キリストの復活:今までの概念を履された日

「キリストの復活:今までの概念を覆された日」イースター礼拝 宣教 2023年4月9日

 ヨハネによる福音書 20章1〜18節     牧師 河野信一郎

おはようございます。イースター、おめでとうございます。ゲストの皆さん、ようこそ大久保教会の礼拝へ来てくださいました!心から歓迎いたします。ありがとうございます。また、教会の皆さん、お帰りなさい。このうるわしい日曜日の朝、救い主イエス・キリストの甦りを喜び祝う礼拝を皆さんと共におささげすることができて本当に感謝です。

 誠に残念ながら、今年のイースターも持ち寄りによる祝会はありませんが、この礼拝の後に、子どもたちのために、イースターの人形劇とエッグハントが計画されています。子どもたちのエッグを探す集中力と真剣な眼差し、見つかって喜ぶ笑顔を見るのが楽しみです。今朝の礼拝堂でのイースター礼拝にいらした方々には、女性会の姉妹たちが準備くださった素敵なイースターエッグが一つずつプレゼントされますので、どうぞお持ち帰りください。

 去る7日の金曜日の夜にもたれました受苦日祈祷会には8名が出席くださり、ヨハネによる福音書の18章と19章に記されているイエス様のご受難と十字架の死、そして埋葬までの記事を共に読み進め、イエス様がわたしたちの身代わりとなって受けて下さった辱めと苦しみに思いを馳せました。また、イエス様の贖いの死は、わたしたちの救いのためであったことを改めて強く感じさせられました。来年は、皆さんのご出席をお待ちいたします。

 さて、今朝のイースター礼拝では、ヨハネ福音書20章1節から18節に記されているイエス様が甦られた日の朝の出来事についてお話しさせていただきますが、今夜の夕礼拝では、続く20章19節から23節に記されているイースターの日の夜の出来事についてお話しさせていただきます。そのメッセージの内容を少しだけ分かち合いたいと思いますが、タイトルを「真の平和はどこから」としました。心の平安がテーマになります。

 わたしたちは様々な恐れや不安を抱きながら日々生活していますが、わたしたちが心から求めている真の平安は、復活されたイエス・キリストを通して与えられるということをお話しします。そしてイエス様を通して神様から与えられる三つの恵みを分かち合いたいと思っています。今朝のこの礼拝に出席されている皆さんの中にも、オンラインで礼拝に出席されている方々の中にも「真の平和・心の平安」を求めておられる方々が大勢おられると思いますが、もしそうでしたら、今夜17時からささげられるイースターの夕礼拝に出席されることをお勧めし、お招きいたします。ぜひご出席ください。どのようにしたら平安が与えられるのかをご一緒に聴きましょう。そして復活の主イエス様に賛美をささげましょう。

 来週16日の朝の礼拝では、石垣副牧師がヨハネによる福音書の20章19節から29節をテキストに、復活から8日後にあったイエス様と弟子のトマスの再会の出来事からお話しくださる予定です。本日17時からささげられます夕礼拝、そして来週16日の主日礼拝、ユーチューブでもライブ配信いたしますので、ご出席いただきたいと思います。

 さて、今朝はイエス・キリストの復活の出来事がわたしたちの心に、日々の生活に、そして人生にどれ程までに大きな影響を与えているのかをお話ししたいと思います。イエス様がわたしたちのために十字架で贖いの死を遂げてくださっていなければ、父なる神様がその従順な御子を死人の中から引き上げて甦らせることはありませんでした。つまり、この世界に「キリスト教」が存在することはありませんでした。しかし、イエス様は復活なさった。

