もし良ければスライド集をくださいと頼まれました。このことは、わたしたち二人にとって、お互いを喜ばせる大きな祝福となり、希望を持っていたわたしにとって、とても感謝なことでした。神様は、本当に不思議なことへと導いてくださいます。わたしたちもこの大久保教会が祝福され、豊かに用いられることを信じて、主に期待しつつ歩んでゆきたいと思います。

さて、1節から読み進めて参りましょう。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とのパウロ先生の言葉が記されています。ここにまた「強い者」という言葉が出て来ますが、紛らわしいですが、これは14章に記されている「強い人」という意味ではありません。14章の「強い人」は、教会の多数派の異邦人クリスチャンたちを指し、少数派のユダヤ人クリスチャンたちを「弱い人」とパウロ先生は指していましたが、この15章1節では、「わたしたち強い者は」とあります。つまりパウロ先生は自身をも含めています。ユダヤ人クリスチャンであるパウロ先生、つまり14章でいう「弱い人」が含められた「わたしたち強い者」ですから、ここでは違う意味での「強い者」であろうと考えることができます。

では、どのような人がパウロ先生がここで言う「強い者」でしょうか。答えは1節にあります。「強い者」とは、「強くない者の弱さを担う者であり、自分の満足を求めない者」です。つまり、自分を愛するように隣人を愛し、弱くされている人たちのことにいつも心を配っている寛容な人と言うことができます。

2節の「おのおの善を行って、隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」というパウロ先生の言葉は、隣人を自分のように愛し、私たちが互いに愛し合うことを他の言葉でリフレイズしたものです。ですから、パウロ先生が言う「強い者」とは、「日々善いことを行って、隣人を喜ばせ、互いの向上に努める者」と言うことができます。そう言う中で、では「行うべき善いこととは何か」、「隣人を喜ばせるとはどういうことか」、「向上に努めるという向上とは何なのか」という問いが浮かんで来ますが、パウロ先生は、第一に「キリストは」と3節で言っています。つまり、わたしたちがフォーカスすべきは主イエス様であるということです。また5節では「キリスト・イエスに倣いなさい」と言っています。

ここで2つのことが示されます。一つは、3節にある「キリストもご自身の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」と言う言葉から、イエス様はご自分のために生きられなかったと言うことです。では、誰のために生きられたのか。

パウロ先生は3節後半で「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と言う詩編69編10節を引用しています。「あなた」と言うのは神様のことで、「わたし」と言うのはイエス様のことです。神様をそしる者たちのそしりが、イエス様に降りかかった、これはつまりイエス様の十字架の受難を指しています。イエス様は誰のために生きられたのでしょうか。それは第一に、父なる神様のために生きられました。それはわたしたち人間に対する神様の愛の約束が成就するためでした。

第二に、わたしたち罪人のため、わたしたちを罪から救い出すためにイエス様は生きて、そして死んでくださいました。イエス様は、命をかけて神様を愛し、わたしたち隣人を愛してくださったのです。イエス様は、ご自分の命を通して神様の愛を私たちと分かち合ってくださいました。その生き様を通して、神様につながり、つながり続けることの喜びを私たちに分かち合ってくださいました。それは、すべて私たちが神様の愛に満たされ、神様が喜ばれる実を結び、永遠の祝福のうちに生きるためです。

もう一つ示されることは、主イエス様がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも隣人を愛する、互いに愛し合うということは大切であると言うことは分かるが、弱いわたしたちには主イエス様のように生きるということは大変難しいと言うことです。しかし、そのような弱さを持つわたしたちにパウロ先生は「キリスト・イエスに倣いなさい」と5節で言っています。つまり、難しいと簡単に諦めないで、とにかくイエス様をまず見なさい、毎日見続けなさい。イエス様の言葉や行いを真似する努力を惜しまないようにと言う励ましがここにあるということです。確かに「真似る事」さえも難しいと感じてしまうわたしたちですが、そのようなわたしたちを励まし、導くために霊の神であるご聖霊が与えられていて、このご聖霊がわたしたちを日々励まし導いてくださるのです。

また2節に戻りますが、「善を行うこと」というのは、必ずしも嬉しいことばかりではありません。喜ぶ者と共に喜ぶことは比較的簡単ですが、泣く者と共に泣くということは簡単なことではありません。苦しみや痛みを与える出来事であっても、そこには神様のご計画と備えがある、神様が万事を益に変えてくださると信じて、泣いたり、痛んだり、傷ついた人たち、決して強くない人たちに寄り添って共に生きてゆくことが善を行うということです。

また「互いの向上に努める」とあります。「向上」という言葉のギリシャ語を見ますと、「補強する、強化する、建て上げる」という意味の言葉が用いられています。つまり、互いに愛し合い、慰め合い、励まし合い、祈り合い、支え合い、仕え合って堅く建てられてゆくということです。

私たちは一人では生きてゆけません。共に生きる者が必要です。共に生きる者と神様から受ける恵みを分かち合うことで相手を喜ばせ、その喜ぶ顔を見て自分も喜ぶ。そのことを通して互いの心と人生をさらに豊かにしてゆくことに最善を尽くしなさいということです。恵みを分かち合う中で隣人が喜べば、神様も喜んでくださいます。私たちが恵みを分かち合うことを喜べば、神様も喜んでくださいます。しかし、わたしたちに恵みを分かち合うという思いを抱かせ、私たちの思いを一つにしてくださるのも神様です。

さて、4節に「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とあります。「かつて書かれた事柄」とはパウロ先生の時代では旧約聖書のことですが、今日においては旧約聖書と新約聖書と捉えて良いと思います。この旧約と新約聖書はすべて、私たちを教え、導くためのものだとパウロ先生は言いますが、私たちに一体何を教え、どこへ導くためのものなのでしょうか。

パウロ先生は4節後半で「わたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができる」と言っています。しかし、私たちの人生は、山あり谷あり、良い時があれば最悪と思えることもあります。嬉しいこともあれば、心が痛むこと、悩み苦しむこともあります。今までもあったでしょうし、これからもあるでしょう。しかし、聖書はイエス・キリストの生き様をわたしたちに語り、この主イエスから忍耐と慰めを学び、この主イエスを信じる信仰によって希望が与えられ、キリストの愛の力によってその希望を持ち続けることができると言っています。

聖書は、神様は愛であり、真であり、約束を必ず守る方であることを私たちに語ります。そして、聖書にはイエス様が私たちの真の救い主、キリストであること、この救い主を通して私たちは神様にどれだけ愛されているか、またこの愛・恵みを受けてどのように生きてゆくべきかが記され、またこの地上での歩みが終わる先に用意されている神の御国へと導き、永遠の命、永遠の祝福を受ける希望が記されています。

5節に「忍耐と慰めの源である神が」とあります。悩みや怒りや悲しみに打ちひしがれ、恐れや不安で満たされている私たちの心に忍耐と慰めを与え、希望を与えてくださるのが神様であると語られています。この恵み深き神様に、心を合わせ、声をそろえて賛美をささげ、礼拝をささげ、仕えてゆくことを私たちの喜び、生きる目的の一つとして共に歩んで参りましょう。

主イエス様が父なる神様を愛し、忠実に仕えられたように、私たちもイエス様に倣って、ご聖霊に日々助けていただいて、神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、このことを通して神をほめたたえて共に歩んでまいりましょう。イエス様と共に生きることがそれであり、イエス様を伝えることが神様と隣人を愛することであることを覚えたいと思います。