キリストを信じ、喜ぶ者

「キリストを信じ、喜ぶ者」  十一月第一主日礼拝  宣教 2019年11月3日

 フィリピの信徒への手紙3章1節〜11節        牧師 河野信一郎

 わたしたちは「わたしはいったい何者であるのか」というテーマで神様のみ声に聴いてきていますが、今朝は、先ほど読んでいただきましたフィリピの信徒への手紙の3章1節から11節を通して、わたしたちはイエス・キリストを救い主と信じ、キリストにあって大いに喜ぶ存在であることを聴き、感謝したいと思います。

どうぞ1節をご覧ください。パウロ先生は、「私たちの兄弟姉妹たち、主において喜びなさい!」とフィリピの町のクリスチャンたち、そして今日を生かされているわたしたちの信仰を励ましています。「主イエス・キリストにあって喜びなさい」とパウロ先生は書き記すのですが、わたしたちはいったい何を喜ぶのでしょうか。そして、どのように喜ぶべきなのでしょうか。わたしたちは何者なのでしょうか。それが今朝の宣教のテーマとなり、皆さんの心に大切にしまっていただきたいことです。

まず、「何を喜ぶのか」ということですが、わたしたちはイエス様を救い主、キリストと信じる信仰だけで罪が赦され、神様の一方的な愛と憐れみによって、恵みによって救いを得ています。その真実を素直に感謝して喜ぶということです。パウロ先生は、イエス・キリストを信じるだけであなたがたは恵みのうちに救われていて、信じる以外に必要なものはないと力強く宣言しています。信じることが神様の祝福を永遠に受けるスタートとなるということです。そのことを素直に喜び、神様と主イエス様に感謝しましょうということです。

パウロ先生はその次に、1節の後半で「同じことをもう一度書きますが」と言っています。ちょっと紛らわしい言葉使いですが、これは「喜びなさい」という勧めをもう一度書きますという意味ではなく、次の2節に記されている注意すべきことについてもう一度書き送りますという意味です。今から記すことは、パウロ先生にとって「煩わしいこと」ではなく、「あなたがたクリスチャンにとっては、とっても大切で、安全なことなのです」と書き送ります。

どうでしょうか。皆さんは、家族や同僚や仲間、あるいは子どもたちに同じことを何度もなんども言うことに煩わしさを感じることがあるでしょうか。過去にそのような経験があったかもしれません。ご高齢のお父さんやお母さんに毎日何度も繰り返し言って確認しなければならないこともあるかもしれませんし、子どもたちにも同じことを言い続けなければならないこともあるでしょう。私の妻は、毎日のように「お弁当箱を出して洗いなさい。お弁当箱を出さない人はお弁当作らないからね!」と子どもたちに言っていますが、子どもたちは協力的ではありませんので、妻は朝からストレスがたまります。皆さんはどうでしょうか。

パウロ先生は、「今から私が書き送ることは私にとって煩わしいことではなく、あなたがたにとっては重要で安全なことなのです」と言います。では、重要で安全なこととはいったい何であったのでしょうか。2節をご覧ください。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷に過ぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と書き送っています。「あの犬ども、よこしまな働き手たち、切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」というのは全部同じ人たちを指しています。その人たちに「注意せよ。気をつけよ。警戒せよ」というのです。この人たちというのは、パウロ先生が「喜びなさい」と勧めて励ますことを邪魔する者たち、イエス様にあって救われているという喜びを奪い去ろうとする人たちで、その人たちの教えについて十分に警戒しなさいということです。

残念ながら、フィリピの教会の中には、イエス様を救い主と純真に信じる人たちだけでなく、ユダヤ主義的な考えを主張する人々が入り込んでいました。つまり、わたしたちはただ信じて喜ぶだけではいけないんだ。割礼を受けて、律法を守ることによって救われるんだと主張する人たちがいました。信仰によって、信じるだけで救われるのではなく、行いによって救われると主張する、パウロ先生の宣教とは大きな食い違いがある人たちとそういう教えを信じ、悪い影響を与えようとする人がいたということです。そういう人たちをパウロ先生は「犬ども、切り傷に過ぎない割礼を受けた者たち」と呼び捨てています。

