わたしは、いったい誰?

「わたしは、いったい誰?」 九月第一主日礼拝 宣教 2019年9月1日

 コロサイの信徒への手紙1章14節             牧師 河野信一郎

 先週の水曜日の夕べの祈祷会で、このような新しい出会いが与えられました。Sさんという九州の大学で仕事をされている方が、奨励と分かち合いが終わって、祈祷会があと10分ほどで終わるぐらいに玄関を開けて入って来られました。月曜日から出張で東京に来られたそうです。せっかくですので、他の出席者の方と一緒にお祈りをし、いったん祈祷会を閉じてから、1時間ほど彼とお話をしました。なぜ彼を引き止めたかと云いますと、最初のお祈りの時に彼は、「主よ、わたしはいま霊的飢えを感じていますから、どうぞわたしの心をあなたの愛で満たし、飢えから解放し、心を喜びと平安で満たしてください」とお祈りされましたので、わたしは「このままでは帰らせられないなぁ」と思ったのです。

初めてお会いしたのに、彼と話してゆく中でたくさんの共通点があって驚きましたが、彼のほうがわたしよりも驚いたようで、終わる時にもう一度一緒にお祈りしましたが、彼は「神様、感謝いたします。今夜、大久保教会へ導いてくださり、わたしの必要を満たしてくださり感謝します」と祈られ、硬く握手した後、とっても素敵な笑顔で帰って行かれました。わたしは、彼と別れる前に、福岡から東京に上京する人たちに「大久保教会へ一度行ってみて」とぜひ勧めてほしいと頼みました。

この東京、首都圏には、心に虚しさや飢え渇きを覚えている人たちがたくさんおられます。不安や孤独感や心の飢え渇きをどこへ持って行って良いか知らない人が多くおられます。自分がそういう状況の中にあることさえ分からない人、あるいは分かっていても認めたくない人、逃げ回る人、ひた隠しにしてとことん頑張る人、その反対に世捨て人というか自分の殻に閉じこもってしまう人がいます。そういう人たちとどのように出会って関わってゆくことができるか、とってもハードルの高い課題です。しかし、決して無視してはいけない課題です。自分の心の中にある飢え渇きを認めて、それを満たしてくれるものを探すことができる人はサバイバルスキルのあるすごい人だと思います。しかし、そういう人ばかりではありません。

さて、今日から新しいシリーズを始めてゆきます。前回のシリーズでは、わたしたちが礼拝をおささげしている神様、イエス様はどのようなお方であるかを一つのテーマとして聴きましたが、今回のシリーズでは、「わたしは、いったい誰か」ということに注目してゆきたいと思います。

皆さんは、それぞれ何十年も生きてこられていますが、ご自分が誰であるか、いったい何者であるのか知っておられるでしょうか。本当に知っておられるでしょうか。もしかしたら、わたしたちは自分のある一部分だけしか把握していないかもしれません。皆さんは、スマホか携帯電話をお持ちだと思いますが、ある専門家がわたしたちユーザーはスマホや携帯電話の機能を全て知り尽くしておらず、全体の10〜15%の機能しか使いこなせていないと言っていました。わたしもスマホを持っていますが、おっしゃる通り、必要最低限の機能しか使用しかしていなくて、多分5%ぐらいの機能しか使用していないと思います。それらの機能やアプリケーションを紹介し、本当の意味でスマートな使い方ができるハウツー本が数え切れないほど出版されています。ある本は、「スマホのバイブル」という名前がついていたりします。

では、本当の「聖書」はわたしたちのことをなんと言っているでしょうか。旧約聖書の創世記1章と2章をみますと、わたしたち人間は神様によって創造されたと記されていて、わたしたちはそれを真実して信じています。では、それ以外に聖書はわたしたちのことをなんと記しているでしょうか。このシリーズでは、神様は何とおっしゃっているかを聖書のいたるところから聴いてゆきたいと思っていますが、「わたしはいったい誰か」ということを聞く時、二つの側面から自分を見つめ直すことができると思います。それは、イエス様を救い主と信じる前の自分と信じた後の自分です。もう少し言葉を変えて云いますならば、イエス様に結ばれていない時の自分と結ばれた後の自分ということです。

