ルカ(17) イエスの権威ある言葉

ルカによる福音書4章31〜37節

前回は、主イエスがご自分の郷里であるナザレで、興味本位の「しるし」を求められ、その人々の心の頑なさを指摘したら、今度は拒絶され、崖から突き落とされそうになったという箇所に聴きました。しかし、イエス様は害を加えようとする群衆の中をスルッとすり抜けて故郷を離れました。今日は、その後、イエス様はガリラヤ地方の町カファルナウムに進まれ、そこで宣教活動を続けられた箇所をご一緒に聴いてゆきたいと思います。いくつかの注解書は、31節から44節までを一括りにしていますが、新共同訳聖書の小見出しに従って、ゆっくりとルカ福音書にあるイエス様の言葉に聴いてゆきたいと思います。

新共同訳聖書の31節から37節の区分には、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」という小見出しが付いていますが、この見出しだと汚れた霊に取りつかれた人をいやす「イエス様」にスポットライトが当てられますが、この箇所での最重要点は、汚れた霊・悪霊を退かせるイエス様の「言葉」に権威と力があったという事です。そして注目すべきは、その主の権威と力のある「言葉」に会堂に居合わせた群衆はどのようなリアクト・反応をしたのかという事実を知り、そして2022年という現代に生かされているわたしたちは、権威と力あるイエス様の「言葉」にどのようにリアクトするのかということだと思います。

イエス様の「言葉」をただ「聞く」のではなく、つまり他人事のように聞き流すのではなく、自分に語られている言葉として耳を傾けて「聴く」時、神様とイエス様とご聖霊が直に働かれ、語られるのですから、心に変化が与えられるはずです。しかし、もしリアクションがないならば、他人事のように聞き流しているという証なのではないかと思います。

さて、31節に「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた」とあります。この「安息日」は複数形になっていますので、「安息日ごと」にイエス様は人々に教えたと言うことです。では、安息日ごとにイエス様は何を教えられたのかと言うことですが、それは「神の国」について、神の国が近づいていて、聴く人たちはみな招かれていて、その招きにどう答えるかという事を教えられました。

それに対して「人々はその教えに非常に驚いた」と32節に記されています。この「非常に驚いた」と言うことは後ほどお話ししたいと思いますが、人々はイエス様の教えておられた内容、福音の内容に驚きを隠せなかったということです。イエス様の教えは今まで聞いたことのないまったく新しいもので、新しい気付き、新しい視点を与えるものであったのでしょう。あるいは、その教えの中に、神様の愛を強く感じたのかもしれません。

しかし今日は、32節の後半の「その(イエス様の)言葉には権威があったからである」と言う部分についてお話ししたいと思います。36節では会堂でイエス様の教えを聞いた人々は主の言葉には「権威と力」があると言っていますが、主イエス様の言葉に「権威」があったということに注目したいと思うのです。

辞書で「権威」という言葉を調べてみますと、「人々に強制し服従させる威力」とありますが、この定義はイエス様の権威、権威ある言葉には当てはまりません。イエス様は、決してわたしたちを強制したり、無理やり服従させる方ではなく、わたしたちが自由に、かつ自分の意志で、つまり自発的にイエス様に従おうとする決心・決意を重んじられます。イエス様に従うと決心した人に、主は祝福をもって「信仰」をお与えになるのです。

ここで使用されているギリシャ語の「権威」は、「エクスーシア」という言葉が使われていますが、この言葉は他では「権利」、「支配」とも訳され、特に「神に由来する力」と解釈されています。すなわち、イエス様の言葉は、イエス様個人の言葉ではなく、父なる神様、イエス様を地上に派遣された「神様の言葉」であり、であるからイエス様の言葉には「権威がある」と捉えることができます。皆さんのお考えはいかがでしょうか。

ホーリネス派のキリスト教会の赤木善光という牧師は、権威とは、1)説得力があること、2)信頼・信用に値すること、3)模範的であること、4)創造性があること、5)威厳があることと言っています。そうなりますと、イエス様の言葉には説得力があり、信用できるものであり、イエス様が生きているそのままであり、人の心を新しくする力があり、威厳がある、つまり堂々としてブレないものがあったということになると思います。

「イエス様が生きているそのまま」というのは、イエス様の言葉と行動には一致があったということで、端的に言うと、言葉どおりに生きるということです。人々に神を愛しなさいと教えている人が神を愛さず、自分を愛する生活をしている牧師や教師が多いのです。それは、わたし自身にも言えることで、偽善的な人の言葉には権威も力もないのです。その理由は、神様はすべてをご存じで、偽善者には祝福と力をお与えにならないからです。