そういう中で、3節になりますが、「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」とパウロ先生は主張します。「真の割礼」とは何でしょうか。異邦人クリスチャンたちは肉体に割礼を受けていないかもしれないが、信仰によって、イエス様を通して神様と契約を結び、霊的な割礼を受けた者たちですと言っています。ですので、「真の割礼」とは、主イエス・キリストを通して受ける霊的な割礼ということになります。

ここで注目すべきことは、パウロ先生が「わたしたちこそ真の割礼を受けた」と言っている点です。ユダヤ人であり、肉の割礼をすでに受けているパウロ先生が、「あなたがた異邦人クリスチャンたちのように、わたしも真の割礼を受けた者の一人です」と言っている点、つまり、肉の割礼ではなく、真の霊的割礼が重要であるということです。確かに割礼は「律法」に定められてはいますが、肉の割礼は人の業と成りうるからです。しかし、「真の割礼、霊的割礼」は神様による憐れみの御業であるからです。

次に4節から6節までを読みたいと思います。パウロ先生はご自分のことをこのように記しています。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」と言っています。「わたしは生粋のユダヤ人、ユダヤ人の中でも最も純粋な者であり、わたしより誇れる人はいないでしょう、それらを一生懸命に行ってきました」ということです。

しかし、「わたしはイエス・キリストと出会って、今まで自分に有利に思えていたことを損失と見なすように変えられました。今まで持っていたユダヤ人としてのプライドや特権を塵あくた、価値のないもの、ごみくずと考えるように変えられました」と7節と8節でパウロ先生は告白しています。8節をご覧ください。少しリフレイズして読みますが、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしは今まで持っていたものを全て失いましたが、わたしは人生で最も重要で大切な宝物・救い主イエス様を神様の憐れみによって得ました」と告白しています。

パウロ先生は9節で言います。「わたしはキリストの内にいる者として認められたい!」と。皆さんはどうでしょうか。「わたしもイエス様の内にいる者として認められたい!」と心から願われるでしょうか。わたしはキリスト・イエス様の内にいる者として認められたいと願います。しかし、そのためにはどうしたら良いのでしょうか。パウロ先生は9節の中程でこう言っています。「わたしには、律法から生じる義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と。行いによって得る義ではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によって「神様から与えられる義」があると言います。神様の愛、憐れみによってのみ受けられる「義」です。わたしたちにできることはそう多くはありません。まず、自分の罪を認め、悔い改めてイエス様を信じること、救いを喜ぶこと、神様の愛、憐れみを信じ、喜ぶこと、それによってわたしたちの価値観は主イエス様を中心とした全く新しいものへと変えられ、考え方、生き方が変えられてゆき、神様に「義」と認められます。

わたしたちの中に、信じること、喜ぶことをもっと具体的に知りたい、どのようにしたら良いか教えて欲しいと願われる方はどれほどおられるでしょうか。たぶん全員だと思いますが、その具体的なことをパウロ先生は3節の後半で記していますので読んでみましょう。「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」とあります。主イエス・キリストの贖いによって救いを受けている者として、イエス様を通して与えられる神様の愛を信じ、喜び、ご聖霊の導きと助けの中で神様に賛美と礼拝をささげ、イエス様を誇りとして生き、自分の力に頼らないでいつも主により頼んで歩むということです。キリストを誇りとするとは、どういうことでしょうか。それはイエス様を第一とするということ、イエス様を自分の前に常に置くということです。「義」という漢字をみてください。「我」という漢字の上に「羊」という漢字が置かれています。羊とはイエス様です。つまりキリストを信じる信仰による「義」とは、イエス様をわたしたちの上に常に置くということです。いつもキリストを信じ、喜び、感謝して歩んでまいりましょう。