キリストにあって、それでも神に感謝し続ける

「キリストにあって、それでも神に感謝し続ける」 10月第一主日礼拝 宣教     2018年10月7日

ローマの信徒への手紙7章7節〜25節       牧師 河野信一郎

今朝もご一緒にローマの信徒への手紙を読み進めてまいりたいと思いますが、今回は、7章7節から25節を通して、神様の御心を探って参りたいと思います。

新共同訳聖書には便利な見出しがついていて、今回の箇所には「内在する罪の問題」という見出しがありますが、私は最初、言葉が不十分な見出しであると思いました。本来は、「パウロに内在する罪の問題」という見出しが適切であると思います。しかし、この見出しをつける担当者たちは、多分、内在する罪の問題というのは、使徒パウロだけにあった問題ではなく、すべてのキリスト者、クリスチャンに内在する問題であると理解して、あえて「内在する罪の問題」としたのだと思われます。

 

ローマの信徒への手紙は、7章までが神学的でちょっと難しい内容ですが、8章から11章は神学的なこととキリスト者の実生活のことがうまく溶け合っている箇所です。そして12章からはキリスト者の実生活について、つまり私たちがどのように「主の恵みに応えて生きてゆく」かが語られていますので、だんだんと内容が具体的に、そして分かりやすくなってきます。今朝で7章が終わりますので、もうしばらくの辛抱です。

さて、7章の前の章、6章では、イエス・キリストを信じ、神様の恵みに生かされている者は皆、「罪と死から解放され、新しい命と自由が与えられている」ということ、そして「奴隷の身分から解放され、新しい命に生きる自由が与えられている」ということがテーマとなっています。

使徒パウロが6章で最も主張したいことは、「罪と死から、奴隷の身分から解放された者は、新しい命に生かされているから、その恵みに日々応え、神様に従順に生きなさい」と言うことです。

そして、先週聴きました7章1節から6節のテーマは、「キリスト者はユダヤの『律法』からも解放されている」ということでした。生まれてからずっと律法のもとに生きているユダヤ人クリスチャンたちにとって、律法を守ることは、確かに大変ですけれど、とても難しいことではありません。しかし、律法のもとに生まれず、ずっと律法と無縁で生きてきた異邦人のクリスチャンたちにとっては、とっても大変で、難しいことです。

しかし、ローマの教会内で深刻な問題になったのは、ユダヤ人クリスチャンたちが、異邦人クリスチャンたちに対して、ユダヤの律法を守ることを強要しようとしたと言いましょうか、守ることを当たり前のことのように望み、期待し、律法を守れない異邦人クリスチャンたちを簡単に裁き、勝手気ままに批判し、主にある兄弟姉妹をあざけるような態度に出たということがあります。

つまり、律法が人を裁く道具、人を批判する基準、自分と人を比べ、相手をあざける手段になってしまい、人を祝福して生かしたり、人の徳を高め、互いの徳を喜び合ったり、共に平和を構築するのではなく、人を不幸にし、人を傷つけ、人の命を奪うもの、「命をもたらすはずの掟が、死に導くもの」になってしまっているとパウロ先生は7章10節で嘆くのです。この状態では、神様の愛とキリストの赦し、イエス様の十字架と復活の上にキリストのからだなる教会を形作ることはできません。

しかしそれでもパウロ先生は、12節で、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」と言っています。

律法、掟は本来、神様から与えられた聖なるもので、正しく、善いものなのに、ユダヤ人クリスチャンたちがその律法を自分勝手に解釈し、ゆがめ、人を裁き、人を苦しめ、霊的死に至らせる道具として使っているので、本来、命をもたらすはずの掟が、死に導く非常に残念で、悲しむものになってしまったとパウロ先生は言うのです。

私は、このことをどうやったら皆さんに理解してもらえるであろうかと1週間考えましたが、良い例を見つけることができませんでした。しかしそれでも、一つの例をあげてお話ししたいと思います。

前のスクリーンに、私の先週の主日から昨日までの主だった仕事を言葉にしてみました。

先週の主日は、宣教だけでなく、バプテストリーの掃除や水を入れること、午後は昭島めぐみ教会の牧師按手礼感謝礼拝に出席、夕方に帰ってきて少し仮眠をとり、ロスアンゼルスの日本人教会への宣教の準備とインターネットを介しての宣教を夜中の1時半から2時半まで。

月曜日は、晴天になり、暴風で散らかった教会前をまず片付け、塗装工事の職人さんたちが7時半からいらっしゃり、お茶の準備、少し仮眠した後に夕方まで西地区牧師会に出席。

火曜日は、塗装工事をしてもらっている間を妻に任せて、訪問、帰ってきたら工事が終了。

水曜日は、7時半からモルタル補修工事が始まり、ゴミ出しの後は祈祷会の奨励の準備、朝の祈祷会、昼食後は少し休んで、それからメルマガ作成と発信、そして夕べの祈祷会での奨励。