 イエス様が復活されていなかったら、100%の確率で、キリスト・イエスの福音はこの日本に、わたしたちのもとに届けられることはなかったでしょう。つまり、わたしたちが今朝このようにささげている礼拝もなかったでしょうし、そもそもキリスト教会自体も、クリスチャン自体も存在することはなかったでしょう。つまり、わたしたちは出会うことは無かったはずです。しかし、事実、救い主イエス・キリストは神様のお約束どおりに復活されました。このイエス様の復活によって、今までの世界的概念、共通概念たるものがすべて根底から覆されました。ですので、キリストの復活された日は、これまでわたしたちが持っていた概念はすべてひっくり返されて、新しい時代が始まった日であるのです。

 「概念」という言葉を聞いて、「概念という言葉自体よく分からない」という方もたくさんおられると思います。わたしもうまく説明できる自信がなかったので調べましたら、このように説明されているものがインターネット上にありました。「例えば、『犬』には様々な大きさの種類の犬がいますが、人はチワワとゴールデンレトリバーを同じ『犬』として認識することができます。一言で『犬』と言っても、人によって思いつく犬の種類も、犬の色も、大きさをばらばらです。しかし、『犬』とだけ言えば、人は互いに共通の『なにか』を思い浮かべます。この『何か』が概念です」とありました。とても分かりやすいと思いました。

 それでは、イースターにちなんだ「概念」の例を挙げてみましょう。例えば、「死」という概念はどうでしょうか。「死」にも色々あります。様々な「死に方」にもあります。老衰もあれば、病気による亡くなり方もあります。事故や怪我が原因である場合もあります。戦争や自然災害で亡くなる場合もあります。やりたい事すべて成し遂げて亡くなる人もいれば、志半ばで亡くなる人もいます。人々に惜しまれながら亡くなる人もいれば、誰からも気付かれずに独りで死を迎える人もおられます。わたしたちも、遅かれ早かれ、この地上での生活に終わりを遂げます。わたしたちはそれを「死」と呼び、「死」とだけ言えば、共通の「なにか」を思い浮かべます。この「なにか」が概念です。

 イエス様も死を迎えました。つまり、わたしたちと同様、イエス様も「死の概念」の中に置かれていたのです。しかも、イエス様はローマの極刑である十字架刑に処せられて死を迎えました。十字架に架けられるほどの罪を犯した二人の極悪人と一緒に十字架に架けられました。わたしたちの観点からですと、イエス様は十字架という呪いの木に架けられて殺されました。しかし、神様の観点からですと、イエス様は十字架上でわたしたちすべての人の罪を一身に負って、わたしたちの救いのために贖いの死を遂げて死んでくださいました。

 人が死を迎えたら、その亡骸はどのように取り扱われるでしょうか。国や地域によっても様々ですが、あるところでは土に埋められる土葬であったり、ある国では火葬されて骨を墓に納めるという方法もあります。最近では海に散骨するということもありますが、わたしがここで言いたいことは、一般的な話、亡くなった人が墓に葬られ、その墓が土や墓石で閉じられると、その亡くなった人の地上での営みはすべて終わったと誰もが考えます。ほとんどの人が、そのように「死」を捉えます。死をもってその人の人生は完結したと捉えます。

 イエス様の弟子たちは、男女問わず、皆そのように考えていました。イエス様は十字架に架けられて殺され、埋葬の処置も不十分なまま墓に入れられ、大きな石が墓の入り口に置かれました。その一部始終を遠くから見ていた女性の弟子たちは、そしてイエス様を見捨てて逃げてしまった男性の弟子たちも、イエス様は死なれた、すべてが終わったと思い込み、これからどのように生きてゆけば良いのかと途方に暮れていたと思います。弟子たちは哀しみに打ちひしがれるだけで、希望はなかったと思われます。我を失っていたと思います。

 福音書を記したヨハネによりますと、イエス様が甦られた早朝に次のようなことがありました。20章1節に「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とありますが、このマリアだけがイエス様の墓に行ったのではありませんが、彼女の悲しみが大きかったのでしょう、ヨハネは苦悩する彼女にスポットライトを当てます。

