しかし、勇気をだしなさい・ムナのたとえ・

宣教「しかし勇気をだしなさい・ムナのたとえ・」 大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫 2023/02/19

聖書:ルカによる福音書19章11~27節(p146)

招詞:ヨハネによる福音書16章33節(p201)

 

「はじめに」

聖書朗読では、ルカ福音書19章から、主イエスがお話しなさった「ムナのたとえ」を読みました。

お聞きになりながら、皆様はマタイ福音書の「タラントンのたとえ」(25:14~)を思い起こしておられたのではないでしょうか。

この二つの「たとえ」はとても似ていますが、読み比べますと幾つかの違いがあります。

「タラントンのたとえ」では、主人が旅に出るため、家を留守にします。その家の三人の僕に対して、自分の財産を、各自の力に応じて五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けて出かけます。とても大きなお金額なのですが、これを使いなさいなどと、指示はしていません。

財産を預かった僕のうちの、ある者は商売をして利益を生み出しましたが、ただ隠しておくだけの僕もいました。それなのに、主人は帰って来ると、お金の清算を行い、成果を確かめて、僕たちを評価します。

 

一方、お読みした「ムナのたとえ」では、主人は十人の僕に対して均等に一ムナを預けました。ムナとは、とても小さな金額です。主人は、「これで商売をしなさい」と命じて旅立ちます。旅の目的は「王位を受けるために遠い国に行く」と明確になっています。

 

ふたつの「たとえ」で共通していることは、やがて主人は、必ず帰って来るという事です。そしてどちらも預けた金銭の清算をして、成果を確かめている事です。

更に、最も注目しなくてはならない共通のことは、三人目の僕の行動です。どちらも、「主人が厳しい人で、恐ろしかったから」と答え、お金を隠しておいたというのです。そのため、主人に厳しく叱られています。

このように、古い時代から今日まで、金銭を扱う仕事では、金額の大小にかかわらず、厳しく忠実に行うことが求められています。「ムナのたとえ」では、厳しい主人は、商売をしなさい、儲けなさいと言い残していきました。原語の、この「商売しなさい」という言葉には、深い意味が含まれているそうです。

「この社会の中で揉もまれてきなさい」という意味、「与えられたチャンスに挑戦してみなさい」という意味です。「商売をしなさい」」との言葉には、そのような意味が含まれているそうです。

ところが第三の僕が選んだのは、「何もしない」という生き方でした。第三の僕は、盗まれたり問題が起きたりしないようにと、安全なところに留まり、主人の帰りをただ待ったのです。帰って来た主人は、これをどう評価したのでしょうか。

主イエスは、わたしたちの王として、必ず帰って来られます。しかし、わたしたちにその時は分かりません。終末と言われるその日まで、どのように生きるのか、「ムナのたとえ」は、その生き方を示しています。

これを、今日のわたしたち、キリスト者に宛てた言葉として、この朝お聞きしたいと願っています。

 

「“ムナのたとえ”の時代背景」

ルカの物語を読んでいて、とても戸惑った個所があります。王位を受けて帰って来た主人が、反対者たちに対して行った惨むごい仕打ちのことです。『ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』(19:27)との言葉です。わたしは何度も、手前の26節で終えれば良かったのにと思いましたが、それは間違っていたようです。

この最後の言葉(27節)に関することを、『ユダヤ古代誌』の記述を基にしてお伝えします。

イエス・キリストの昇天後30年ほどしますと、ユダヤは占領軍ローマとの激しい戦闘を繰り返すようになり、AD70年には、エルサレムが陥落し、国家として滅びてしまいました。

その時代の人で、フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus AD37~100頃)というユダヤ人歴史家がいました。ヨセフスはユダヤの軍人として、激しい戦闘を経験してきましたが、70年の敗戦の後は、ローマ皇帝に保護されてローマに住み、歴史記述の書物を、30年かけ、合わせて20冊を書き残しました。

その中の『ユダヤ古代誌』には、「ムナのたとえ」の背景となった出来事が書かれています。

 

