ルカ (23) 新しく生きなさいと招くイエス

ルカによる福音書5章33節〜39節

ルカ福音書を4月から聴いていますが、いかがでしょうか。私は、学びの準備をしていて、とても楽しいですし、多くの発見があります。前回は、イエス様がレビという徴税人と出会ってゆかれ、彼を弟子として招かれる箇所から、イエス・キリストがこの地上に来られ、レビやわたしたちと出会ってくださる目的は、5章32節にあるように、わたしたち「罪人を招いて、悔い改めさせるため」であったことを聴きました。

 

イエス様と出会い、このお方に従うことによって、その交わりの豊かさの中で人はまったく新しい人に変えられてゆくことを聖書は語り伝えますが、その恵みのスタートラインは、「悔い改め」だと聖書は語ります。つまり、これまでの自分の歩みが神様抜きの身勝手の歩み、罪(間違いや弱さ)の多い人生であったことを認めて、「悔い改め(神様へ180度の方向転換をし)」て、神様と共に生きることです。ただ単に「反省」するだけでは神様の愛と憐みがはっきり分からずじまいとなり、心が新しく変えられないことを聴きました。

 

今回の学びのテーマは、前回の5章27節から32節の流れを引き継ぐ中で、イエス・キリストがわたしたちに対して、「新しくされて生きなさい」と招かれておられることを聴いてゆき、そして神様の愛と恵みの中で「新しく生きる」とはどういうことなのかをご一緒に聴いてゆきたいと思います。

 

今回の箇所は、先ほど触れたように前回のレビの家で「徴税人や他の人々」、ファリサイ派の人々が「罪人」と呼ぶ人々が招かれて催された「盛大な宴会」がプラットフォームになっています。構成ですが、まずイエス様に対する人々の問いかけがあり、その問いかけに対してイエス様が三つの譬えを用いてお答えになられるような流れになっています。

 

33節に、「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」との問いかけがあります。ここにある「人々」とは、イエス様の行いに対してよくつぶやくファリサイ派の人々やその派の律法学者たちです。

 

さて、この33節を読んで深く考えなければならない事が二つあるように思います。一つはファリサイ派の人々のつぶやきであり、もう一つは断食についてです。

 

一つ目は、彼らが「イエス様の弟子たち」と「ヨハネの弟子たち・ファリサイ派の弟子たち」を自分たちの「ものさし」で比較しているという点です。わたしたちが不幸になる原因は、「比べること」であると言われています。比べることはとても簡単なことで、人間の欲望をかき立てる「関心事」です。自分の価値観と他人の価値観、自分の持ち物と他人の持ち物、自分にあるものと他人にないもの、自分にないものと他人にあるものを比べる。比べようと思えば、限度がありません。わたしたちの多くは、いつも自分と誰かを比べて優越感か劣等感を味わい、無責任に誰かと誰かを比べて噂話や笑い話にしたり、妬んだり、疑ったりして、実に無意味なことをして無駄に時間を過ごします。何にしろ、比べることは、悩むこと、傷つくこと、苦しむこと、不幸の始まりであることを覚え、その反対にお互いの違いを認め合い、受容し合い、互いを喜び合うことを心がけたいものです。

 

二つ目は、「断食」です。断食とは、食事の全部もしくは一部を特定の期間故意に断つことです。聖書辞典によりますと、断食の起源というものは聖書には記されていません。しかし、旧約聖書には、モーセがイスラエルの民の犯した罪のために(申命記9:18)、イスラエルの民はベニヤミン族の罪のために(士師記20:26)、サムエルはイエスラエルの犯した罪のために(サムエル記上7:6)、ダビデは子どもの病気のために(サムエル記下12:16)、断食しています。また、イスラエルの贖罪日に断食した事がレビ記16章29節に、エルサレムが敵によって破壊されたことを覚えて年4回断食したことがゼカリヤ書7章と8章に記されています。断食は「それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改め(ヨエル1:14)を表現している」と聖書辞典にある。

 

では、なぜファリサイ派の人々は断食に関してうるさいのかというと、彼らは週に二回断食していたとルカ18章12節にあり、断食が習慣化されていたからです。彼らは、バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは断食をするのに、なぜ「あなたの弟子たちは飲んだり食べたり」するのか、なぜ断食をしないのかとイエス様に質問します。皆さんは、断食をされた事があるでしょうか。あるいは、年に何回か断食をされているでしょうか。イエス様のみ苦しみを覚えて受難節、受難週にされる方もおられます。

 

