キリストの歌

『キリストの歌』 年末感謝礼拝 2014年12月28日

ピリピ人への手紙2章5~11節  副牧師 石垣茂夫

  キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。それは、イエスの御名によって、・・・ あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである(6-11抜粋)。

 パウロは教会の歩みが一つとなるためには、共に賛美することが大切であり「賛美が教会を造っていく」と思うに至っていた。ピリピの人々に宛てた手紙には、賛美歌に自分の言葉を加えて記した。 ピリピ2章6節~11節は「キリストの歌」と呼ばれ、信仰告白の賛美歌が元である。ここには三つの信仰告白の中身が含まれている。

 6節の「神のかたちであられた」とは、外見、内実、共に神であることを意味し、「キリストは神である」との、第一の告白である。

 6節後半から8節は、キリストが神であり続けることを捨て、人間となって下さったという告白であり、「神が人となられた」との第二の告白である。しかも十字架の死にまで触れた、極めて神学的な内容の賛美である。

 9節は、十字架の死の決断に至ったキリストを、神はそのままにされるようなお方ではないとの愛に溢れた宣言である。

 10~11節は、神が人となられてまで示そうとされた目的が歌われている。目的、それは、『あらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである』との言葉に表されている。「主」とは旧約聖書の時代以来、「神」のことである。第三の告白は、わたしたちが「イエス・キリストは神である」と告白する者となることを期待する、神の導きの言葉である。最初期の教会が生み出した、こうした信仰告白は賛美の形を取って受け継がれ、300年後になって「使徒信条」など、公の文書の言葉ともなった。

 このように「キリストを主とする礼拝」は、礼拝堂が無く、聖書も讃美歌もなく、牧師もいない時代に、既に始まっていた。彼らは時折訪れるパウロのような使徒や巡回伝道者の語る福音に耳を傾け、「キリストとは誰なのか」、「そのキリストに何が起きたのか」、「自分たちとどう関わりがあるのか」と問いながら、信仰の群れを形成していった。

 日本に、最初にキリストの福音が伝えられて500年を数えるが、短期間の内にキリシタンと呼ばれた信徒が急速に増していった時代があった。あまりの増え方と固い信仰を恐れた支配者は、これを禁教とし、激しく弾圧した。生き延びた信徒は隠れキリシタンとなって潜伏した。

 彼らは信仰を繫ぐためにオラショという歌で信仰を受け継ぎ、明治初期になって発見され、一部を除きカトリック教会信徒となった。昨年の報道では、そのオラショを楽譜に落とし、言葉を整理して聖歌隊を編成した日本人指揮者がおり、これをバチカンの聖堂で演奏する機会が与えられた。これを聞いた関係者は、間違いなく古い聖歌であって、このように受け継がれていたことに感動していた。

「イエス・キリストは主である」。真に従うお方を信じ、新しい年に向わせていただこう。