イエス様に結ばれていない時の自分というのは、自分の自己理解の中で、自分の思いや考えや直感の中で好き勝手に生きてきた自分という意味です。イエス様に結ばれた後の自分というのは、イエス様に出会うまでの自分の生き方を悔い改め、すべてを主に委ねて、主イエス様に従って歩む自分という意味です。つまり、わたしたちが本当の「自分」を見つけ出し、いったいわたしは誰なのかということを知る唯一の方法は、イエス様につながって、イエス様を通してわたしたちの創り主である神様に聞くしか方法はないのです。わたしたちが輝いて生き、神様からいただいている全機能、才能などのフルポテンシャルを発揮するためには、わたしたちについて聖書に記されていることを聞いてゆくしか方法はないのです。

聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻あります。それなのに、「どうしてコロサイの信徒への手紙からこのシリーズを始めるの?」と不思議に思われる方も多くおられると思いますが、答えはいたってシンプルです。わたしたち大久保教会の年間聖句がこのコロサイの信徒への手紙から導かれて与えられているからです。わたしたち大久保教会の2019年度の目標は、「神の御心に従って歩もう」ということで、1章9節の後半から10節が大久保教会の年間聖句です。「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」 

この言葉に大切なことが記されています。わたしたちが本当の自分を知るためには、まずご聖霊に満たされ、このご聖霊からいただく知恵と理解力が必要であること。わたしたちが本当の自分、神様の望まれる自分を見出して、十分に悟り、神様に喜ばれるように生きるためには主イエス様にしたがって歩むしか方法はない、そして神様の御心というのは、わたしたちがあらゆる善い業を行なって実を結ぶことであるということ。主イエス様に従って歩む時、わたしたちは神様の御心だけでなく、神様をより深く知ることができ、そしてそれが実際にはさらに本当の自分を知ることにつながるということです。大切なのは、イエス様を救い主と信じて、この主イエス様に結ばれ、つながることなのです。このことによって初めて聖霊に満たされ、神様を知り、本当の自分、何をなして生きることが大切なのかが分かるのです。

今朝の残された宣教の中心となるのが、今朝与えられているコロサイの信徒への手紙1章14節でありますが、まず2節に注目したいと思います。そこには、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟姉妹たちへ」というパウロ先生の挨拶の言葉があります。パウロ先生は、ここでコロサイという土地に生きているクリスチャンたちを「聖なる者たち」、「キリストに結ばれている者たち」と呼んでいます。これは現代を生きるわたしたちを呼んでくださる呼び名でもあります。わたしたちは「聖なる者」、「キリストに結ばれている者」であることを今朝覚えて感謝したいと思います。そしてもう一つ、わたしたちが「聖なる者」、「キリストに結ばれている者」となるために、創造主なる神様と救い主イエス・キリストは何をしてくださったのかを覚えたいと思います。それが13節と14節に記されています。

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」とあります。神様は、わたしたちを闇の力から救い出してくださったとありますが、「闇の力」とは、サタン、罪の力という意味です。その闇の力からわたしたちを救い出し、イエス様の支配下に移してくださった。そしてわたしたちが罪の力と支配から解放するために、イエス様がわたしたちの身代わりとなって贖いの死を負ってくださり、このイエス様の死と聖めによって罪の赦しを得ているとパウロ先生は言っています。

最後に21節と22節に注目して終わりたいと思います。パウロ先生はそこで「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と言っています。

わたしたちはイエス・キリストにあって「聖なる者」、「キリストに固く結ばれている者」であること、主イエス様によって「神様との和解が与えられた者」、「きずのない者」、「とがめるところのない者」とされていることを覚え、感謝したいと思います。

これらは、わたしたちから出たことではなく、神様から出た驚くべき「恵み」であることを覚え、心から喜び、主に感謝し、神様の御心とイエス様に従って共に歩ませていただきましょう。そのように歩む時、神様はわたしたちの霊的飢え渇きを愛で満たし、本来わたしたちがなすべきことへと導いてくださり、神様の喜ばれる実を結ぶことができるようにしてくださいます。主イエス様によって「赦され、愛され、祈られている」ことを信じ、平安に生きる者とされましょう。共に歩みましょう。