キリストによって一つ

「キリストによって一つ」 8月第一主日礼拝   宣教 2020年8月2日

 ガラテヤの信徒への手紙 3章26〜29節    牧師 河野信一郎

おはようございます。2020年も8月となりました。長い梅雨がようやく終わり、セミも元気に鳴き始めました。多分これから暑い日々が続くと思われますが、そういう中で、今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。

全国的に新規感染者数が爆発的に増えていますので、わたしたちも、いつまた礼拝堂での礼拝を休止するかどうか分からない状態になっています。今週土曜日の朝にオンラインでの執事会を開き、今週の様子を注視しながら今後の対応について話し合いがなされますので、その結果をすぐに教会ホームページに掲載するようにいたします。来たる主日の礼拝については、土曜日の夕方にでもホームページをご覧いただき、確認をお願いしたいと思います。このコロナ禍の中、無理は禁物です。どうぞご自身、ご家族、大切な人の健康と命を十分に考慮いただきますよう、そしてお祈りくださいますようお願いいたします。

また、非常に重要なことですが、2月から途切れることなくコロナ感染者の治療に当たっておられる当教会の兄弟をはじめ、医療従事者の方々を覚えて、特にメンタルとフィジカルの両面、そしてご家族がさらに守られますよう祈りましょう。

わたしはアメリカのニュースを毎日観ていますが、疲労困憊状態の医師や看護師たちがやり場のない不安とストレスと疲れを抱えながらも、家族に会えない悲しみを抱えながらも、懸命に治療にあたる姿、また同時に、感染がこれ以上広がらないように、国民の自制を促すと言いましょうか、訴えている様子が連日報道されていて、日本の医療に携わる医師や看護師、医療従事者の方々も大きく報道されないだけ、スポットライトが当てられないだけで、本当に日々苦悩し、苦労し、それでも医療の最前線に立って戦ってくれていることを思わされます。ですから、そのことを忘れないで、祈り続けてまいりましょう。

さて、先週の宣教の中で、TKキリスト教会のN先生が8ヶ月ぶりにメッセージをされた感動・喜びを分かち合わせていただきましたが、写真とメッセージの音声が送られてきましたので、ご紹介したいと思います。脳溢血という大きな病と闘い、日々リハビリに励んでおられる先生がゆっくりゆっくりと、一つ一つの言葉を口から押し出すように、心を込めて語られる言葉、TK教会の皆さんだけでなく、聞くわたしたち一人一人への大きな力となると思います。どうぞお聞きください。

「おはようございます。今日は皆様にお会いでき、大変嬉しいと思います。み言葉を分かち合える恵みを心から感謝いたします。昨年12月、一日で右足、右手、右目の力を失いました。韓国語、日本語の読む力、書く力を失いました。一日で起きたとは信じられません。入院直後、私は「生きていて良いのだろうか」と思いました。それほど入院してから神への信頼と神の救いを語る力を見失いました。悶々とした日々を送りました。しかし、日曜日の説教を聞く機会があり、力を得ました。ヤコブの話です。自分の策略の末、故郷を離れるヤコブに神様が現れて語ります。「見よ、わたしはあなたと共にいる」と語ってくださいました。何度も、何度も聴きました。全てを失った時、全く違う方法で、どのような方法かは分かりませんが、神様の新しい道を示してくださることを信じます。また、教会の一人一人のお祈りと支えに、この場を借りて感謝します。さて、み言葉を読みたいと思います。」

まだまだリハビリと回復への道は続きます、そしてその道はいばらのような道であると思います。N先生とご家族、TK教会を覚えて祈り続けたいと思わされます。

さて、今朝はガラテヤの信徒への手紙3章26節から29節を通して、「キリストによって一つ」というタイトルで、宣教させていただき、神様のみ言葉を共に聴いてゆきたいと願っていますが、パウロ先生は現在のトルコ共和国にあったガラテヤという地方に生きる異邦人クリスチャンたちとユダヤ系クリスチャンたちに、神様とわたしたち信じる者との関係性を語ります。神様に受け入れられ、新しい関係性に生きられるのは、1)イエス・キリストを救い主と信じる信仰により、2)その救いはすべての人に対して与えられ、3)モーセの律法を守る行いによるものではないと説明します。