断食に関して、イエス様は何と言っておられるでしょうか。イエス様は、形式的な断食はしなくても良いと言われるのです。むしろ、今は断食の時ではなくて、救い主が共にいる「今」は、そうした習慣に従う必要はなく、むしろ大宴会の時、救い主が共にいてくださることを大いに喜ぶ時なのだとおっしゃるのです。イエス様の危惧したことは、断食するという「行為」が目的となってしまい、その行為が一人歩きし、人を裁く道具になってしまう危険性があるというものでした。案の定、ファリサイ派の人々は、自分たちの弟子(している)とイエス様の弟子(していない)を比較し、一方を裁いています。

 

34節に「そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか』」とありますが、花婿とはイエス様のことです。救い主のことです。旧約聖書では、神様とイスラエルの関係性が「結婚」という契約関係の中にあるたとえとして用いられ、神様が花婿で、イスラエルが花嫁と捉えた(エゼキエル16章、イザヤ書54章5〜8節、62章5節、エレミヤ書2章2節、ホセア書など)。新約聖書では、イエス様が花婿で、教会(信徒)が花嫁と捉えられることが多いです。

 

宴会を催して罪人と共に喜び祝うのは、救い主イエス・キリストが花婿として地上に来られたから、故に「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」とイエス様は言います。今は、救いを受け取る時、神様の愛と赦しを受け取って、新しくされる時、そのように招かれている時であるから共に喜ぼうと主は招きます。

 

しかしです。35節で、イエス様は、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」とおっしゃいます。それは、イエス様が十字架に架けられて贖いの死を遂げられる時です。ですので、新約の時代においては、断食するのであれば、弟子たちからイエス様が奪い去られた三日間で十分だと思います。また、この期間は、わたしのような罪人のためにイエス様が贖いの死を遂げられたと云うことを思う時として過ごすことが良いと思います。それ以外は、イエス様を通して神様に愛され、救われていることをいつも喜び、感謝して歩むことが御心だと思います。悲しんだり、悩んだりするのは、イエス様から離れて自分の思いと力で歩んでいると言えるかもしれません。

 

さて、イエス様は36節から3つのたとえを用いて、神様の愛と赦し、恵みの中で「新しく生きる」とはどういうことなのかを教えようとされます。まず36節で、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」と言われます。このたとえは、もったいないと思わずに、古いものと新しいものを切り離して考えなさい、律法と福音を融合させようと思ってはいけないということを教えています。私などがこの間違いを犯してしまい、古いものにも良いものはあるからと新しいものにミックスしようとしますが、そうすると新しいものも、古いものも、台無しになってしまう。律法の時代は終わった、今は福音の時代、イエス様の権威と力ある言葉によって新しい時代をイエス様と共に歩きなさい、律法という自分の行いによって救いを完成しようとしてはいけないということです。

 

37節では、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」とイエス様は教えられます。これも先の36節の教えと同じですが、古い革袋に入ったぶどう酒は「ユダヤ人・律法を守る人オンリー」というブランド名です。新しい革袋に入った新しいぶどう酒は「罪人でも、異邦人でも誰でもみんなオーケー」というブランド名です。古い革袋は律法を守る人だけが入るというものでしたが、新しい革袋は人間の行いによって救われるのではなく、神様の憐れみ、恵みを信じる信仰によって生きる人が入るものです。古い秩序でなくて新しい秩序の中に生きる、古い価値観を持ってではなくて新しい価値観を持って生きる、旧約時代の古い言葉ではなくて、新約の時代のイエス・キリストという新しい言葉に生きるように招かれています。古い自分のまま、古い心のままでは、イエス様の力強い言葉を受け止めきれないから、新しい心でイエス様の言葉を受け止めなさい、そうすれば新しくされるということです。

 

わたしたちの犯しやすい間違いは、古いものの方が良いと思い込み、新しいものを受け入れない、拒絶してしまうという所にあります。39節でイエス様は、「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」と言われます。これはどういうことかと云うと、現状のままで十分恵まれている、もうこれ以上変わる必要はないと自己完結してしまい、その心地良い現状を誰かが少しでも変えようとすれば、とっさに自己防衛の姿勢を取ってしまい、新しいことをしようとする人たちを妨害したり、攻撃して排除してしまうことにつながります。多くの教会、多くのクリスチャンは、現状維持で十分、それだけで精一杯だと考え、福音を携えて前進をしようとしません。それはファリサイ派の人たちと同じ考えで、自分たちの固定観念の中に生き続けることになり、それはイエス様が招いておられる「新しい人として生きる」ことを拒絶することになります。私たちに必要なのは、いつも心を柔らかく、柔軟にして、イエス様を通してわたしたちに豊かに注がれる愛と恵みを日々受けて、日々新しくされてゆくことです。