さて、イエス様とその言葉には「権威」があったので、イエス様の言葉を聞いたすべての存在はすぐに反応するのです。33節と34節には「汚れた悪霊」がすぐさま反応することが記されています。読んでみましょう。「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』」とあります。

神様を礼拝する会堂に「汚れた悪霊」がいたことも驚きで、どうしていたのかと不思議に思うのですが、そこは重要ではなく、悪霊がイエス様の言葉にどのように反応・リアクトしたのかを知ることが大切だと思います。悪霊はまず「大声で叫び」ます。これを聞いた会衆たちも驚き、何がこれから起こるのだろうと恐怖したと思います。この「大声で叫ぶ」のは拒否反応の表れです。なぜ拒否するのか、イエス様と悪霊は共存できないからです。悪霊は「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と叫びます。

はい、イエス様には悪霊を滅ぼす力があります。ですから、悪霊は恐れたのです。「かまわないでくれ」という叫びは、「お前とは関係を持ちたくない。関わりたくないから、こちらに近寄って来るな」という意味です。しかし、イエス様がこの地上に「来られた」理由は、その悪霊に取りつかれた人を自由にし、神様の愛の中で生き生きと喜びをもって生かすためであったことを覚えたいと思います。それはわたしたちにも同じ事が言えます。

わたしたちは「悪霊」に取りつかれていなくても、様々なことに捕らわれて生きています。欲望、不安、恐れなど、他にもあります。しかし、実は欲望や恐れなどは悪霊が引き起こすもの、原因はそこにあり、わたしたちはそれらに「囚われて」いるのです。しかし、そのように罪と汚れに囚われているわたしたちを救い出し、自由を与えるためにイエス様はこの地上に「来て」くださった、それが福音、良き知らせなのです。

このイエス様を「かまわないでくれ」、「あなたとは関係を持ちたくない。関わりたくないから、こちらに近寄って来るな」と拒絶するのか、それとも「イエス様を信じよう、信じてみたい」と心を開いてゆくのかが、わたしたちに問われているのだと思います。

悪霊は、イエス様のことを「(お前の)正体は分かっている。神の聖者だ」と言いました。旧約聖書(例えば列王記下4章9節)では、「神の聖者」は、預言者や大祭司などを指していますが、この悪霊はイエス様が神様から遣わされた、単なる「聖者」ではなく、権威と力ある「救い主・メシア」であることを知っていました。しかし、いくら「知っていても」、知識だけではダメなのです。イエス様を救い主と「信じ」、イエス様に「つながらなければ」、わたしたちの内に神様の愛と祝福が豊かに注がれて行かないのです。

大声で叫び散らす悪霊にイエス様は、35節で「黙れ。この人から出て行け」と言います。悪霊は黙りませんでしたが、わたしたちに大切なのは、主の前に「静まる」ことです。すぐに反発する癖・性質が人にはあると思いますが、反発ではなく、愛と権威ある主イエス様の言葉に耳を傾けてゆくこと、「傾聴」がわたしたちに必要なのだと思います。

イエス様がお叱りになると、悪霊はその人を人々の中に投げ倒して出て行ったとありますが、悪霊から自由になった男性は無傷でした。彼が無傷であったことに神様の憐れみを強く感じます。神様は、御子イエス様を通してわたしたちを癒したい、救いたい、自由にしたい、そして喜びと平安の中に生きてほしいと切に願って、求めることを待っておられます。その愛を受け取る方法は、まず心を開いてイエス様を信じること、そしてイエス様の愛と権威ある言葉に日々聴き続けることです。神様の愛は、途切れることのない「継続の愛」です。わたしたちの神様に対する愛と信頼も途切れることのないように、イエス様の言葉に聴き従うことが大切なのです。そうでないと、すぐに何かに囚われてしまいます。

最後に36節に注目したいと思います。「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』」とあります。「人々は皆驚いた」とあります。何に驚いかのか。それは主イエス様の「権威と力ある言葉」にです。イエス様の言葉、その話す内容に人々は圧倒され、心が動き、揺さぶられ、感動したということです。会衆の中には、神のことは何もかもすべてすでに知っているという頭でっかちな傲慢な人やイエス様に何も期待していない人もいたでしょう。しかし、その人たちの心を神様の力、イエス様の言葉が圧倒し、揺さぶり、動かすのです。神様の言葉、イエス様の言葉には、わたしたちの心を新しくする権威と力があるのです。

ルカ福音書では、「権威と力ある言葉」というフレーズが出て来るのは、必ずと言って良いほど悪霊を追い出す時に出てきます。イエス様の言葉には、わたしたちの罪を赦し、完全な救いと自由を与える力、平安と希望を与える力、神様の愛の中に生かす恵みを与える権威があります。その愛と憐れみを受け取りなさいとわたしたちは日々招かれています。