キリストの役割とわたしの役割

「キリストの役割とわたしの役割」 七月第四主日礼拝 宣教 2019年7月28日

ローマの信徒への手紙15章14〜21節             牧師 河野信一郎

今朝もローマの信徒への手紙から神様の語りかけを聴いてゆきたいと思いますが、2週間前の前回の宣教では、15章7節から13節を通して、わたしたちは何のために生かされているのか、わたしたちの存在理由とその目的は何であるかについて造り主なる神様に聴きました。少しだけ復習したいと思います。

7節をご覧ください。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」とあります。この「神の栄光のために」というのは、「神がたたえられるために」と訳すことができます。そして続けて「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」とあります。つまりこの7節には、わたしたちが互いに受け入れ合い、愛し合うということイコールわたしたちが神様をたたえられることであり、神様を愛するということであることを聴きました。

次の8節の最初の部分には「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられた」、「御子イエス・キリストは、父なる神様の『真実』を現すために、ユダヤ人たちに仕える者となられた」とあります。ここで言われている神様の「真実」とは、神様はユダヤ人を愛しておられるという事実で、父なる神が愛しておられるユダヤ人たちの救いのためにも主イエス様は贖いの死をもって仕えてくださったと言うことが記されています。

次の8節後半から9節後半にそれは「先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」とあります。主イエス・キリストは、父なる神がたたえられるために、ユダヤ人と異邦人のすべてを受け入れ、愛してくださり、わたしたちすべての人の罪の赦しのために十字架に架かって贖いの死を遂げてくださいました。それは、イエス様を通して罪赦され、救われたすべての人々、わたしたちが神様の愛と赦しに感動し、喜びと感謝をもって「神様をほめたたえるため」だとパウロ先生は言うのです。ですから、わたしたちの存在理由と目的は、神様をほめたたえることであるということを聴きました。そして、そのように生きられるように主イエス様に倣って、主イエス様が受け入れられた人々をあなたがたも受け入れ、恵みのうちに共に歩みなさいと励まされていることを聴きました。

10節から12節では、わたしたち異邦人も神様の愛と救いの対象であることが旧約聖書によって証明され、イエス様はわたしたちを救うために来てくださったということを聴きました。主イエス様はわたしたちに神様の愛と赦しを語り、十字架の死をもってわたしたちに仕えてくださった。ユダヤ人たちと異邦人たち。そのどちらをも救うために神様は主イエス様を救い主としてわたしたちのもとへお遣わしくださったと聴きました。

13節には、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」というパウロ先生の祈りが記されています。希望の源である神様から、イエス・キリストという救い主が全ての人に、過去も今もこれからも与えられている。それが福音であるということを聴きました。この13節の祈りが、実質的にはこの手紙の最後になり、これ以降は手紙の結びとなってゆくことを覚えていただきたいと思います。

さて、今朝は「キリストの役割とわたしの役割」という主題でお話ししたいと願っていますが、先ほど聴きました7節から9節では、イエス・キリストの地上での使命・役割が何であったかが記されています。そして今朝の14節から21節には、使徒パウロ先生のこの地上での使命・役割が何であったかが記されています。そのような中で、今朝みなさんとご一緒に導かれたいことは、「この地上に生かされている自分の理由、目的、使命、役割をわたしはよく理解し、神様が喜ばれるように生きているだろうか」と考えてみることです。「わたしたちは」という複数形・教会単位ではなく、「わたしは」という一個人として考えてみることです。

イエス・キリストは、神様から委ねられた自分の地上での役割・使命をよく理解して、その役割に忠実に生きられ、そして死なれました。そのような忠実なイエス様を父なる神様は死より甦えらせ、ご自分のもとへ引き上げられました。そしてこの15章の後半には、パウロ先生がキリストの弟子として救われ、使徒として召され、派遣されて生かされている理由、目的、自分の役割、使命をよく理解し、最後までその招きに忠実に生きようとしたことが記され、またキリストの福音がまだ宣べ伝えられていない土地に行きたいという大きな志を持っていたことが記されています。

では、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちにはパウロ先生のような大きな志があるでしょうか。「私はまだ若すぎる、忙しすぎる、やらなければならないことが多すぎる、もう歳を取りすぎた、体が不自由になってきた、だから何もできない」と思い込んでしまってはいないでしょうか。「そもそも私は伝道者とか、牧師に召されていないし」と思われる方も多いと思います。しかしながら、イエス様を救い主と信じる者は、イエス様に従う者、クリスチャンとして召され、生かされています。ですから、この地上で生かされている間は、わたしたちには神様のために生きる何かしらのなすべき役割があるはずです。それが何であるのか、ご一緒に聖書に聴いてゆきたいと思うのです。

