わたしの主、キリスト

「わたしの主、キリスト」 1月第三主日

宣教要旨   2015//1/18    ピリピ書3章5-9節(口語訳聖書p311)  副牧師    石垣茂夫

ピリピ3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

 3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 

わたしたちは、信仰に導かれることによって、これまでとは違う角度から物事を見るようになるなど、自分が変えられたと思うことがあるのではないでしょうか。たとえ、パウロのように劇的な変化ではなくとも、信仰によって「心に変革が起る」ということは絶えずわたしたちの中におきることとなりました。

パウロは、ピリピ3章5,6節で言っていますように、「わたしは骨の髄まで、生粋のユダヤ人だ」と言い、「律法を守ることにおいては、わたしの右に出る者は無い」と言わんばかりに、自分を誇ってきました。しかしキリストを知ってから、それらの誇りとしてきたことを、“ふんど”のように思い決別していきました。

実は、聖書の「知る」という言葉は、単に頭の中で知り得たということではありません。

夫婦の結びつきや、全人格的な交わりが、そこに起きたことを現わしています。「アダムはその妻エバを知った(創世記)」と、そのように使われています。頭の中だけでなく、人間の全身をもって知るという意味がその言葉にあります。

キリストに出会う前のパウロは、主人公はわたしであって、信仰までもが自分が支配できると思っていたのでした。成功も不成功も自分次第という、自分が主人公という思想に生きていました。

9節に、「信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見出すようになるためである」(3:9)とあります。

パウロはこれまでのことをかなぐり捨てて、キリストと共に在る「今」を歩むように変えられていました。パウロですら、現在進行形です。

「変革を可能にして下さるキリストを見なさい。キリストに出会いなさい。そしてキリストを徹底して知りなさい、キリストを求めなさい。その時あなたに変革がおきる」とパウロはわたしたちに呼びかけています。

わたしたちひとり一人が、しっかりとキリストに捉えられましょう。

キリストがいかなる場面でも「わたしの主」となってくださるよう、キリストに在る今を、一瞬一瞬を、導かれ、神さまの業に共にお仕えして参りましょう。

体の全身をもって主を賛美しつつ、今与えられている恵みの中を、ご一緒に歩んで参りましょう。