できる限りのことをする

「できる限りのことをする」 四月第一主日礼拝 宣教 2022年4月3日

 マルコによる福音書 14章3〜9節     牧師 河野信一郎

おはようございます2022年度に入りました。新年度最初の主日の朝を、皆さんとこのように神様におささげできる幸いを神様に感謝いたします。先週は、子どもを含め31名の方々が礼拝堂に集い、共に礼拝をおささげできて感謝でした。また教会の定期総会も無事に終わって感謝でした。皆さんのお祈りとご協力に感謝です。一緒に集うことができるということは、本当に大きな恵みだと思います。今日は、様々な事情で礼拝を欠席しますと連絡をくださった方々がたくさんおられ、礼拝をご一緒できないのは残念ですが、お休みの方々が教会に戻れますようにお祈りしてまいりましょう。ただ、ここ最近感染者数がまた増加している状態ですので、不安のある方は無理せずにオンラインで礼拝をおささげいただきたいと思います。

さて、今朝の礼拝への招きの言葉は、今年度の年間聖句を読みました。お手元の週報の表紙左側に年間標語と年間聖句が記されています。標語は、「主の恵み深さを味わおう〜礼拝と証しを大切に生きる教会」です。聖句は、詩編34編の9節と10節です。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」というみ言葉です。

2022年度は、皆さんとご一緒に主の恵み深さを味わいたいと思います。そして数々の恵みをくださる神様に共に礼拝をおささげし、主イエス様を通して与えられる恵みを一人でも多くの人々へ証しすること、つまり礼拝と伝道を大切にしてゆく教会として共に歩み、成長させていただき、霊の実を結びたいと願っています。主の恵みは、どこにあるでしょうか。聖書にあります。イエス様を中心とする交わりの中にあります。日々の日常生活の中にあります。それぞれが生活の中で日々受ける恵みを持ち寄って分かち合う時、一人の喜びが教会の喜びとなり、礼拝の力となり、イエス様の素晴らしさを隣人と分かち合う力になります。詩編34編は、イースターが終わった後、5月に入ってから宣教させていただこうと計画しています。

さて、イエス様の十字架への道を覚える受難節もすでに5週目に入っています。次週の10日の礼拝は「棕梠の日の礼拝」としておささげし、翌週の17日は復活祭、イースター礼拝をささげます。皆さんとご一緒にイエス様のご復活を祝う礼拝をおささげしたいと願っていますが、その願いが神様の御心と一致しますように、ご一緒にお祈りいただきたいと思います。

さてさて先週のことですが、わたしの身近で3名の方が立て続けに天に召されて驚きました。そのうちのお二人は、97歳と94歳の元牧師の方々で、もうお一人はわたしたちの教会で誠実に仕え、協力くださっている宣教師の87歳のお父様です。急に召されましたのでとても驚きました。金曜日のお昼頃に宣教師ご夫妻のご自宅に行き、車で成田空港へご一緒しましたが、ご自宅でも、空港への車の中でも、祈りと沈黙以外に慰めることはできませんでした。

一番辛かったのは、愛するお父様の死を悼んでおられる姿を見ることでした。「秋にもう一度会えるかなぁと思っていました」という言葉にも心が締め付けられました。大切な友人が涙し、悼んでいる姿を見るのは本当に辛いことです。皆さんにも同じようなご経験があると思います。心が窒息しそうな感覚になります。しかし、神様がイエス・キリストを通して与えてくださる「復活の希望」は、愛する人との時間を感謝し、大切な人の死を悲しむ、その先にあります。悲しみに寄り添ってくださる復活のイエス様がいてくださること、聖霊が慰めと励ましを与え続けてくださるという神様の愛の真実さに真の希望があるのだと信じます。

さて、去る2月と3月の宣教テーマは、「無駄と恵み」というものでしたが、この間、祈りながら宣教の準備をし、皆さんにお伝えしようと目指したこと、それは救い主イエス様を通して神様から与えられている信仰、イエスのみ名によって神様にささげる祈り、礼拝、賛美、献金、働きはいっさい無駄とはならず、人生の中で起こる良いことも良くないことも全てが神様の愛とご配慮の中で益とされ、恵みとされるということを分かち合い、その恵みはこの地上だけにとどまらず、永遠に続く恵みであるということをお伝えすることでした。

