ルカ(14) イエスの系図

ルカによる福音書 3章23節〜38節

今回は、イエス・キリストの系図から大切なことをご一緒に聞きたいと思いますが、新約聖書にはイエス様の系図が二つ存在していることをご存知であると思います。最も有名なのが、マタイによる福音書の1章に記されているイエス様の系図です。そしてあまり知らせていないのが、今回のルカによる福音書3章後半に記されているイエス様の系図です。

 

では、系図とはいったい何でしょうか。系図とは、一人の人が属する家柄やその血筋を示すもので、その人が何者であるか、どこから出たのかを表すことが目的となります。

 

マタイはユダヤ人です。ルカは非ユダヤ人(異邦人)です。マタイを含むユダヤ人は系図を重んじましたが、ルカを含むヘレニズムの中に生きる人々も系図を重んじました。日本や韓国はどうでしょうか。非常に家系を重んじる家もあるでしょう。しかし、家系など関係なく、懸命に日々を生き延びてきたという人の方が多いのではないでしょうか。

 

まずマタイによる福音書1章の系図ですが、この福音書は、そもそもユダヤ人たちにイエス様がメシア、救い主であることを伝えるために記されたものですので、系図はイスラエルの『偉大な祖父』、ユダヤ民族の長であるアブラハムから始まり、イエス・キリストで終わります。

 

ユダヤ民族とユダヤ社会に対して、イエス様はアブラハムの血を受け継ぎ、ダビデ王の血を受け継ぐ由緒正しいユダヤ人の家系に生まれたメシア・救い主、神様が約束された「油注がれた人」であることを示すために、マタイは系図を福音書の最初に記しました。

 

ここで面白いのは、男性中心のユダヤ社会の系図に女性や異邦人や罪人とされる人たちの名が記されていることです。すなわち、イエス・キリストはユダヤ人のためだけでなく、すべての人の救い主としてお生まれになられたということを記している部分です。

 

では、ルカによる福音書はどうかというと、イエス様は、聖霊によってマリアを通して生まれ、知恵に満ちて成長し、家族に仕え、バプテスマをヨハネが受け、神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言された後の3章後半にイエス様の系図は記されています。神様の「あなたはわたしの愛する子」という宣言の後に、イエス様の系図が記されていることは重要で、マタイ福音書のイエス様の系図と違いがあります。

 

これからとてもテクニカルなことをお話しするので、さらっと聴いていただければと思いますが、マタイによる福音書の系図はユダヤ民族の完全数である7の2倍の14代ごとに神様の3つの救済劇(アブラハムとの約束、ダビデによる国の繁栄、バビロニア捕囚後)という段階で、合計42世代の系図が記されています。アブラハムが出発点となり、イエス様までのユダヤの物語が系図として記されていると考えられます。ユダヤ人の救い主は、イエス・キリストと示します。

 

しかし、ルカには完全数7の11倍の77世代の名が記されています。しかもその手法はイエス様からさかのぼってゆき、アブラハムを遥かに通り越して、アダムにたどり着くというマタイ福音書と真逆の順番をとります。イエス様からさかのぼって、神様に対して最初に罪を犯したアダムまでたどります。これはすなわち、全人類の救い、すべての人の罪はイエス・キリストの贖いの死・十字架によって赦されるということを示しています。

 

ユダヤ人だけが救われるのではない、すべての人を救うために神様はイエス・キリストをこの地上にお遣わしになり、その福音宣教の業がこれから(4章から)始まるということを示すために、3章後半にイエス様の系図を位置付けたと考えられます。

 

ルカは、イエス様が神の子であり、すべての人々の真の救い主・メシアであるという人類の物語を系図として記したかったと考えられます。すべての人々、わたしたちは、民族、言語、肌の色、性別などを超えて、イエス様によって、イエス様を信じる信仰によって、一つの民、神の民・家族とされるということをルカは記したかったのだと思います。

 

テクニカルなことをもっと言いますと、確かにマタイが記したイエス様の系図とルカが記したイエス様の系図で一致しない部分がいくつもあります。例えば、ルカの系図には同じ名前が記されたりしていますが、ユダヤ人は先祖の名を子孫につけるという習慣があったので、同じ名前があっても何らおかしくありません。

