キリスト・イエスの働き手

「キリスト・イエスの働き手」 六月第二主日礼拝宣教 2021年6月13日

 テモテへの手紙Ⅱ 2章1節〜13節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。先週は真夏日がずっと続きましたが、いかがお過ごしでしょうか。今朝もご一緒にオンラインで礼拝をおささげできて感謝です。緊急事態宣言が来たる20日に解除されても蔓延防止等重点処置下になりますが、その次の27日から対面式の礼拝を礼拝堂でおささげできるようになります。教会の皆さんがこの礼拝堂に帰ってこられること、あるべき場所に戻されること、礼拝者として再び招かれることは、大きな喜びであり、感謝です。

けれども、すべての方がすぐに戻れるわけではありません。戻れない方々を覚えて祈り続けましょう。教会の中にも第一回目のワクチン接種を受けられた方や今月中か来月初旬には受けられる方もいらっしゃって感謝ですが、接種後の副反応が心配な方や様々なご事情でワクチン接種が出来ない場合もあり、判断に苦悩されている方もおられると思います。ワクチン接種ができる方も、できない方も、不安ある方も、ぜひ教会へご一報ください。あなたを覚えてお祈りいたします。祈りは慰めであり、励ましであり、平安を受ける霊的な力の源です。

日本リバイバルミッションの田中政男先生が、「神様に祈らないことは損をしているのと同じです」と昔おっしゃった言葉を思い出します。祈ることをイエス様から教えられ、絶えず祈るように招かれ、祈りを通して信仰生活の栄養素が神様から惜しみなく豊かに注がれるのに、それを受けないのは本当にもったいないと言っておられました。神様と主イエス様を喜ぶこと、聖書のみ言葉に聴くこと、祈ること、共に親しく交わることは、わたしたちの心に、信仰に大きな力となります。なるというよりも、神様の愛の力が豊かに注がれます。

さて、先週からテモテへの第二の手紙をテキストに神様からの語りかけを共に聴いておりますが、今朝は「キリスト・イエスの働き手」という主題で2章の1節から13節に聴いてゆきます。週報の紙面上、宣教タイトルをそのようにしましたが、本当は「あなたはキリスト・イエスの働き手です」としたかったのです。イエス様を救い主と信じ従う人たちは、みんなイエス様のために生き、主に仕える働き手、働き人であるということを聖書から聴き、学び、励まされ、神様と主イエス様の御心どおりに生き、歩み、教会を形作り、福音を伝えてゆく、その一つ一つを神の家族の一員として共に担ってゆく決心へと導かれたいと願っています。

少し話が外れますが、6月のオープニング賛美「愛を持って生きていこう」はいかがでしょうか。私は大好きで、大久保教会の年間賛美にしたいと思いますが、普段からささげている新生賛美歌と曲調・テンポが違いすぎて歌いにくい、馴染めないと感じられる方もおられると思います。しかし大切なのはメロディーラインやテンポでなくて、その歌詞です。「愛を持って生きていこう 互いに手を取りあって イエスのために生きていこう 愛の光の中を 私の人生は愛が満ちあふれる 愛し合う心をイエスは教えてくれた」という歌詞です。長沢崇文先生が20年も前に作詞作曲された賛美ですが、18ヶ月も続き、いつ収束するのか分からないコロナパンデミックの中で苦しみもがいているわたしたちに与えられた賛美歌だと思います。また、「私の人生は愛で満ちあふれている」と感じることが困難で日々苦闘している方にとっては、神様は愛の神、私を愛で満たしてくださる唯一の神、イエス様は私の救い主と信じる信仰へと招かれる大きな慰め、大きな励ましになったら良いなぁと心から願っています。

この1年半の間、コロナ危機の中で、すべての人が我慢を強いられ、心も身体も疲れていると思います。心に大きく激しい飢え渇きを覚えています。日々の営みに対しては閉塞感を抱き、この日本社会も閉塞した時代の只中にあります。自分のことがさらに優先され、人のことを思いやれない、優しくなれない、寛容さを欠く人々の言動が見えたり、聞こえたりしている中で、わたしたちを慰め、励まし、平安と希望を与えてくださるのは主イエス様です。