“たとえ”の初めにある「立派な家柄の人」とは、『ユダヤ古代誌』ではヘロデ大王の息子アルケラオです。

王子のアルケラオです。

アルケラオとの名は、マタイ福音書2章21,22節に一度だけ登場します。

ヨセフとマリア、それに幼子イエスの一家が、迫害を逃れてエジプトへ避難していましたが、残忍な仕打ちをするであろうアルケラオを避けて、ガリラヤのナザレに住むという場面です(マタイ2:13~23)。

 

『ユダヤ古代誌』によりますと、王子アルケラオは、自分こそが、父ヘロデ大王からユダヤ全土を引き継いだと自認していたので、ローマに赴き、ローマ皇帝の承認を得ようと旅立ちました。

ところが王子アルケラオは、国民に憎にくまれていたのです。王子が旅立つとすぐ、別の50人の一団が王子一行を追い抜いて先にローマに着き、「あの人には、王位を与えないように」と、皇帝に直訴してしまいました。

そのためローマ皇帝は、ヘロデ大王の息子三人に分割したユダヤの内、アルケラオについては王とはせずに下級の地位に留めました。この事を知ったアルケラオは、帰国するとすぐ、皇帝に直訴した反対派の50人を殺害したのです。これはユダヤ人にとって忘れることのできない、悲惨な出来事ととなりました。

『古代誌』にはそのように書かれていました。

 

著者ルカが記した「ムナのたとえ」には、こうした厳しい歴史的事実が織おり込まれています。そこには、主イエスの来臨を待ちつつ生きる人々と神の国を建設する教会が置かれた、その時代の厳しい一面を感じます。

しかし主イエスは、そのような厳しさの中を、悩みつつ生きるすべての僕たちに対して、「良い僕だ。よくやった。」(19:17)と、おっしゃりたいのではないでしょうか。

 

「ムナのたとえ」

前置きが長くなりましたが、必要と思われる聖書本文を辿たどってまいります。

19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。

主イエスが、徴税人ザアカイの話しをしていたときのことです(19:1~10)。主イエスには、人々や弟子たちが、「神の国はすぐにも現れるものと」思っていると感じました(19:11)。

 

「これで商売をしなさい」

そこで、「神の国はすぐにも現れるものと思っている」人々に向けて、主イエスは一つの「たとえ」を話されました。

人々や弟子たちに、主イエスの十字架の死が、あのエルサレムで待っているとは、まだ誰にも想像できていません。神の国はすぐには来ない、今は、待つことが求められるという忠告が、そこに表わされています。

19:12 「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。

19:13  そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金かねを渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。

王子は、仕えていた10人の僕たちに1ムナづつ分け与え、それを元手にして商売をするようにと命じて旅立ちました。その国では、後継者王子への反感がありました。僕たちは、彼らが仕えてきた主人が留守の間、主人に反感を持つ人々が大勢いる中で商売を続け、主人の帰りを待つことになったのです。

 

「三人目、ほかの者」

続いて15節~21節を読みましょう。

「19:15  さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」

ここからは、王となって戻って来た主人が、一人一人に問う場面です。

はじめに、1ムナで10ムナ儲けた人が進み出て誉められました(16,17)。「良い僕だ。よくやった。」(19:17)

次に、1ムナで5むな儲けた人が呼ばれ、同じように誉められました(18,19)。

続いて20節、三人目の僕です。

19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。』と答えました。

なぜか三人目の人からは、「ほかの者」と呼ばれます。

『布に包んでしまっておきました』と言うと、主人は言った。「あなたの言ったその言葉で裁こう」。

三人目の僕の問題、これは残りの者すべての問題のようです。主人の言葉をどう聞いていたのでしょうか。主人が裁く基準は、“お前は商売をしたのか”、“どれだけ利益を上げたのか”という事です。

確かに主人は、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』(19:13) と、命じていました。

「ほかの者」たちも、この言葉を聞き洩らしてはいません。ただ、失うことを恐れ、「包んでおいた」と言いました。しかも「あなたが恐ろしかったのです」とさえ答えました。

 