神様を無視し、その愛を受け取らないで自分の知恵や経験や富という力に頼る人たちから、「信仰など持ってどうする。無駄だ。日曜の朝早くから教会に行って、礼拝して、賛美歌歌って、お祈りして、献金して、奉仕して、何の得になる。宗教なんぞに時間やお金をつぎ込んで無駄にしてどうする。自分のためにそういうものを使って人生を充実させたり、自分や家族の幸せを追い求めたらどうか」と言われるかもしれません。しかし、神様の愛と憐れみを受け取り、イエス様を通して与えられている救いと信仰を恵みとして感動しているわたしたちには、神様の愛から離れること、十字架に付けられた釘の傷跡があるイエス様の手を離すことはできません。それこそ神様の愛とイエス様の命の犠牲が無駄になってしまいます。

また3月は、「復活」ということが全体のテーマである第一コリントの15章から、イエス・キリストの甦り、復活は真実であること、故にイエス様の十字架の贖いの死と三日後の復活の奇跡、神様の愛を信じ受け入れる人の信仰は決して無駄にはならず、神様の御国を受け継ぐこと、永遠の命が与えられるという恵みをシリーズで宣教させていただきました。

先週の宣教では、人々が死人の復活、イエス・キリストの復活を信じることができないのは、イエス様の十字架の死と復活の本当の「意味と目的」を聞いたことがない、知らないからということをお話ししました。つまり、イエス様の十字架の死と復活は何のため、誰のためかを知らない、聞いたことがないから信じることができない、それはごく当たり前のことです。しかしその裏を返せば、イエス様の十字架と復活の本当と意味と目的、誰のための救いの業であるのかということを理解することができたら、人々は神様の愛と赦しを受け入れ、イエス様を真の救い主と信じることができるということではないでしょうか。

そして、その意味と目的について説明する、証しすることが、復活の主イエス様から託されたわたしたちクリスチャンの、キリスト教会の責任であり、果たすべき使命であるということが言えます。しかし、自分の力で生きている人々に説明したり、証しをするということは一筋縄ではいかないもので愛と祈りと忍耐が必要です。イエス様に常にお委ねしながら、日々祈りつつ取り組む働きであります。独りでできないことは、みんなで助け合って取り組むべき主から委ねられた働きであり、その第一歩は、共に神様を礼拝することから始まります。

さて、受難週を来週に控えておりますが、もう一度だけ「無駄と恵み」とテーマで、今回はマルコによる福音書の14章から宣教をさせていただきたいと願っていますが、このマルコ福音書14章と15章は、十字架に架けられるまでのイエス様の最後の48時間の中で起こった様々な出来事が記録されています。その一つ一つの出来事をイエス様はすでに知っておられました。ご自分の身にこれからの48時間で起こることすべてを神様から聞いて知っておられました。

しかし3年間ずっとイエス様の側にいて、イエス様の言葉をずっと聞いてきたはずの12人の男性の弟子たちは、イエス様のことよりも自分たちのことしか興味がありません。誰が弟子たちの中で一番なのだろう。イエス様がイスラエルを解放し、王位に立ったら誰がイエス様の右と左に座るのだろうと、いつもそういうことばかり考え、競い合っていました。

マルコ福音書14章の最初の区分となります1節から11節には、最初に祭司長たちがイエス様を殺す計画を立てていたことが記され、最後には弟子の一人であったイスカリオテのユダがイエス様を裏切り、祭司長たちに引き渡すチャンスを狙っていたことが記されています。神様に仕えるはずの祭司長たちが自分たちの利権のために神の子を殺す計画を立て、3年間もイエス様に従い、イエス様の言葉と行動、奇跡の業を見てきたはずの弟子がイエス様に見切りをつける。神様とイエス様の目からしたら、本当に心痛むことであったと思います。