このイエス様が十字架上でわたしたちに本当の愛を、神様がいかにわたしたちを愛してくださっているかを教えてくださいました。この主が「神を愛し、隣人を愛し、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と神様の御心を教えてくださいました。この救い主を通して、神様は日々わたしたちに愛を注ぎ、その愛で心を満たし、癒し、新たにし、主イエス様と共に歩む恵みへと招き、その恵みの中にわたしたちは生かされています。すべての人がこの救い主イエス・キリストが必要です。ですから、そのような苦しみの中にある人々に仕えて生きることがイエス様のために生きることであり、そのためにわたしたちは救われ、召されています。

神様の愛を必要としている人々がわたしたちの周りにたくさんおられます。神様の存在を、その愛と赦しと救いを知らない人、福音を聞いたことのない人たち、重荷を負って日々苦闘して生きておられる方が大勢おられます。そのような人々を神様のもとへ招くために、わたしたちは主の働き手として生かされています。この働きは、一人ではなく、皆で心を合わせ、共に祈りながら、手を取り合ってなしてゆくこと、教会の業です。この業を進めるために、わたしたちがまずイエス様から愛を日々受け取り、その愛に生かされてゆく必要があります。

この地上で残された人生、自分に人生があとどれだけ残されているのか、私たちには分かりませんが、皆さんは残りの人生をどのように生きてゆきたいと願っておられるでしょうか。それぞれにある程度の計画や希望や想定する目標があると思いますが、わたしたちに最も重要なのは、あなたを造られ、生かしてくださっている神様があなたにどのように生きて欲しいと願っておられるのかということをはっきり知ること、それを主に求めるということです。

エフェソという現在のトルコ共和国にある町で伝道者・牧師として立てられた若い働き手・テモテは、様々な課題や深刻な問題を抱えている教会に仕えていましたが、その牧会の困難さから涙する月日を過ごしました。皆さんもそれぞれ、日々の生活の中で様々な試みにあったり、厳しい現実を突きつけられて涙したり、寝ても起きてももがき苦しみ、逃避行ができればしたいと心の中で願っているかもしれません。人生は確かに山あり谷ありです。

私は、神学校在学中、勉強が大変で何度もどこかへ逃げて消えてしまいたいと思った小心者です。涙もよく流しました。しかし、そのような心持ちになった原因は何でしょうか。神学校で学んでいる目的を見失い、感情に押し流されているから。神学校へ導いてくださった神様、牧師として生きる召命感を忘れ、この苦しみは何のために与えられているのかを考えなかったからです。振り返ってみれば、神学校時代、数え切れないほどの人々に、家族や友人や教会の方々だけでなく、失礼ながら顔は覚えているけれど名前を思い出せない人たちに励まされ、祈られ、神学校で学んでいる目的を何度もリマインド・再確認させられました。

皆さんは、どうでしょうか。このコロナパンデミックの苦しみと不安の中で、生かされている意味と目的、神様の御心は何であるのかと考えられることがあるでしょうか。大きな苦しみの中にあるかもしれませんが、その苦難の中でわたしたちに必要なのが、人々を通して神様から受ける「愛と励まし」なのです。この愛と励まし、そして祈りがわたしたちをイエス様につなげ続ける神様からの「恵み」であり、その恵みはキリストのからだなる教会、神の家族を通して与えられるのです。そのように神様が憐れみをもって備えてくださるのです。

テモテを我が子のように愛してやまないパウロ先生は、手紙を何度も書き送ってテモテを励まします。その励ます方法とは、テモテが主イエス・キリストによって救われ、伝道者・牧会者と召されている「恵み」を再確認させ、何をもって主イエス様のご期待に応えてゆくかを教え、勧め、力づけることでした。ですから、2章1節で「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」と励まし、主イエス・キリストを通して受ける神の「恵み」に目を注ぎ、その恵みに励まされて強く立ち続けなさいと励まします。

皆さん、今朝このことをどうぞ覚えてください。わたしたち一人一人には神様から委ねられている働きがあります。仕事、家事、育児、介護、教会での働き、家庭や社会でも大切な役割がありますが、その働く力は、わたしたちの肉体、意思や努力ではなく、キリストの恵み、神様の愛から来ます。日々の役割や責任や働きを担うことができる力は、イエス様の十字架の愛と赦し、復活の力によって、主イエス様を通して神様から与えられ、その愛と恵みによって、わたしたちは神様と人々に仕える力、喜び、感謝、誠実さ、謙遜さが与えられます。