つまりこうです。パウロ先生は、ガラテヤ地方に生きるクリスチャンたちに、イエス様を信じ続け、神様からの一方的な愛と憐れみ、恵みによって救われたことを忘れないようにしなさい、主イエスさまに従うという約束を忘れないようにしなさい、そうすれば、その信仰によってあなたがたは完全に救われるとイエス・キリストの福音を語りました。しかし、ユダヤ教の影響を強く受けているユダヤ人クリスチャンたちは、「いや、イエス様を信じるだけではなくて、神様がモーセを通して与えられた律法を守ることによって救いを完成することができる、信仰だけでなく、自分の力、能力を信じ、救いの達成に励みなさい」と教えたわけです。

そのような中で、多くの異邦人クリスチャンたちは混乱しました。一体どちらを信じたら良いのだろうかと。そして、パウロ先生たちがガラテヤ地方にいなかったことで、ユダヤ教の影響を強く受けるようになって、異邦人たちには無関係であった「モーセの律法を守る」ということに傾いて行ってしまったわけです。しかし、すべての異邦人クリスチャンたちが傾いた訳ではありませんでした。ですので、教会の中に亀裂が生じ、不一致、分裂が起きてきた訳です。

先週は、3章19節から25節を通して、「キリスト教とユダヤ教の律法の関係性」というテーマでお話ししましたが、なぜ神様はイスラエルの民に『律法』をお与えになったのかというテーマと、この律法はキリスト・イエスを救い主と信じるクリスチャンたち、キリスト教会とどのような関係性、関連性があるのかということをお話ししました。理解するのにとっても困難さを覚える箇所でした。しかし、ある方から「宣教を耳で聞くだけでは分からない部分が多かったが、宣教の原稿を読み返す中で分かるようになった」と連絡があり、嬉しく思いました。ですので、もしご興味があれば、先週の宣教を教会ホームページの「宣教要旨」から読み直していただけると良いかなぁと思います。

さて、意見の相違、不一致、分裂などは、至る所で見受けられます。ガラテヤの教会では、モーセの律法か、それともアブラハムの約束か。行いか、それとも信仰か、と意見が分かれます。この新型コロナウイルスによるパンデミックも、様々な見解の不一致、分裂、分断を生じさせ、争いと憎しみが生み出されています。特に、わたしたちの心の中で、分断が作り出されていることが手に取るように分かりました。わたしたちの心の中に内在する差別や偏見、日頃は隠されている悶々とした気持ち、我慢、ストレスなどを制御できなくなって、すぐに怒ったり、我慢できなくなったり、つまり、わたしたちは喜ぶこと、感謝すること、思いやること、謙遜さを失ってしまうことが見受けられます。

愛を失い、忍耐弱く、容赦無くなり、ねたみ、自慢し、高ぶり、平気で礼を失し、自分の利益だけを考え、すぐに苛立ち、恨みを抱き、不義を喜び、真実から目を背ける。すぐに怒り、信じることを拒否し、すべてに失望し、すべてに絶望する。第一コリント13章4節から7節の真逆のこと、つまり神様の御心でない正反対のことをするようになってしまう、そういう誘惑にわたしたちは日々直面しています。

人間関係に、家庭では夫婦関係、親子関係に、職場でも、コミュニティの中でも、亀裂や分裂、分断が生じています。今の政府と首都圏の行政とでは、大きな隔たりがあります。しかし、イエス・キリストを救い主と信じる者には、人間の視点だけでなく、神様の視点、イエス様の視点から物事を観てみようとする力が与えられています。人の目線だけでなく、イエス様の目線、着目点、主はどのように見ておられるのか、イエス様ならばどうされるだろうか、どのように取り扱われるだろうかと考えられる「平安」、「心の余裕」が聖書を通して、そしてご聖霊によって与えられています。