 心から尊敬し、信頼していたイエス様が壮絶な死を迎えられたということだけでも絶望を味わっているのに、それに追い討ちをかけるように、「墓から石が取りのけてあるのを見た」、そして墓の中にイエス様の亡骸がないことを発見するのです。2節に「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』」とあります。この「わたしたちには分かりません」という言葉から、マリアが単独でイエス様の墓に行ったのではないことが分かります。

 さて、イエス様の亡骸がないと知らされたペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て、大急ぎで墓へ行ったとあります。彼らも墓をのぞき込む中で、亜麻布だけが置いてあるのを見たのです。8節には、「先に墓に着いたもう一人の弟子も(墓に)入って来て、見て、信じた」とありますが、彼が見て信じたのは、イエス様の亡骸がないという事実を見て、その事実を見て信じたということです。彼らもイエス様が亡くなってしまったという哀しみ、それ以前にイエス様を見捨てて逃げ去ってしまったという大きな負い目があり、その痛みと哀しみで我を失っていたと考えられます。9節にある「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという主の言葉」を完璧に忘れ去り、失意の中、彼らは家に帰って行きます。

 しかし、マリアは「墓の外に立って泣いていた」と11節にあります。「マリアが泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」と12節にあります。彼女は驚いたことでしょう。しかし天使たちが彼女に「なぜ泣いているのか」と質問します。彼女はすぐに答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と。彼女も十字架上で亡くなったイエス様をずっと探していたのです。哀しみのあまり我を失っていました、正気を失っていましたから、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという主の言葉」を完璧に忘れていたのでしょう。

 彼女はそう言いながら誰かが背後にいると感じたので後ろを振り向きます。14節です。しかし「イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。彼女は、「イエス様は死なれた」、「その亡骸がない」、「誰かがイエス様の遺体を運び去った」と思い込み、彼女の思考はロックされていたのです。「死んだらおしまい」という死の概念の中にいたのです。そのような死の概念の中に生きる人には、悲しみしかないのです。泣いて悲しみを放出するしか、自分の心をいたわる方法はないのです。

 しかし、そのようなマリアに復活されたイエス様が歩み寄られ、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と尋ねます。「死んだらすべてがおしまい」という死の概念から彼女を解放し、哀しみや痛みという苦しみから解放するために、慈しみをもって「マリア」と彼女の名前を呼びます。自分の名前を呼ばれたマリアはイエス様の声で正気に戻ります。本来の自分を取り戻します。そして復活の主イエス様を初めて見て、イエス様が甦られたことを知り、ヘブライ語で「ラボニ」、日本語で「先生」とイエス様を呼び、喜びを表します。

 イエス様が甦られた日に、それまで人類が抱いていた「死んだら終わり」という死の概念が覆され、復活の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって永遠の命が与えられる希望が与えられました。イエス様の甦りにわたしたちの救いの希望があり、死は決して終わりではないという神様の愛、キリストの福音が完成したのです。神様がイエス・キリストを死の淵から甦らせ、イエス様は死に勝利して甦られたのです。イエス様の復活によって、わたしたちは「神様の愛」の中に招き入れられ、「イエス・キリストのもとに永遠の命、永遠の祝福がある」という希望を抱きながら、恵みの中に日々生かされる幸いをいただくのです。

 もし皆さんの中に「死んだら、それでおしまい」という考え、死の概念をお持ちのままでおられたら、もう一歩前に進み出て、教会に通い続けてください。神様の愛とイエス様の言葉によって、その概念は覆らせられ、真理が示され、信仰が与えられるでしょう。もうすでに復活の主イエス様に出会って、イエス様を救い主と信じているわたしたちは、18節にあるように「わたしは(甦られた)主イエス様、復活の主を見ました」、復活のイエス様を信じていますと告白し続け、主イエス様が甦られた日曜日に礼拝をささげ、神様の愛と罪の赦し、イエス様の愛と犠牲を感謝し、喜び、この恵みを分かち合って行きましょう。