「ほかの者への裁き」

預けられた1ムナを使わなかった「ほかの僕」は、「悪い僕」と呼ばれています。(19:22)

しかし、不思議なようにそれ以上の裁きは受けていません。

「悪い僕だ!」、そのように呼ばれても、わたしの前を去れとまでは言われていないのです。

「悪い」という言葉には、「役に立たない」という意味があります。

「役に立たない僕だ!」と言われてしまいました。

ある方は、この箇所を、「お前には欠点はない。しかしお前は、魂を込めて仕えてこなかった」と言い換えていました。「心がこもっていない」と言われたというのです。

また、ある方は、「罪を犯してはいないが、失敗を恐れて何もしていない」と解釈していました。

多くの「ほかの者」たちは、「悪い僕だ」「役に立たない僕だ」「何もしていない僕だ」と言われていますが。なぜか彼らは、頭を挙げて、主人の前に立つことは許されているのです。

やがて、多くの「ほかの僕たち」は、「ご主人様、わたしは何もできなかった。あなたの預かりものを隠しておいたに過ぎなかった」、そのように告白していったように、私には思えてきました。主人は彼らを排除していないばかりか、その後、僕たちを励ましていったのだと思います。

「しかし、勇気を出しなさい」

今朝は、「ムナのたとえ」から導かれたみ言葉を、招詞としました。(ヨハネ16章33節b)

「 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

このみ言葉は、二十世紀最大の神学者と言われるスイスのカール・バルト(Karl Barth 1886~1968)が、ある日刑務所の礼拝で、囚人たちに送ったみ言葉です。

カール・バルトは、1954年頃、バルト65歳のことですが、突然、教会で説教することを止めてしまいました。そして、「もう、教会では説教はしない」と宣言までしたのです。その理由は、教会に集う人たちは、礼拝に心を込めていない、御言葉を求めていないと感じ、語る意欲を無くしたからだというのです。

心配した友人の牧師は、ある時、刑務所の礼拝にバルトを連れて行きました。バルトは、本当は嫌だったのですが、仕方なく友人に連れられ、初めて刑務所の礼拝の席に座りました。

その後、間もなくのことですが、その友人の都合で「わたしの代わりに、刑務所の礼拝で説教をしてほしい」と頼まれたのです。なぜか、それから11年間、年に三回といった程度ですが、刑務所での礼拝説教を続けました。

バルトは、刑務所の礼拝に関わったことについて次のように言っています。

「じっと今の状況を受け入れて待つ囚人たちの姿に、キリスト者本来の姿を見た。み言葉を求め、主の再臨を待ちつつ真剣に生きる、キリスト者本来の姿を見たからだ」と言っていました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

そしてバルトは、ある日の刑務所の礼拝で、主イエスの、このみ言葉を彼らに告げました。

 

わたしはこの言葉を、1ムナを預かったものの何もできず、ただ布に包んで隠しておいた僕たちに向けた、励ましの言葉として示されました。

ムナは、わたしたちの王から、わたしたちに預けられています。ムナは等しく、僕の一人一人に預けられました。これはわたしたち教会の歩みであり、キリスト者の人生を表しています。

 

王の位を受けて帰る主人、キリストの再臨を、福音宣教に励みつつ待つわたしたちの教会とキリスト者は、主キリストを受け入れない勢力に囲まれています。誤解され、無関心が覆っている中で、キリスト者は生きています。そのようなわたしたちに向けて、主イエスは、「 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と告げておられます。

主イエスはなぜこのように言う事が出来るのでしょうか。それは、審判者でもあるこのお方が、神の裁きを自らに受け、十字架に至るまで受け尽くし、わたしをすべての苦難から解放してくださった方だからです。

この主は、厳しい裁き主であるとともに、勝利者として、すでに、いまここに、わたしどもと共に居られるのです。それはゆるぎない事実なのです。

主イエスは、わたしたちに一人一人に「良い僕だ。よくやった。」(19:17)と、おっしゃりたいのではないでしょうか。

わたしたちは、この、主イエスに励まされ、心を込めて御言葉を求め、今与えられている道を、ご一緒に歩ませて頂きましょう。

【祈り】