イエスが歩まれたように歩む

「イエスが歩まれたように歩む」 七月第五主日礼拝 宣教要旨 2016年7月31日

ヨハネの手紙一 2章1〜6節       牧師 河野信一郎

ヨハネは6節で、「神のうちにいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」と言っていますが、これは強制的な言葉ではなく、むしろクリスチャンにとって必然的なことであります。その根拠・理由は簡単です。イエス・キリストを救い主と信じているすべての人は主イエスにいつもつながっている、つなげられているからです。主がわたしたちの手をしっかり握っていてくださいます。わたしたちの傍らにはいつも主がおられますから、わたしたちは主をいつも見上げ、敬畏をもって生きるべきです。

主イエスがすぐ横にいる時、わたしたちは変な行動をとったり、卑猥な言葉を口にするでしょうか。しかしながら、主のご臨在を忘れてしまう時に、わたしたちを神から引き離そうとする悪い霊が忍び寄って来て、有りとあらゆる方法で誘惑してきたり、戦いを挑んできて、それに対応する中で心が乱れ、乱暴な言葉と行動がその心から出てしまいます。ですから、日ごとに聖書の御言葉に聞き従うことと主に祈ることに生きてゆく必要があるのです。神を信じて、委ねて、主イエスの名によって祈る時、神が不思議な御業を成して下さいます。

さて、1節に「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」とヨハネが書いています。「わたしの子たち」という言葉にキリスト者たちをかけがえのない我が子のように深く強く愛する愛が伝わってきますが、同時に我が子の信仰、信仰の命を守るために戦う姿も見えてくるように思います。

ヨハネが生きた時代と変わりなく、今の時代も異端がはびこり、不道徳な営みが絶えず、自己中心的で、隣人に無関心、自分以外の命を大切にしない人、自分と違う人を疎ましく思ったり、憎しみを抱く人が増え続けています。平気で人を傷つけたり、命を奪う人がいます。わたしたちはこの時代に生きる人のために、特に神の愛を必要としている人たちのために、また主にある兄弟姉妹たちのために祈る必要があります。しかしながら、サタンはわたしたちの心の隙間、気の緩みにさっと入り込んできて、罪を犯させます。罪を犯したくなくても、罪を犯させる力がサタンにはあって、このサタンに勝利できるのは神と主イエスだけです。いや、主イエスと神はすでに勝利を収めているとヨハネ福音書16章33節で主イエスが宣言されています。ですから、わたしたちは絶望しなくて良いのです。共におられる主に助けを求め、信じて従ってゆけば良いのです。

2章1節の後半と2節には、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」とあります。わたしたちに伴ってくださる主イエスが、同時に神のもとにもおられ、わたしたちの弁護をしてくださる。わたしたちのために執り成してくださる。この主がわたしたちの罪を贖ってくださり、憐れみのうちに救ってくださったのだから、これからは罪を犯さないように生き、主の平安のうちに生き続けなさいと励ましをわたしたちは受けています。

それでは、わたしたちが罪を今後犯さないようにするために必要なこととは何でしょうか。答えが3節から6節に記されていますが、つまり「神の掟を守る」ということです。旧約聖書には、613の掟が記されていますが、248は「〜しなさい」という掟で、残りの365は「〜してはならない」という掟です。しかし、ヨハネがここで言っている「神の掟」というのは、614番目の掟で、主イエスが弟子たちに与えられた掟です。その掟がヨハネ福音書13章34節と15章12節に2回にわたって記されています。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛してように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟です。「あなたがたが互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、みんなが知るようになる」と35節で主イエスはおっしゃいました。

この愛し合いというのは、わたしたちの感情で愛し合うということではなく、愛の源である神からまず愛を受けて、神の愛をもって愛し合うということです。わたしたちの感情にむらがあり、限界がありますが、神の愛には一切のむらも限界もありません。サタンの攻撃にさらされていたキリスト教会に対して、ヨハネは「あなたがたが神の愛を受けて愛し合わないで、どうして良い証しができるでしょうか?」と問うておられます。大久保教会はどうでしょうか。

「神を知っている」と3節と4節にありますが、ここには「神のことを知っている」とは記されていません。「神のことを知っている」とは、知識的に知っているだけのことですが、「神を知っている」とは主なる神を信じているということです。I know about God とI know Godでは、大きな違いがあります。

神を、そしてイエス・キリストをただ知識として知っているだけでは救われないのです。神を、そしてイエス・キリストを救い主と信じる人は救われ、その人の心は喜びと平安と希望で満たされ、神の憐れみの中で心から愛し合うという恵みが与えられてゆきます。

「神を知っている」と言いながら、主イエスの新しい掟を守らない人は、偽クリスチャンであって、その人の心は空しさで満たされているはずです。けれども、神の愛を受けて、その愛で愛し合う人たちには更に豊かに神の愛が注がれてゆき、祝福を受け続けます。

わたしたちに大切なのは、「救い主イエス・キリストが歩まれたように歩み続ける」ということです。福音書から、主イエスが地上での歩みをどのように続けられたのかを日々の生活の中で聞き、神に祈る生活を送りましょう。わたしたちは、主イエスにゆるされ、愛され、祈られていること、恵みのうちに生かされていることを感謝いたしましょう。