ルカ(18) 病人を癒すイエス

ルカによる福音書4章38節〜44節

前回は、イエス様の言葉に「権威と力」があるということを聴きました。イエス様は、権威と力ある言葉をもって、悪霊を一人の男性の中から追い出し、男性を悪霊の支配から完全に解放しました。今回も、前回同様、イエス様の言葉には権威と力があるというテーマがメインですが、コンテキストが少々違いますので、新しい心持ちで聴いて行きたいと思います。また、当初は38節から41節までに聴くつもりでしたが、いろいろと考えた結果、44節まで聴くことに変更し、来週はルカ福音書5章に入って行きたいと思います。

さて前回、イエス様は安息日ごとにユダヤ人たちの集会所・シナゴーグで人々に「神の国」について教えられたことを聴きました。その教え・言葉に権威と力があったので、聴衆は驚嘆し、圧倒されます。今まで耳にした事のない程の心を揺さぶる教えであり、その言葉に神様の愛を感じたのではないかと思います。さて、ユダヤの安息日は、金曜の日没から土曜の日没までの24時間です。そして金曜の夜は家族と過ごし、土曜の朝に集会所で礼拝をささげるということが習慣でした。そのことを覚えておいてください。

今回の最初の部分は、集会所で主が教えられた後の安息日の後半に起こった出来事が記されています。38節に「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。このシモンという人は、次の5章でイエス様に弟子として招かれる漁師のシモン・ペトロです、シモンはすでに結婚しており、妻の母親と同居していたことが分かります。

イエス様がなぜシモンの家を訪問したのかという目的・理由は記されていませんが、その家にシモンの姑が高熱を出して苦しんでいたということ、そして婿のシモンではなく、苦しむ彼女のことを不憫に思う人々がイエス様に彼女を癒してほしいと頼むことが記されています。彼女は人々から愛されている人であり、人々を日頃から愛して仕えていたのではないかと思います。ゆえに、シモンの姑を高熱の苦しみから解放し、癒し、救い、自由にするためにイエス様はシモンの家に入られたと考えるのが自然だと思います。

ここで興味深いのは次の39節です。「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると」とあります。イエス様は「熱を叱りつける」のです。ルカによる福音書では、前回同様、この高熱は悪霊に憑かれていることから来るものと捉えています。ですので、「熱を叱りつける」とは、姑の中にいた悪霊を叱りつけたということで、イエス様の権威と力ある言葉を聞いた悪霊は、彼女から出ていきます。それが「熱は去り」という言葉の意味です。

前回は、集会所で、大勢の人々の中で男性から悪霊を追い出すことが記されていましたが、今回は、家で、少ない人数の中で女性から悪霊を追い出すことが記され、主イエス様の言葉には父なる神様から与えられた権威と力があるというテーマとなっています。もう一つ面白いコントラストがありますが、それは後ほどお話ししたいと思います。

さて、高熱とその苦しみから解放されたシモンの姑ですが、39節の後半に、「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」とあります。ある人は、病み上がりの人ではなく、彼女の娘・シモンの妻がイエス様と一同をもてなすべきではないかと考えるかも知れませんが、彼女の娘・シモンの妻も確かにそこにいてイエス様と一同をもてなしたと思います。たぶん、母親以上に働いて、たくさん食事を作って、全力でもてなしたと思います。

しかし、ルカはイエス様に癒された母親にスポットライトを当てます。何故ならば、イエス様に癒された彼女の「喜びと感謝」が「イエス様を精一杯もてなしたい」という気持ちにさせ、主イエス様の救いの御業への感謝と喜びが、彼女の「主イエス様に仕えたい」という心の原動力であったことを示そうとしていると思います。大きな喜びと感謝を抱く人を誰も止められません。彼女の思いと行動を喜ばれたのは、イエス様であり、神様です。

さて、次の40節に「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。「日が暮れると」とありますが、安息日が終わったということです。牧師や教会に仕える人は日曜日の夜にどっと疲れを覚えます。イエス様もそうではなかったかと思いますが、そのイエス様のところへ、「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」のです。

わたしたちは、少しは遠慮したらどうかと思うかも知れませんが、この人たちは本当に切羽詰まった状態であったのだろうと推測します。大きな苦しみを抱えながらずっと生きてきたでしょうし、ずっと癒されたい、苦しみから解放されたいと願っていたでしょう。