 

血筋による系図であったり、族長・王による系図であったり色々あるわけですが、一番大切なのは、イエス様を救い主と信じることで、イエス様を通して神様につながることができるという良き知らせ、恵みです。

 

さて、今回は、23節にある2点に注目して終わりたいと思います。「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた」とあります。注目したい点は、「およそ三十歳であった」ということと、「ヨセフの子と思われていた」という2点です。

 

まず「およそ三十歳であった」という部分ですが、30歳という年齢は、ユダヤ社会では重要な意味があります。例えば、神殿で祭司として仕える役職を始めるのは30歳で、民数記4章3節には「幕屋(神殿)で作業に従事することができる三十歳以上」とあります。

 

ヨセフがファラオとエジプトを離れたとき、彼は30歳であったと創世記41章46節にあります。ダビデがイスラエルの王として立たされた時の年齢も30歳であったとサムエル記下5章4節に記されています。またエゼキエルが神に仕える預言者として召された年齢も30歳であったとエゼキエル1章1節に記されています。

 

「およそ三十歳」というのは、神様に仕える者にふさわしい年齢層と言えると思います。私事で恐縮ですが、25年前のことです。わたしは、当時30歳と7ヶ月で神学校を卒業し、31歳の時に母教会で宣教者として用いられ、32歳の時に結婚し、大久保教会の牧師とされ、33歳で父親とされました。その神様の導きと不思議な備えをすべて「恵み」として捉え、日々感謝して生きる者です。

 

ちょっと話が横道にそれますが、親というのは、子どもの就職や結婚や将来など色々と心配しますが、その子が30歳頃になるまで、彼、彼女の意思を尊重し、神様に導きを祈りつつ、子を見守る度量が親には必要かもしれません。もし30歳を超えて何も動きがなければ、今度は神様に祈らなければならないと思いますが、それまでは「親」という漢字に表れているように、「高い木の上に登って、見守る」のが親の役目なのかもしれません。

 

イエス様が30歳を超えた後、母マリアと兄弟姉妹たちは、イエス様の宣教活動の中で、イエス様を連れ戻しにきた事がマタイ12章46節以降、マルコ3章31節以降、ルカ8章19節以降に記されています。わたしたちも自分の家族に対して同じことをよくしてしまうのではないでしょうか。大切なのは、神様には格別なご配慮とご計画があるということを生活のすべての部分で心から認め、すべてを委ね、信頼して従ってゆくことだと思います。

 

さて、次に「ヨセフの子と思われていた」という点ですが、イエス様はガリラヤのナザレで暮らす大工の息子であった事は確かです。しかし人々から「ヨセフの子と思われていた」事が重要なことではなくて、神様がイエス様を誰と宣言され、その方を神様がその後にどのように導かれ、用いられたのかということが重要だと思います。

 

また、イエス様は、ご自身が神の子であり、救い主として神様から遣わされたこと、ご自分の使命を完全に理解していました。神様の御心を行う者、御心に適う者で、御心に従うことを喜びとされ、その生き様を通して、御心に従って生きる見本をわたしたちに示してくださいました。イエス様は、わたしたちを罪から救い出し、共に生きてくださる救い主であるのです。

 

わたしたちの罪は、アダムまでさかのぼります。果てしない限りの罪です。それをすべてさかのぼって贖ってくださり、わたしたちを神の子としてくださるために、わたしたちのすべての罪を背負って、十字架に架かって死んでくださった救い主がイエス・キリストなのです。

 

その真実を、神様の愛と赦し、イエス様の犠牲を示し、わたしたちが神様の愛とイエス様の救いと希望を受ける事ができる幸いをルカは福音書として記録し、その福音書の中にイエス様の系図を記したのです。

 

すべては、わたしたちを愛してくださる神様とイエス様から出た「恵み」をわたしたちに知らせ、わたしたちが感謝して受け取り、イエス様を信じ、従って生きるためです。そのような幸いがここに記されていると信じます。