イエスこそ命のパン

宣教要旨「イエスこそ命のパン」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫  2020/02/09

聖書:ヨハネによる福音書6章1~15節(174p)

 

お読みいただきました聖書箇所は「男5000人に食べ物を与える」という「奇跡物語」です。

多くの方が、これまで何回もこの箇所をお読みになり、説教としてお聞きになって来られたことでしょう。初代のキリスト教会の人びとは、困難な時や、信仰を失いそうになったときに、この奇跡物語を思い起こしては慰めを与えられ励まされてきたと言われています。

わたしが「同じ個所からの説教は、今日で三回目なのです」と、そのように申しても、どなたも覚えておられないと思います。実は昨年の2月、丁度一年前に、「ルカによる福音書」の記事から説教させていていたのです。私は、そのことすら随分と前の事と思っており、説教の内容をすぐには思い出せませんでした。

「覚えている説教」

これは余談ですが、9年前、わたしの神学校での卒業が近くなったころの、「日本の教会史」というクラスでのことですが、「覚えている説教がありますか」という問いかけがありました。

明治時代以来の日本の代表的な説教者の中から一人が割り与えられ、その方の説教の一つを選び、それを要約し、加えてその方の働きを調べて発表するのです。代表的な牧師の説教に触れる印象的な実りある授業で、一年間続きました。最後の授業の日、先生を囲んで、5人の学生が食事会をしました。料理を待つ間に、先生がこう質問しました。「突然ですが、今日は、皆さんが覚えている説教を一つ、思い出して話してください」と、こう言われました。

「覚えている説教・・・」。もしも皆さんが、もし、そのように問われましたならどうお答えになりますか。「覚えている説教・・・」・・・そこにいる学生は、皆、考え込んでしまいました。私は一つだけ、中学生の時、初めて行った教会の、初めての説教について短く話しました。その説教だけは不思議と、鮮明に覚えていると、わたしが話しましたが、後の人みなさんが「覚えていない」「覚えていない」「覚えている説教はないなあー」と言って終わってしまいました。

神学校を巣立って、これから礼拝の説教をすることになる人たちに、先生は敢えて「覚えている説教はありますか・・・」と問いかけて、そのあと、多くを語られませんでした。

「説教とは、その日の、一回限りのことであり、覚えているかいないかではなく、そこで皆さんが一つとなって神を礼拝できたか、それが大事なのではないか」、先生は、そう伝えたかったのではなかったのかと、少し後になってそのような感想を持ちました。

「最も愛されてきた物語」

わたしたちの記憶というものは、よほど強烈な印象でなければ残ることなく、みな忘れられていくと思います。ご承知のように、新約聖書には四つの福音書が編集されていますが、福音書は、みな主イエスの事が書かれていますが、それぞれ書かれた教会の状況や時代による特徴がみられ、書かれていることが全て共通している訳ではありません。その中で、すべての福音書に共通する記事が二つだけあります。二つだけですと言ってよいのでしょう。その第一は、何といってもイエス・キリストの十字架の死と復活の記事です。そしてあと一つ、四つの福音書すべてに登場する記事は、この朝のテキスト「五千人にパンを与える奇跡」なのです。

全ての福音書に「五千人にパンを与える」奇跡が記録されている、これは何を物語っているのでしょうか。最大の理由は、“この奇跡を経験した人たちに、強い印象を与えたということです。もう一つの大きな理由は、それぞれの時代の教会のとクリスチャンたちは、この奇跡によって、おおいに励まされ、信仰を貫いてきた”ということです。キリストの心が明確に表された奇跡であった故に、最も愛され、語り継がれてきた物語となったのです。

「わずかな食べ物を持つ少年」

今朝は、ヨハネによる福音書の「五千人にパンを与える奇跡物語」を取り上げています。不思議なのは、他の福音書に比べて、このヨハネ福音書では、イエスが奇跡を行わなくてはならないという切迫感がありません。むしろ、“間もなくごはん時になるよ”、“そろそろ食事の事を考えなければね”という程度の状況です。この状況の中で、何が問われているのでしょうか。

お読みいただいた箇所で、最も印象的な場面は「わずかな食べ物を持つ少年」の記事ではないでしょうか。イエスは、何かの必要があって、ご自分から人々に食べ物を与えようとされました。最初は人の計画を探りましたが、これがかなわないことをはっきりと示されました。

そこでイエスは、ご自分の力をもってそこに居た人々を養いました。イエスは、何もない所から人々に与えたのではなく、今ここにあるかなもの、かではあっても、今確かにある五つのパンと二匹の魚を用いられました。かではあっても確実にあるものを用いて、この奇跡を生み出されました。そこが重要なのです。まことに興味深いことです。

ただ、そうした、生活が苦しいという問題がこの場の中心的な問題ではありません。

ヨハネ福音書が書かれた時代には、既にクリスチャンたちは、ユダヤ教を中心にしたユダヤ社会から追放されていたのです。社会から見放され、数も少なく力もない群れであったのです。そうした教会を励ましたのがこの「奇跡物語」でした。教会全体の信仰が沈んでいくようなときにこそ、わずかなものを用いて、主イエスご自身の業をすすめていかれた「五千人にパンを与える奇跡」に、ヨハネの教会のひとたちはどれほど大きな慰めと励ましを得たことでしょう。

わたしたちは、この時の少年のように、この僅かなものであってもと、主の前に差し出していく勇気を持ちたいと思います。

招詞でヨハネ6章35節を読んでいただきました。

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

イエスは、日々の、パンを与えるだけではありません。イエスは、十字架の死と復活をもって、ご自身が、私たちの「命のパン」となりました。しかし多くの人々はこれを信じようとせず、受け取ることを拒んでいます。

私たちの命は死をもって終わりますが、その様な限りある命の中に、永遠につながる命が与えられているのですよと、主イエスはヨハネ福音書で告げています。

ヨハネによる福音書その全体のテーマを一言で言うならば、「永遠の命」でありましょう。

私たちは、「命のパン」である、主イエスを受け取りましょう。「命のパン」に生かされて、感謝して「永遠の命の中を歩ませて頂きましょう。