ルカ(12) バプテスマのヨハネの宣教

ルカによる福音書 3章1節〜20節

ルカによる福音書の学びも、今日から3章に入ります。今回はバプテスマのヨハネの宣教について聴いてゆきますが、ここには何故バプテスマのヨハネが重要な人物であるのかという理由が記され、彼の宣教の開始からヘロデ王に捕らえられる所まで記されています。

 

19節と20節に「ところで領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」とあります。

 

マルコ福音書6章14節以降とマタイ福音書14章によりますと、ヨハネは獄中でヘロデによって殺され、若い生涯を閉じます。なぜ殺されなければならなかったかは、マルコ16章、マタイ14章をお読みいただければと思います。

 

ルカ福音書は、この後の3章21節から22節、つまり来週聴く予定の箇所で、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマ・洗礼を受けることが記されています。しかし、時系列的には正確ではありません。バプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられるもっと前に、イエス様はヨハネからバプテスマを受けておられます。では何故、ルカは事実を時系列で正確に記さなかったのでしょうか。その理由は、ただ一つ。ルカはバプテスマのヨハネが捕らえられることによって旧約の時代が終わり、イエス様のバプテスマから新薬の時代が始まると云うことを象徴的に記したかったからと捉えることが正しい読み方のようです。

 

さて、1節に当時の皇帝、総督、領主たちの名が記されています。これもルカの特徴の一つですが、バプテスマのヨハネの活動も、イエス様の活動も、世界政治の歴史の枠組みの中に位置付け、神様がイエス様とバプテスマのヨハネを地上に誕生させた目的は、世界の救済が目的であることを明確にするためのものでした。

 

次の2節には、当時のユダヤ教のリーダーであった大祭司アンナスとカイアファの名が記されていますが、バプテスマのヨハネの活動の目的は、ユダヤ人たちを真のメシア、救い主をお迎えする前の準備、それは「悔い改め」ということですが、傲慢なユダヤ人たちを悔い改めに導くためであったことを明確にするためのものでした。

 

2節の後半に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とありますが、この言葉は非常に重要な言葉で、神様が預言者をイスラエルの民に派遣する時に用いられる言葉で、バプテスマのヨハネは旧約の時代の最後の預言者として神から派遣されたことを表す目的があります。(イザヤ書1章1節、エレミヤ書1章1節から10節、エゼキエル書1章3節、ホセア書1章1節、アモス書1章1節、ミカ書1章1節、ゼカリア書1章1節)荒野は、神様の言葉が啓示される場所とされています。

 

さて、3節に「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。マルコ福音書では「バプテスマ」と云う行為が強調されますが、ルカ福音書では「宣べ伝えた」という彼の悔い改めへの説教が強調されています。そして、悔い改めた者がどのように生きるべきかという指針、日々の生活に密着した指針を与える内容が10節から14節に記されています。

 

つまり、バプテスマのヨハネの宣教とは、説教によって人々を改心・悔い改めへと導くものであって、最終的な罪の赦しを与えるのはイエス・キリストであるということを強調したかったようです。人は、罪を赦す権限はありません。悔い改めへと導くだけです。救いを与えてくださるのは、神様であり、イエスであることをルカは信じて、こう記します。

 

4節から6節は、イザヤ書40章の引用で、バプテスマのヨハネが救い主の先駆者として道を整えるために派遣されたことが記されています。この部分で大切なのは、「主の道、その道筋を整える」ということがヨハネの使命であり、この「主の道」とはイエス・キリストであることを示しています。イエス・キリストを通して、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」、神様の愛と赦し、神様がいかに憐れみ深いお方であるかが分かるということです。

 

さて、バプテスマを授けてもらおうと群衆がヨハネのもとに押し寄せて来たことが7節に記されていますが、彼らに対してヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と非常に厳しい言葉を語ります。

 

「蝮の子ら」とは、神の子としての資格を失い、神に敵対する者たちを糾弾する強い呼び方で、彼らに対して「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とヨハネは言います。ユダヤ人たちは、その民族の血縁が救いの基本であると考え、アブラハムの子孫であることに満足し、神様の喜ばれるような生活を一切していなかったようです。つまり、ユダヤ人であればエスカレーター式に救われていくと考えていた訳です。

 

しかし、ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言います。口先だけのいい加減な生き方をやめなさい、傲慢に生きていることを悔い改め、神の民としてふさわしい生き方をしなさい、そうでないと「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」、もう斧は木の根元にあり、すぐにでも神様の裁きがあるというのです。「神様を畏れないで傲慢に生きるな。神様は石ころからでも神の民を創造することができ、実を結ばない者たちは切り倒され、焼き払われる」というのです。

 

では、「悔い改める」というのは、実際にどういうことでしょうか。何をすれば良いのでしょうか。「悔い改め」という意味は、180度の方向転換をするということです。今まで神様を認めず、自分の生きたいように生きて来た姿勢・方向を転換して、これからは神様に向かって生きるということが悔い改めです。そして、悔い改める時に心に抱くべき必要なことが3つあります。

 

一つは、自分のこれまでの間違いを認める、つまり罪の自覚を持つということです。これが最初にないと、神様に立ち返る本当の意味が分かりません。神様の愛と赦しにも必要性を感じられません。 悔い改めに必要なもう一つは、自分のこれまでの間違った生き方を悔やむ、無駄なことに費やしたことを悲しむということです。この思いがないと、神様に立ち返る意味だけでなく、心から神様の愛と赦しを求める力が心の奥底から湧き上がって来ません。 三つ目は、罪を捨てて、神様に立ち返りたいという願い、思いを持つこと、救いを求める思いを持つことです。罪の自覚、悔い、そして救いを求める強い思いが真の悔い改めを与えます。

 

悔い改めた人に、神様は救いと新しい心を与えてくださり、どのように生きるべきかをイエス様を通してメインに教えてくださいますが、今日の個所では、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたユダヤ人たちに対して、バプテスマのヨハネはこのように生きなさいと勧めます。それが11節から14節に記されていることです。

 

ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えます。徴税人は、「規定以上のものは取り立てるな」と言い、兵士たちには、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言います。

 

「下着を二枚持っている者、食べ物を持っている者」とは、わたしたちのような一般庶民です。そのような人に対して、余分に持っている持ち物を必要な人に分け与えなさい。自分のことだけでなく、苦しんでいる隣人のことを思いやりなさい、助けあって共に生きてゆきなさいということが勧められています。

 

徴税人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」と言います。不正を行なって、自分の生活だけを豊かにしてはいけないということです。兵士に対しては、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言います。決して暴力や権威などを道具にして生きようとしないで、謙遜に生きよということです。

 

さて、15節から16節は、来週聴くようにし、今日は最後に、ヨハネの言葉を聞いても悔い改めない人がどのようになるかを聴いてゆきたいと思います。その典型が19節と20節に記されているヘロデとその妻へロディアですが、自分の罪・間違いを認めず、権力で正義を握り潰そうとする人たちは「それまでの悪事にもう一つの悪事を加え」とあります。

 

9節に「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とありましたが、17節では後から来る救い主は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と記されています。脱穀作業は主の裁きを表します。主なる神は部屋の隅々まで麦と殻をきれいに分けられ、 麦を倉に収めて必要な時に用い、殻は何の役に立たないので燃やされるのです。わたしたちに大切なのは、神様とイエス様に対して心から悔い改め、全てのしがらみから解放されて、わたしたち一人一人が結ぶべき実を喜びと感謝をもって、自分のためではなく、神様と隣人の喜びのために結び続けて生きるということです。