木曜日は、バプテストリーの水抜きと片付け、地区宣教主事の報告書作成、宣教の準備。週報の加筆作業。会場貸し出しの設定。

金曜日は、宣教準備とパワーポイント準備と会場設定。

土曜日は、訪問二箇所、会場設定、宣教準備、礼拝堂の設定、主の晩餐式準備などなど。

これが昨日までの私の1週間でしたが、誤解していただきたくないのは、これは「よくやった」と皆さんに認めてもらうためとか、自分の成したことを自慢するためのものでは決してありません。皆さんの中には、私よりも、心身ともにもっと大変で、過酷な時間をこの1週間過ごされた方もおられるでしょう。

私がここで皆さんの注意を引きたいのは、「やればできるじゃん。牧師にはいつもこれぐらいやってもらおう」とか、「これを毎週のノルマにして牧会に励んでもらおう」と考え、そのように私に期待されると、「私の命は絶対持ちません」。と言うこと。

そして多分一年以内で死んで、誕生日を今日迎える妻を未亡人にしてしまい、子どもたちも困るだろうし、もしかしたら、教会の皆さんも困るかもしれない」と言うことです。「いやいや、石垣先生がおられるから大丈夫」と言われてしまいますと、身も蓋もないのですが。

とにかく、牧師として「これをしてください」、「これをしてはいけません」、「牧師はこうあるべきです」、「こうあるべきではありません」と律法のようなことを言われたり、期待されたり、押し付けられたり、そしてもし期待に添えないと批判されたり、自己批判してしまって、喜びも平安もやりがいも感じられなくなると思うのです。牧師としてのすべての自由を奪われたら、失望して命絶えてしまうと思うのです。

皆さんも自分のこととしてお考えになると同じ感情を抱くのではないかと思います。

「クリスチャンとして、こうしなさい。こうしてはいけません。こうあるべきです。こうあるべきではありません」

社会の中には、校則や会社の規則、暗黙の了解、世間体、コミュニティのルール、法律など私たちの心を縛り、ストレスを与えることがたくさんあります。

律法は、聖なるもので、正しく、善いものです。ある程度のストレスも大切です。しかし、その善いはずの律法の用い方を私たちが間違えると先ほど申しましたように、罪を犯す道具とし、人に重い足かせをつけ、苦痛を与え、失望を与え、強いては死に至らせることになります。

律法の用い方を私たちに間違えさせる最大の原因は「罪」だとパウロ先生は13節から14節だと言うのです。「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」とパウロ先生は言っています。自分には肉の弱さがあり、クリスチャンとされていても、いつも罪からの影響を感じ、その影響により悩み苦しむことがあると言うことです。

神様から与えられた掟、律法は善いもので、守る必要があるとは頭では理解していても、守りたいと切に願っていても、しかし現実では守れない。守りたくても守れない。そう言う葛藤が私たちの日々の生活の中でも色々とあるのではないでしょうか。

さて、15節から25節で、パウロ先生は自分をキリスト者として自己分析していて、律法を守ることで聖められようと過去に真剣にしたこと、そのような中で自分の弱さを実感し、自分の中に内在する罪の問題が見えたこと、それゆえの日々の葛藤を赤裸々に書き記しています。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と15節に記されています。

頭の中では、あるいは心では何をなすべきか分かっているのに、体が違うことをしていると言うこと。受験勉強をしなければいけないのに、ゲームをしているとか。聖書を読むべきなのに、ジャズを聴いているとか。とにかく、いろいろなことがあると思います。

18節から20節を読んでみましょう。「そう言うことを行なっているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと言う意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」とパウロ先生は自分の内にある葛藤を正直に告白しています。

21節から23節を読みます。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」とあります。

「内なる人」とは、キリストによって新しい命に生まれた人という意味です。

しかし、そのような人、パウロ先生をはじめ、私たちにも神様の律法と罪の法則のはざまで、矛盾した現実の自分の姿に、信仰に苦しみ悩むことがあり、戦いがある。そして大半は罪のとりこのように罪に押し流されて生きているのです。

パウロ先生は「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とリアルに叫んでいます。

さて、ここまで読んできて、気づかされることは何でしょうか? ここで「わたし」と言う言葉が繰り返し使われています。つまり、神様の恵みに生かされ、その恵みに応えて生きてゆくのは「わたし」一人ではできないということです。神様の喜ばれる実を結び続けることは「わたし」一人ではできないということです。パウロ先生であっても、です。

それを可能にしてくださるのが、救い主イエス・キリストです。

罪にある私たち、本当に惨めで、絶望のどん底に倒れてしまっている私たちを抱き上げてくださり、涙を拭ってくださり、救ってくださるのがイエス様なのです。

このイエス様がいつも共にいてくださり、私たちを励まし、導いてくださり、神様の愛と恵みに応えて生きて行ける力を限りなく注いでくださるのです。

ですから、日々の生活の中で、苦しみ痛むこと、悩むことがあっても、キリスト・イエスにあって、それでも神様に感謝し続けてまいりましょう。 神様の愛に勝るものはこの世に何一つありません。うつむいた顔を上げて、主を見上げ、主に感謝と賛美をおささげして歩んでまいりましょう。