ルカ(25) 安息日の主イエス②

ルカによる福音書6章6〜11節

先週の学びに引き続き、「安息日」をテーマに、イエス様の言葉に聴いてゆきたいと思いますが、前回の学びでは、わたしたち人間が、律法によって強制されてではなく、自由な意志の中で、感謝と喜びを持って「安息日」を過ごすことが神様の御心であるとイエス様が教えておられる箇所を聴きました。そして、そのようにできるように、旧約聖書に記録されている「安息日」に関するさまざまな律法・規定からわたしたちを解放し、ユダヤ人たちが持ち続けてきた宗教観、その「枠組み」をすべて取り去ろうとイエス様が始めてゆく最初の部分を聴きました。

 

なぜイエス様にはそのような改革を実施することが可能であったのか、という疑念に対して、イエス様はご自身が「安息日の主」であると宣言し、「安息日」の意味と目的をはっきり示し、今までの「枠組み」を変更できる権威をイエス様は神様から与えられていたということを聴きました。「安息日」は、誰のために、何にためにあるのか。それはわたしたちのためであり、神様とまず向き合い、イエス・キリストを通して与えられている救いの完成、神様との約束・契約を喜び、感謝をささげるために、すぐに恵みを忘れてしまうので神様の愛をリマインドするためにあるということを前回聴きました。

 

さて、先週の焦点は、何であったでしょうか。それは、「安息日にしてはならないこと」をイエス様の弟子たちがしていたという指摘がファリサイ派の人々からあったことでした。麦の穂を摘んで手で揉んで食べることは安息日に関する律法・規定に反することだと抗議があったわけで、それに対するイエス様の応答を聴きました。

 

今回は、9節に記されているイエス様の言葉が焦点になります。すなわち、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」という問いかけです。「安息日に善いことをしてはいけないのか」という問いかけが焦点となっています。

 

さて、お話が前後しますが、イエス様が取り去ろうと試みられ、実際に取り去った「枠組み」とは「分断」という枠組みと「差別」という枠組みであったと先週お話ししました。ファリサイ派の人々は律法を道具に社会の中に「分断」を生み出していましたが、イエス・キリストはこの地上に「一致」をもたらすために来られた救い主であることが示されてゆきます。そして、イエス様はこの世界に「差別」の一切を無くし、すべての人が「平等」の中で生きることができるために来られた、それが神様の御心であり、神様の愛であるということが、ルカが福音書の中で一貫して記したかったテーマであると思います。

 

それでは、6節から読み進めてまいりましょう。「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた」とあります。「ほかの安息日に」とあります。イエス様の教え、そして救いの働きは安息日ごとにコンスタントに行われていたということ、その教えと働きにブレが一切ない、安定感がいつもあるということだと思います。そして「そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた」とあります。「右手」というのは「働く手」という意味で、その手を動かして働くからその人とその家族は生きて行ける、そういう重要な手です。その手が「萎えていた」とあります。麻痺していたのか、痺れていたのか、とにかく力がまったく入らない状態です。

 

そのような人に注目したのが律法学者たちやファリサイ派の人々でありました。なぜ注目したのかが7節に記されています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。非常に残念なメンタリティーですね。人の粗探しに力と時間を注入しています。しかし、イエス様のなさることは「粗」ではなく、なさるすべての業は、人々が、わたしたちが神様につながる、「救い」につながる愛に満ちた業です。それをただ喜ぶのです。

 

さて、8節の最初に「イエスは彼らの考えを見抜いて」とあります。ルカ福音書には、他にも5章22節、9章47節、11章17節で、イエス様が人の考えを見抜く力があった、予知能力があったことが記されています。心を観察し、考えていることを見抜く。すごいと思いますが、敵対する人たちの心を見抜くだけではなくて、わたしたちの心、一人ひとりの心の中もイエス様、神様にはお見通しである事、隠し立てできないことを覚え、いつでも何でも神様に思いや考えを伝える祈りを大切にしたいと思わされます。

