わたしのクリスマス

宣教「わたしのクリスマス」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫         2021/12/12

聖書:マタイによる福音書2章1~12節(新約p2)

招詞:イザヤ書55章6節(旧約p1152)

 はじめに

わたしたちは、間もなくクリスマスを迎えます。何時のころからか、この日を、神様の独り子の誕生を祝う日として喜び迎えるようになりました。

しかし、わたしたち一人一人に、救い主・主イエスが訪れてくださるのは、季節や定められた日付に関係はありません。主イエスは、ある時、突然のように、わたしたち一人一人を訪おとずれてくださいます。わたしたちがその訪れを受け入れるなら、主イエスは、一年中、いつもわたしたちの中で息づいて、生きる方向を示してくださいます。ここにおられるみなさまが、そのような、主イエスとの出会いを経験をしておられるのだと、確信しています。

わたしは、中学生になったときに、従兄に連れられて、初めてキリスト教会に行き、そこで初めて、主イエスのことをお聞きしました。

その集会の後は、何か胸騒ぎがして、胸がどきどきして仕方がありませんでした。うまく表現できないのですが、神様のこと、救い主のこと、人の生き方のこと、とんでもない大きなことを、一度に聞いてしまったと思いました。

帰りの道で、そう思い始めましたなら、なぜか走り出していました。10分ほど走ってそのまま家に帰り、布団の中にもぐり込んでしまいました。とても不思議な感覚の一日でした。

その翌週から、わたしは教会学校に通うようになりました。それから70年経ちました今でも、その日の教会の様子、その日の牧師の言葉や表情まで、鮮明に脳裏に浮かんできます。

そしてとても不思議なのですが、一年後にその教会から100mという、教会のすぐ近くに家が引っ越しをしたのです。そのため毎週土曜日の午後になると、神学生が私を迎えに来ます。“教会の掃除を手伝って”、“週報の印刷を手伝って”と呼びに来るようになりました。まるで教会の子どものようになっていました。時折、牧師が私の父と顔を合わせますと、「すみませんね。お子さんを教会で取ってしまったみたいですね」と言葉を交わしていました。

これが「わたしのクリスマス」でした。わたしはあの時「主イエスとの出会いがあった」と、やがて信じるようになりました。「わたしのクリスマス」を、大切にしてこれまで歩んできたことはまちがっていなかったと、今、感謝しています。

みなさまお一人お一人は、初めに、どのようにして“神の独り子主イエス”に出会われたのでしょうか。どうぞ、その、初めのことを大切になさってください。今朝は、そのような、最初の日の事を思い起こしつつ、お聞きいただければ幸いです。

 

「救い主を待ち望む人たち」

水曜の祈祷会では、この二週間、旧約聖書ミカ書がテキストでした。ミカ書には、救い主が現れるとの預言の言葉が書かれています。特に5章1節の言葉は、お読みいただいたマタイ2章6節に、ほぼそのまま引用されています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

「ベツレヘム」は、小さな村ですが、イスラエルの偉大な王、ダビデの出身地として知れわたっており、ミカはその地に、再び偉大な人物が現れると告げていたのです

この言葉は、イエス・キリスト誕生の700年前に、預言者ミカが告げた言葉です。

旧約聖書を読みますと、終りの日・審判の日に、救い主はどのようにして現れるのか、どのような“しるし”があるのか、様々な言葉で伝えられています。この救い主を待ち望む思いは、当時の世界に散らされたユダヤ人や、異邦人改宗者によって、世界規模で広がっていたと想像できます。

先ほどお読みいただきましたマタイ福音書2章に「東の方の学者たち」が、遠くから訪ね求めて来と記されています。古代世界の人々にとってメシアを求めることは、真剣に求める大きな課題となっていました。彼らにとっての“しるし”は「星」でした。ただ、「星」の現れを敏感に感じ取って立ち上がったのは、ユダヤ人でなく遠くの異邦人だけであったのです。

 

「クリスマスの出来事」

暫く、聖書の順に従ってお話させていただきます。

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

2:3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

東方の学者たちは星を観察しながら旅するうちに、その星に導かれ、ユダヤまで来ていました。

「占星術の学者たち」と紹介されていますが、原語では「マゴイ」です。「マゴイ」は、「マジック」の語源となった言葉で、「星占い」あるいは「医術者」を表します。そのような彼らですから、エルサレムに近づくとすぐ、ヘロデ王の耳に入りました。

彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と言いました。学者たちのこの言葉を聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。(2:3)。

学者たちは、現在の王を前にして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と、問うたのです。ヘロデ王が不安をいだきドキッとしたのは当然です。自分こそ王なのに、「他に王が生まれた」と聞いたなら、心中おだやかではおれません。幾つかの聖書は「不安を抱いた」ではなく、「これを聞いたヘロデ王は“うろたえた”。」と訳しています。