先ほども申しました「律法か約束か」、「行いか信仰か」という分断の狭間で、分裂の危険の中で悩んでいるガラテヤのクリスチャンたちにパウロ先生を通して神様は語られます。26節を読みましょう。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とあります。あなたがたは「皆」という言葉、重要な言葉です。イエス様を救い主と信じているすべての人は「もれなく」という意味です。「信仰により」とありますが、信仰を与えてくださるのは神様であり、主イエス様です。つまり、あなたがたは皆、神様、イエス様にもれなく愛されていて、神様に分断や分裂はない、みんなイエス様に結ばれている存在であり、イエス様に結ばれている者はすべて神の子なのですと宣言されています。そうです、「あなたはわたしの子と神様に宣言されている」のです。それほどまでにわたしたちは皆、愛されている存在なのです。これが神様の目線から見るわたしたちなのです。

27節に「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは『皆』、キリストを着ているからです」とあります。ここに「バプテスマ・洗礼」とあります。わたしたち大久保教会のバプテスマの理解は信仰告白にあるように、罪に死に、主イエス・キリストと共に「新しい生命に復活したことを象徴する」という信仰の告白です。バプテスマは、イエス様と共に罪に死に、イエス様と共に甦る、つまりイエス様と結ばれて一つになるということであります。それをパウロ先生は「キリストを着ている」と言い表します。神のひとり子であるイエス様と一つになるということは、わたしたちも恵みによって神の子となる、神の子とせられるという素晴らしいことです。

初代教会にとって、バプテスマは信仰を公にする最初の恵みへの応答であり、必要なこととして考えられていたことで、わたしたち大久保教会もバプテスマを大切にしています。ある人はバプテスマ・洗礼式は単なる儀式であって、救われるためには絶対に必要なものではないと言いますが、バプテスマは、神様の愛と憐れみによってイエス様によって救われた恵みへの喜びと感謝の応答であって、それ以上でもそれ以下でもありません。確かにバプテスマは救いのために必要ではありませんが、パウロ先生は恵みへの応答・バプテスマのない信仰は、信仰ではないと考えられていたと理解することが必要と思います。

さて、1世紀に生きたユダヤ人の祈りにこのような祈りがあると聞いたことがあります。ここで言う「ユダヤ人」とは男性のユダヤ人ですが、このように神様に祈ったそうです。「神様、わたしを異邦人として創られなかったことに感謝します。神様、わたしを無知な奴隷として創られなかったことに感謝します。神様、わたしを女として創られなかったことに感謝します。」 皆さんはこのような祈りをどうお感じになられるでしょうか。あからさまに「分断、分裂、差別」を認め、感謝している人たちがいました。

しかしパウロ先生は28節で何と書き送っているでしょうか。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは『皆』、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と言っています。イエス様が、すべての垣根を取り除き、神様との分断を修復してくださり、民族や社会的身分や性別における分裂や差別を取り除き、一つとしてくださった。そう言う「分断、分裂、偏見や差別をすべて十字架に架けてくださり、神の家族としてくださった、一つにしてくださった」ということであります。恵みなのです。

29節に「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、取りも直さず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」とパウロ先生は言っています。この「約束の相続人」ということに関しては来週の宣教で分かち合わせていただきますが、この「キリストのものだとするなら」ということを最後に着目したいと思います。この「キリストのもの」という言葉は、「キリストに属しているならば」とか、「キリストにつながっているならば」という意味の言葉であって、私たちを所有物として見ているという訳では決してありません。

イエス様は、わたしたちのこと、その命を十字架上で捨ててくださるほどまでに愛してくださっています。わたしたちの罪を取り除き、神様との関係を修復するために、わたしたちを神の子どもたちとするために十字架に架かって死んでくださいました。このイエス様を救い主と信じるすべての者がアブラハムの子孫であり、神様の約束による相続人であると宣言されています。

この神様の愛の現れであるイエス様を救い主と信じる時、わたしたちは一つとされ、民族や国籍や性別を超えて一つとなる、結束する、愛し合い、仕え合う力がご聖霊を通して神様から与えられ、平和をつくりだす者として生かされてゆきます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」 この言葉に押し出されて、新しい月を、新しい週を歩んでまいりましょう。