14節をご覧ください。「兄弟姉妹たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています」とパウロ先生はローマのクリスチャンたちに書き送っています。ここでパウロ先生がしようとしていることは、彼らを「励ます」ことです。日々の生活を送ってゆく中で、わたしたちは様々な課題にぶち当たり、また問題が降りかかってきて、その中で心が弱り、くじけそうになったり、心折れそうになることがあります。そのような中でわたしたちに必要なものは、何でしょうか。それは「励まし」です。パウロ先生はここで、兄弟姉妹たちが頑張って生きていることを認め、彼らの誠実さ賞賛し、神様に忠実に生きていることを心から喜び、今後も彼らが継続して主に仕えられると信頼しています。

わたしたちの中のある人は確かに若く、ある人は確かにお年を召され、ある人は確かに日々忙しい時間を過ごしています。勉強、仕事、育児、家事、介護、通院など。でも、どんな人でも「互いを認め合い、賞賛し合い、喜び合い、励まし合う」ことができます。また時には戒め合うことが必要な時もあります。パウロ先生は、ローマの兄弟姉妹たちを叱咤激励するために、「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。つまり大胆に福音を語り、神の恵みを書きました」と15節で記しています。互いの存在を認め合い、愛し合い、祈り合い、励まし合い、仕え合うことは神の家族に属しているわたしたちの恵みであり、役割です。わたしたちは、神様とイエス様とご聖霊から励ましを受けるだけでなく、主にある兄弟姉妹たちから励ましを受けていて、互いに励まし合い、共に生きることがそれぞれの役割として神様から与えられているのです。

次に16節をご覧ください。「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」とあります。パウロ先生はここで、「神の福音のために祭司の役を務めている」と言っています。「神の福音のために」というのは分かると思いますが、では「祭司の役を務めている」とは一体どういうことでしょうか。「祭司」の仕事を簡単に言いますと、神様と民衆の間を仲介する、執り成す、和解させるという仕事です。真の和解を与えるイエス・キリストとその福音を異邦人たちに宣べ伝えて、神様に立ち返らせ、神様に喜ばれる礼拝者として整えてゆくことがわたしの使徒として、祭司としての役割であり、17節をご覧ください。わたしは「神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」と言っています。つまり神様がほめ讃えられるために働き、キリストの福音を宣べ伝えることはわたしの大きな生き甲斐であり、何にも代えがたい喜びですと言っているのです。わたしたちの生き甲斐、何にも代えがたい喜びは何でしょうか。誰かと旅行をしたり、自分の趣味を極めたり、子どもや孫と一緒にいること、美味しいものを食べること、働いてお金を貯めること、色々とあると思いますが、神様が喜ばれ、わたしたちに期待するものは何でしょうか。わたしたちクリスチャンの役割、それは神様と人々の間に立ち、イエス様を伝えること、福音を分かち合うことだとここに記されているのではないかと思います。

18節から19節前半で「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」とパウロ先生は言っています。「わたしはキリスト・イエスの僕です。福音を伝えるための道具です。わたしが何かしたのではなく、キリスト・イエスと神の霊であるご聖霊が働かれ、福音を語られたから救われる者たちが起こされていったのです」と言っています。「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州(つまり現在のクロアチアやギリシャの西部まで)を巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」と言っています。パウロ先生は神様の力に畏れおののき、謙遜の至りを尽くしています。「わたしは主イエス様の道具に過ぎず、わたしを通して働かれたのは主ご自身です」と言って、すべての誉は神様にあると証しています。わたしたちは、自分は何のために生きているのかということ、自分の役割や使命を知りたいという時、まず造り主なる神様の存在を認め、信じ、畏れ、服従する必要があります。神様の恵みのもとで謙遜に生きる時、神様が喜ばれることは何であるか、わたしは何をすべきかをイエス様の言葉が教え、神の霊であるご聖霊が働いて進むべき道へと導いてくださいます。

パウロ先生は、病弱であろうが、獄に繋がれていようが、主イエス様にあっていつも前向きで、神様と主イエス様を喜ばせることばかりを考えていました。20節に「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです」と言っています。

21節はイザヤ書52章15節の引用と考えられますが、パウロ先生は、自分の役割をしっかりと理解し、いつも新しいチャレンジを見つけ、そのチャレンジを恐れるのではなく、楽しむような人であったと思われます。ただ単に今の生活とリズムを守り、現状を維持してゆくという守りの姿勢ではなく、いつも新しくされることを願い、新しいチャレンジを喜び楽しむような群れとして歩み、この教会を共に建て上げてゆきたいと願います。

主イエス様も、使徒パウロ先生も、神様から委ねられた働き、役割にいつも忠実であり、人々には誠実に生きられました。わたしたち一人ひとりにも、主イエス様の弟子として生きる役割が神様から与えられています。その役割が与えられていることを恵みとして喜び、感謝し、神様とイエス様には忠実に、人々には誠実に生かさせていただきましょう。