 

さて、8節の後半です。「手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った」とあります。イエス様はこの一人の人に注目します。そして、近くに招かれます。右手が不自由な人にとって、「立って、真ん中に出る」ということは簡単なことではなかったと思うのはわたしだけでしょうか。会堂は超満員であったと思います。他にもイエス様に癒してほしいと願っていた人も多かったと思います。右手が不自由なことが恥ずかしかったでしょうか、他の人を差し置いて人前に出るのは心が痛んだでしょうか。そうかも知れません。しかし、心の中では嬉しかったと思います。

 

さて、次の9節が今回の中心部分です。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』」。「あなたたち」とは、イエス様を訴える口実を探していた律法学者たち、ファリサイ派の人たちです。まかりなりにも律法の専門家たちに「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と尋ねます。

 

律法学者たち、ファリサイ派の人たちにとって重要なこと、関心ごとは、「安息日の規定・律法が守られているか」ということで、「安息日の意味と目的」はどうでも良かったようです。しかし、イエス様はその逆です。「規定・律法を守ること」よりも、「悩み苦しんでいる人たち、痛んでいる人たち」をその苦しみから解放し、救い、彼らの心を休ませてあげたい。つまり、殺すことよりも、生かすことを常に大切にしておられます。

 

そもそも「律法」とは何でしょうか。神様の御心が示されているものであり、まず神様と人間が神様が与えてくださる「一致」の中で共に生きてゆくために与えられたものであり、次に人と人が神様の愛の中で「一つ」として共に生きてゆくために与えられたもので、何の差別もなく平等に与えられたもので、人を裁いたり、分断を作り出すものではありません。しかし、人間は愚かなので、少し力や知恵がつくと、すぐに悪いことに用い、神様の御心とは正反対のことに用いてしまいます。誠に残念なことです。

 

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。「律法を守るためであれば、人の命を犠牲にしても良いのか。そんな馬鹿げたことはない。そんな律法はこの世に必要ない。必要なのは、人を生かすこと、祝福することを最優先する律法である。それは愛の律法である」とイエス様がおっしゃっているようです。「人を救うことと人を滅ぼすこと」、どちらが神様の御心であるか。イエス様がこの地上に救い主として神様から遣わされたことだけで、答えは分かると思います。皆さんには、イエス様のこの言葉がどのように伝わっているでしょうか。

 

10節には「そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった」とあります。イエス様の言葉には人の命と生活を祝福する権威と力があります。主イエス様には不自由さから解放する力、障がい者と健常者の間にある「差別」という壁を取り除き、「平等」を与える力があります。このイエス様の力と権威は、わたしたちを神様の許に招き、心と身体に安息を与えるための愛なのです。

 

その反面、とても残念なのは、神様の愛と御心、救い主イエス・キリストを受け入れられない頑なな心を持ち続ける人です。頑なな心は口先だけです。詭弁を言います。「あ〜言えば、こう言う。こう言えば、あ〜言う」のです。人を癒したい、救いたいならば、安息日の前か後にしたら良いではないか、なぜ安息日にするのか攻撃してきます。

 

しかし、心の頑なな人は、かっこいいことは言いますが、そう言う人たちに限って、安息日の前の日でも、安息日の次の日でも、苦しみの中に置かれている人を助けることをせずに、放置したままにするのです。苦しむ人たちを汚れた者、とるに足らない人のように見下し、差別する傾向があります。命を守ることを第一にしない、人の命と生活を助けると言うことを怠ること、それが「悪を行う」ことだとわたしたちにイエス様は伝えたのではないでしょうか。どうでしょうか。

 

11節に「彼ら(律法学者・ファリサイ派の人々)は怒り狂って、イエスを何とかしてしようと話し合った(つまり、殺す計画を始めた)」とあります。わたしたちの心にそのようなことがないように、イエス様を通して与えられている神様の愛をいつも感じ取り、その愛の中で生かされることを喜び、感謝して歩んでまいりましょう。