しかし福音書の記者マルコは、この祭司長たちの憎しみとユダの裏切り・不信仰の間に、イエス様を信じ、愛し、イエス様に最善を尽くす一人の女性のささげものを記録しています。そうすることによって、今日を生かされているわたしたちがこの女性のように生きることが神様の御心であり、イエス様が喜ばれることであるということを伝えようとしています。そのことを今朝ご一緒に聞いてゆき、残された受難節を過ごしてゆきたいと願っています。

さて、3節を読みますと、「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」と記されています。

ベタニアはエルサレムから南東3キロの地点にある村です。ここでもイエス様は「重い皮膚病」を患う人に寄り添い、共に生きるように最後の時間を過ごしておられます。そのイエス様が弟子たちと食事をしている時に、「一人の女」が純粋いで高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、その壺の蓋を壊し、香油をイエス様の頭に注ぎかけます。ナルドの香油とは、ヒマヤラ山脈の高地3000メートル付近に生息するゴボウのような植物で、茎と根から香り豊かな成分を絞り、そのエキスを油と混ぜ合わせたもので、インドの貴族が香水、香料をして使っていたものが輸出され、パレスチナ地方でも高額で売られていた貴重品です。

そのような貴重品を持っているだけでも非常に驚きですが、それを名もない女性がイエス様の頭に惜しげも無く注ぎかけたのです。それは誰も見たことも聞いたこともない衝撃的なことであったと思われます。人というのは、特に男性は、意味や意図や目的が分からないことを見たり聞いたりすると混乱し、ストレスを感じ、それが怒りに発展する生き物のようです。

4節と5節を読みますと、その場所に居合わせた男性の弟子の何人かが、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨して女性を厳しくとがめたと記されています。男性の弟子たちは物事をすぐにお金で計算する癖があるようです。それだけお金に執着している証拠だと思います。

しかし、とがめられた女性は言葉を一言も発しません。記録されていません。なぜでしょうか。彼女は、自分がイエス様に対してしたことは無駄ではないと信じていたから、後悔など一切なかったからではないでしょうか。なぜ後悔がなかったのでしょうか。それは、愛するイエス様に自分ができる最善をささげたという気持ちがあったからではないでしょうか。イエス様を愛する気持ちはお金では換算できません。愛はお金より遥かに大きい「心」です。イエス様の命に比べれば、わたしたちの愛などもったいないこと、無駄なことはないのです。

そのような心のある女性を守るため、イエス様は6節から8節で、「言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた』とおっしゃいます。この言葉から分かるように、イエス様はご自分が亡くなることをしっかり受け止めておられます。

それでは、イエス様がおっしゃる「良いこと」とはいったい何でありましょうか。ある聖書では「美しいこと」と訳されていますが、良いことには二つあります。一つの良いことは貧しく、小さくされている人々に自分の持ち物を分け与えて仕えるということ。もう一つの良いこととは、主なる神様、主イエス様に最善をささげ、心をささげて仕えるということ、それは神を愛し、隣人を愛するという戒めに生きること、わたしたち教会にとっては、礼拝と伝道ということになると思います。それがわたしたちの「できる限りのこと」であり、わたしたちに対する御心、主の願いではないでしょうか。そのように聞こえます。

イエス様は、食事の場にいたすべての人たちに最後にこうおっしゃいました。9節です。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃいました。イエス様はここではっきりと宣言されるのです。「自分はこれから十字架上で贖いの死を遂げるが、父なる神様が死から引き上げて甦らせてくださる。そして十字架と復活の福音は忠実な弟子たちによって世界中へ必ず宣べ伝えられる。そしてこの女性が十字架の死の前に、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたということも記念として語り伝えられる」と。

十字架に死なれ、三日目に甦えられたイエス様を救い主と信じ、イエス様のために生きること、持ちものを主におささげすることに一切の無駄はなく、恵みとして語り伝えられる。この女性がそう願ったからではなく、神様とイエス様が彼女の心を喜び、主の御用のために彼女の最善を用い、神様の御心がこの地上に行われるために主が豊かに用いてくださるからです。わたしたちもそのような生き方を神様に求め、できる限りの良いことをささげましょう。