それでは、何のためにこの恵みが与えられているのかを考えることが次に重要ですが、その目的は、神様の愛、キリストの福音を周囲の人々に伝えるためです。大きな喜びと平安と希望を分かち合うという働きです。2節に「わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えること」とあります。パウロ先生からテモテが聞いた福音とイエス様の教えを他の人々にも教え、分かち合うということです。パウロ先生は続けて言います。「わたしから聞いたことを、他の人々にも教えることができる忠実な人たちに委ねなさい」と。パウロ先生から教えられたようにテモテが他の忠実な人たちに教えてゆけば、その忠実な人たちがまた別の人たちに教え、それがキリストの福音の広がりとなり、3代・4代の霊的世代につながると励ますのです。

次の3節から7節で、兵士、競技者、農夫という人たちを例に出して、主に喜ばれる働き手はどのような人かを教えます。兵士は指揮官の言葉だけに従います。同じように、主イエス様の言葉だけに従う働き手になること。競技者は一定の規定に従って訓練、自制し、勝利を目指します。同様に、福音を伝えるために苦しみを耐え忍び、勝利を目指します。農夫の苦労は絶えませんが、豊かな収穫を信じて毎日コツコツ働きます。同様に、大きな収穫のために労苦をいとわず、福音の種まきをコツコツと続け、水をやり、肥料をやり、雑草を取る。主の働き手として生きるのは苦労が絶えませんが、7節後半にあるように、配慮に満ちた主イエス様がすべてを理解できるようにわたしたちと共に歩んで励まし、助けてくださるのです。

パウロ先生は、8節にあるように、テモテに「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と言って、いつも救い主に目を注ぎ、主がどなたであり、私たちの救いのために何をなしてくださったのかを思い起こしなさいと励まします。8節と9節ですが、「この方は、福音によれば、ダビデの子孫で、死者の中から復活された方、メシアであり、救い主、死に勝利された力あるお方である。この方の福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」とあります。神様の愛と主の復活の力によって主の働き手として立ち続けなさいとの励ましです。

皆さんはいま大きな苦難に直面しているかもしれませんが、その苦難の中に生きるわたしたちのそばにイエス様が共にいてくださっています。目の前に立ちはだかる大きな壁を見上げて失望するのではなく、その壁よりも遥かに大きく、遥かに強い御力、死に勝利した復活の主イエス様を見上げ、主の手を握り続け、主のために生きましょう。それが神様の御心です。

この箇所で覚えたいことは、主の恵みに与る過程では苦しみは必ずあるということです。イエス様がわたしたちを救うために十字架で苦しみを受けられたように、わたしたちが福音を宣べ伝え、恵みを分かち合い、共に救いに与ってゆく中で、サタンの攻撃や苦難は必ずあるということを覚える必要があります。兵士には戦場で怪我や死の危険があり、競技者には怪我があり、農夫には干ばつや大雨などで不作という苦しみを経験します。しかし、わたしたちに約束されているのは、主はいつも共にいて、救いの道を与えてくださるということです。

もう一つ心に留めたいことは、わたしたちが苦しみという鎖につながれても、「神の言葉、イエス様はつながれない」、いつも自由に動き、色々な人たちを用いて神様の愛を必要としている人たちに福音が届けられるということです。コロナ危機の中で礼拝堂に集えなくなりましたが、オンライン礼拝が始まり、インターネットを通して神様の愛、キリストの福音が伝えられ、分かち合われるようになりました。それはすべて主の恵みです。ですから、10節、確かに福音の種まきを続ける働きは苦労もありますが、一人でも多くの人々がイエス様を救い主と信じ、共に救いと永遠の命を得られるようになるための働きであるということです。

最後に11節から13節の言葉をリフレイズします。「あなたがキリストと共に死ぬなら、キリストと共に生きるようになる。苦難を耐え忍ぶならば、主イエスのご支配の中で永遠に安らぐことができる。だからあなたは主の恵みに立ち続け、苦難を耐え忍びなさい。主イエスを知らない、必要ないと言って地上での限られた命に生きるのではなく、イエス・キリストを救い主と告白し、永遠の命に生きる者とされなさい。主はご自分を否むことができないほど真実なお方である。この救い主を見上げ、従いなさい」とテモテを励まし、今日を生きるわたしたちを励まします。共に主を見上げて、一歩一歩、日々前進してまいりましょう。