それだけではありません。「エルサレムの人々も皆、同様であった」と綴つづられています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」との言葉に、エルサレムの人々もみな“うろたえた”のです。なぜでしょうか。それは、まさか今この時に、預言されていた救い主・メシアが現れるとは、誰も信じていなかったからではないでしょうか。「今現れることはない」と、みな思っていたから、“うろたえた”のです。

これは他人ごとではなく、わたしたちの問題でもあります。わたしでしたら、「ちょっと待ってください」と言いたくなります。救い主は終りの日に裁きをするために現れるのです。わたしたちは胸を張って、「救い主よ、どうぞいつでもおいで下さい」と言えるでしょうか。そのような事が問われる出来事です。

 

「ヘロデ王の策略」

“うろたえた”ヘロデ王は一つの策略を思いつきました。

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

集められた学者たちの答えは一致していました。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

ミカ書(5:1)の言葉で答えたのです。祭司や律法学者たちは皆、良く知っていたです。ところが、彼らの中では誰一人として立ち上がり、ベツレヘムに行こうと言う者はいなかったのです。

ところが、ヘロデ王だけは敏感に反応しています。ベツレヘムは、かつての大王、ダビデの出身地です。「その地に新しい王が生まれる」。その言葉に触れて、ヘロデ王の心は穏やかでなくなっていました。そしてこの情報が正しいなら、新しい王は既に、ベツレヘムに生まれているはずだと確信したのです。

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

ヘロデ王は、目立たぬように学者たちを集めて調査を委ね、「わたしも行って拝もう」と言いました。ヘロデの内心は、この言葉と違っていたのは明らかです。そこには「見つけ次第に、直ぐに行って『幼な子の命を奪おう』」との魂胆が透けて見えます。

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた

学者たちが星を頼りに、遠い東の国を旅立つ時の目的は何であったのでしょうか。「わたしたちは東方でそ方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いました。「救い主・メシアを礼拝するときがやってくる」、ユダヤ人でない人たちが「礼拝するときが来た」と信じたのです。

東方の学者たちは、祭司長や律法学者たちのように、ただ知っていたというだけに留まらず、星の導きを受けてただひたすら、それに従い、求めて進んだのです。

 

「宝の箱」

2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

砂漠の道を進む困難な旅が続きました。しかし「礼拝するために行く」と言う学者たちの目的は、揺らぐことはありませんでした。その目的を果たした後、はるばる背負ってきた「宝の箱」を開けて、三つの贈り物をささげました。

みなさまは、「宝の箱」とは何であると思われるでしょうか。先ほど申しましたように、2章1節に「占星術の学者」とあり、原語では「マゴイ」と呼ばれる「占い者」です、この箱は「星占いの道具」でした。贈り物の一部には、古代の、限られた貴重な薬品も入っていました。 

「黄金と乳香、没薬が入っていた」とあります。イザヤ書60章5節には、「終末のとき、異邦人が、救い主に黄金と乳香をささげる」と書いてあります。この二つは、主イエスこそ、まことの王であり、神であることを現しています。

三つめの「没もつ薬やく」は、「ミルラ」という薬品で、特に、死にゆくものに必要な、強い香りの薬品です。王であり神である者が、「死すべき人間」となってここに現れたことを「没もつ薬やく」は表しています。

学者たちは、ユダヤ人の王・約束のメシアとして生まれた幼な子に、世界のすべての人に救いをもたらす光を見い出しました。誕生の祝いに駆けつけた学者たちは、これらの品を、幼な子主イエスにささげました。

 

「別の道を通って」

2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

ここに「別の道を通って」とあります。学者たちは感動をもって贈り物をささげ、そのあとどうしたのでしょうか。彼らが背負ってきた品は、星占いの道具や、医術のための品であるならば、彼らにとって一番大事なものを、皆、主イエスにささげてしまったことになります。

このことから、「別の道を通って帰って行った」という言葉は、彼らが「全く新しい人生を歩むように変えられた」と理解されています。学者たちの、主イエスとの最初の出会いは、新しい人生の出発の日になったのです。

ヘロデ王は一番大切な自分の命を守ろうとして、それにしがみつき、不安になり、“うろたえ”て主イエスを排除しようとしました。

一方で学者たちは、最も大切なものを主にささげ、イエス・キリストを自分の中に受け入れました。そして大きな喜びにあふれ、しっかりとした足取りで、礼拝者としての歩みを踏みだしました。

わたしたちは、主日ごとに礼拝を守ることによって、気づかないうちに、自分の大事なものを神にお捧げしているのです。わたしはそのように思います。

わたしたちにとって、クリスマスが、「わたしのクリスマス」となるように、求めていきましょう。喜びにあふれ、確信をもって、この年もクリスマスを迎えましょう。

【祈り】