キリストにならいて

「キリストにならいて」 3月第三主日  宣教要旨  2015//03/15    副牧師  石垣茂夫

ピリピ書3章17-21節,4章1節

 

「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」(ピリピ3:17a

 

大久保教会では、15年4月から新共同訳聖書を用います。図らずもそのような時期に、この礼拝で、愛用してきた口語訳聖書と新しい聖書のみ言葉の比較をすることになりました。

今回の聖書箇所の区切りは、文脈から4章1節までとされることが多く、それに倣ったものです。この箇所全体に触れることは次回(4/19)にさせていただき、短い17節の言葉、「わたしにならう者」この一語に絞ってお伝えします。個人的な思いですが、パウロのこの言い方が,不遜ではないのかと思っていたことが、一語に拘(こだわ)った背景にありますことをおゆるし下さい。

口語訳聖書の17節前半は「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」とありますが、新共同訳聖書は、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者になりなさい」と訳出しているのです。ここで、『皆一緒に』と、言葉が加えられていることに気付いて、文語訳他の聖書を当ってみますと、口語訳以外は『みな一緒に』というニュアンスの言葉が含まれていたのです。

ある文献では、この言葉はパウロが育てた教会が、礼拝と交わりによって信仰が成長させられていく状況を経験する中で、『みな一緒に』と『倣う者になる』という二語を一語に纏(まと)め、教会の在り方を教えるために使ったと言っており、パウロ特有の言葉ということでした。

さて、わたしたちは教会で、一人で礼拝することはありません。信仰生活も一人でしていることではないのです。まさに教会は『みな一緒に』その歩みを辿っているのではないでしょうか。『倣う者になる』については、意識しなくとも教会の友の信仰によって、知らないうちに、互いに何かを学び、何かを受け取り、何かを倣っているとうことを経験させられています。

教会において、互いに向き合い、見つめ合って、「みな一緒にキリストにならい」、信仰が養われ、整えられていくことを経験しているのではないでしょうか。

ボンヘッファーはこの事に触れて、次の様な意味の言葉を残しています。

「わたしの心の中にあるキリストは、弱ってしまうことがある。しかし教会の仲間たちの言葉の中には、わたしの中にいるキリストよりもっと強いキリストが居る。強いキリストを見出せることがある。

それによって、もう一度、自分の信仰が立て直されたことがある。友の信仰によって、新しい思いを与えられ、信仰に生きる喜びが回復されることがある。」

わたしたちは互いに倣いあいながら、交わりを続け、信仰の歩みをたどっているものです。こうして養われてきた生き方は、教会のなかにだけ留めることではなく、主によって教会の外でも大いに用いさせて頂きましょう。

『見よ、兄弟が共に座っている。

なんという恵みなんという喜び。』詩編133:1