41節をみますと、「悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った」とありますので、この病に苦しむ人たちも悪霊に支配され、苦しめられていたことが分かります。わたしたちも苦しみを自分のこととして考える時、「少しは遠慮したら」とは言えないのではないかと思います。

40節の後半に、「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。イエス様は苦しむ人たちを追い返すことはせずに、「一人ひとり」に手を置いていやされるのです。一人ひとりに手を置き、その権威と力ある言葉によって癒すのです。10人ひとまとめとかそういうことはせずに、一人ひとりを大切にし、向き合ってくださり、癒してくださるのです。これは、わたしたちに強制されていることではなく、模範とすることです。

詩編107編の20・21節に、「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」とあります。これは、「主なる神様はイエス・キリストという御言葉をこの世に遣わして人々を癒し、破滅(苦しみや痛み)から救い出される」ことの預言的言葉です。罪から救われ、病と苦しみから解放されたわたしたちのなすべきことは、「主に感謝せよ」とあるように、シモンの姑のように、喜びと感謝をもって主イエス様をもてなす、すなわち心から仕えることです。その原動力は、「主なる神様は慈しみ深く、救い主イエス様を通して、人の子らに驚くべき御業を成し遂げ」てくださったからです。

次の41節に「悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである」とあります。何故イエス様は「悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった」のでしょうか。皆さんは、何故だと思いますか。とても興味深いと思われないでしょうか。少なくとも二つ理由があると思います。

一つ目の理由は、悪霊はイエス様の邪魔をする存在であるからです。もし悪霊に「ものを言うことをお許しに」なったら、悪霊はイエス様について人々に間違った情報を与えてイエス様の宣教の邪魔をするでしょう。例えば、イエス様には大いなる力があり、イスラエルが待ち望んでいた「王」が来たと言ってイエス様を政治活動のリーダーとして担ぎ出そうとする危険性もあり、「神の国について教える」という福音宣教活動を邪魔する危険性、強いて言えば、イエス様が派遣されたわたしたちの罪の贖いとして十字架に架かって死ぬことを止める危険性もありましたから、「お許しにならなかった」と考えられます。

もう一つの理由として考えられるのは、悪霊にイエス様を「神の子、メシア(油注がれた者)です」と言われたくなかったから。そうではなくて、シモンの姑のように、イエス様に癒され、救われ、苦しみから解放された人たちに心から神様に仕えて欲しかったからだと思います。つまり、救われた人たち、わたしたちが喜びと感謝をもって主に仕えることを神様とイエス様は願っていて、それをもっとも喜んでくださるからです。

さて、安息日の翌朝のことが42節に記されています。「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」とあります。「人里離れた所」という言葉の言語は「荒れ野」と同じです。しかし何故、イエス様はそのような所へ朝早くに行かれたのか。それは神様に祈り、神様と会話をし、神様の御心を聴くためです。祈りは神を第一にする行為です。

わたしたちには神様の声、御心を聴く方法が二つ与えられています。一つは、人のいないところで神様に祈ること。もう一つは、聖書を通して、イエス・キリストという神様の言葉に聴く方法です。祈る時も、聖書を読む時も、神様の霊・聖霊が助けてくださり、御心に聴く力と理解する力を与え、御心に沿って生きる導きを与えてくれます。神様に祈る時、自分の思いではなく、御心に集中できます。その具体例が次に記されています。

42節に「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」とあります。何故引き止めたのでしょうか。病気を癒す医者が必要であったからです。そういう人がいたら、安心して暮らせます。そういう思いが群衆にあったのだと考えられます。しかし、イエス様は揺さぶられません。なびかない。どうしてか、神様の御心を確かめる「祈りの時」があったからです。43節に「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』」とある通りです。なびかないイエス様は、44節にあるように、ユダヤの諸会堂に言って「神の国の福音を告げ知らせ」ます。

「神の国の福音」とは何でしょうか。ローマ14章17節には「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びです」とあります。聖霊によって、心に神の愛と赦し、神様との平和、神様に救われているという喜びが与えられていること、つまり、心に、魂に神様が与えてくださる「安息」があるという大きな恵みです。この恵みに応えて生きましょう。