ルカ(28) 幸いを宣言するイエス

ルカによる福音書6章20〜26節

今回の箇所は、「平地での説教」の最初の部分に当たります。20節に「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とありますが、弟子だけでなく、イエス様の教えを求めて集まって来たすべての人たち、群衆に語りかけている教えとなります。

 

イエス様の「平地での説教」の最初のテーマは、人生における本当の「幸いと不幸」とは何かという、人が最も関心を寄せる重要なテーマになります。日本でも、韓国でも、アメリカでも、世界中どこでも、暮らしが安定することが最重要課題であり、それぞれの国の国政選挙、大統領選挙などでどの党に、誰に投票するかが焦点となっていて、国内外の諸問題・課題を解決できないリーダーや政府は痛烈な批判を受けます。今、インフレーションや円安やエネルギー問題や食糧問題、水問題、戦争・紛争など、生活を圧迫する問題が山積みであり、そこに温暖化によってもたらされている様々な自然災害の負担が世界中で、すべての人にのしかかって来ています。そういう中で、経済的に幸せな人たちとそうでない人たちの格差は日々拡大の一途を辿っています。これからの生活に不安を抱えています。

 

人間、誰しも自分と家族の幸せ、自分の国や世界の幸せを願い、不幸を望むことはありません。しかし、この箇所では、世間の「幸せと不幸」に対する観点とイエス様の観点は、決して同じではないと言うことがイエス様によって教えられています。人々が望む幸せと神様の望まれる幸せ、イエス様がこの地上に来られてもたらされる幸せはまったく違うと言う事が語られています。世間は、とかく今の幸せを追い求め、それが自分の老後や孫の時代まで、将来へと長く続けば良いなぁと願います。しかし、イエス様は今よりも将来、はたまた永遠に続く幸いを考えていて、弟子たちに近視眼的観点ではなく、遠視眼的観点を持ちなさいと語ります。目先の幸せ、ショートスパンの幸いではなく、永遠に続く幸せ、ロングスパンの幸いを求めなさいと教えられます。

 

この箇所でもう一つ面白い注目点は、23節にある「預言者たち」という言葉と26節にある「偽預言者たち」と言う言葉です。「預言者」は、わたしたちの心と耳、また視線を神様に向けさせ、聞かせる役目があります。しかし「偽預言者」はそうではありません。わたしたちの心を喜ばせ、耳障りの良いことを語り、心と視線をこの世がもたらす富や地位や虚栄に向かせます。正しいことを語る者たちが誤解され、不当な扱いを受け、惑わすことを平気で語る者たちが歓待され、チヤホヤされます。そういう時代にあって、何が本当の「幸せ」であり、何がわたしたちを惑わす「虚像・不幸せ」なのかをイエス様は臆することなく語るのです。

 

この箇所を読んでゆく上でもう一つ大切な観点は、神様はわたしたちのすべてをご覧になって、知っておられるということです。わたしたちが何を大切にして日々生きているか、何を選び取って生きているのか、ということなどをご覧になっておられます。これは、いつも監視されているということではありません。何か悪さをしないかと見られているということではなくて、その反対です。つまり、いつも神様に見守られ、人から評価されないような小さな行いや誠実に生きている姿を神様は知ってくださっているということ、そういう神様に忠実であり、人々に対して誠実な人を神様は報いてくださるという観点です。

 

さて、今回の箇所は、20節から23節の箇所と24節から26節の箇所が「対」となっており、「対極」する形になっています。つまり、最初の部分で「本当の幸いとは何か」が教えられ、後の部分は「不幸せとは何か」が教えられている興味深い箇所です。

 

20節から読んでまいりましょう。イエス様の言葉です。「貧しい人々は、幸いである、 神の国はあなたがたのものである」とあります。「貧しい人々」という言葉は旧約聖書(詩編37編など)の時代から使用されて来ました。「貧しい」とは単に経済的貧困ではなく、社会から価値評価をされない人々、弱者、軽蔑された人々、自力では生きられない人々も含まれ、もっと具体的に言えば、働けど働けど暮らしが豊かにならない人々、高齢者、シングルぺレンツ、その子どもたち、病人、身体に障害のある方々、教育がしっかり受けられない子や青年たち、物質的にも、精神的にも、行政的にも支援を受けられないで、顧みられないで生きることに困っている人たちです。実生活では本当に大変です。

 

しかし、その人たちに、「神の国はあなたがたのものである」とイエス様は教えられます。「神の国」という言葉は、実在する空間概念ではなく、神が支配される、治めるという意味として用いられています。神様が苦労を見て知っておられる。顧みてくださる。この地上で不当な扱いを受けても、神はその人たちを神が御支配される中へ迎えてくださり、神の国で幸いを得られる、だから神を信じ、畏れなさい。心配するな、絶望するな、神に希望を持ちなさいという励ましです。貧しい人が幸いという「幸い」とは、貧困そのものが幸いとか、病気であることが幸いというのではなく、神様がその人を必ず顧みて救ってくださるから幸いという意味です。

 

21節では、二つの幸いが語られています。「今飢えている人々は、幸いである、 あなたがたは満たされる」と「今泣いている人々は、幸いである、 あなたがたは笑うようになる」です。「飢えている人々」とは、貧しさの結果です。貧しいから飢える。またひととき満腹になっても、時間が経てばまた空腹になります。生きるため、食うために働きます。しかし、飢えている人がなぜ幸いなのかというと、「あなたがたは満たされる」と受動形になっています。つまり、神様によって飢えが満たされるという約束がなされているから幸いだとイエス様は人々に教えます。

 

「今泣いている人々」、これも貧しさから苦しみの表現です。しかし、今は泣いていても、あなたがたの苦しみは神によって顧みられる。笑うようになると約束されています。笑うというのは、不安も恐れもない心の状態を表します。神様によって恐れや不安から解放される時が来るから、神を信じなさいという励ましの言葉です。

 

22節には、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」とあります。「人の子のために」というのは、イエス・キリストを信じる信仰が原因となって人々、社会から憎まれ、侮辱され、迫害され、孤立しても、という意味です。しかし、地上での迫害を耐え忍び、イエス様につながり続ける時、神様が顧みてくださり、神様の許へ招かれるという約束の言葉です。

 

23節の最初には、「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」とあります。地上での生活は70年・80年、最近では90年の時代です。しかし、神様が迎えてくださる天は永遠に続き、その天において大きな報いが与えられ、喜び踊る時が永遠に続くと約束されています。地上での限られた時間内の儚い幸いを求めるか、あるいは永遠に続く大きな幸いを求めるか、よく考えなさい。神様の御心を知りなさいと招かれています。

 

さて、続く24節から26節には、この地上において「何が不幸なのか」、イエス様によって4つの不幸が語られています。これは教えというよりも警告に近いと思います。この4つの不幸を一言で表現するならば、自分の幸せのためだけに生きる人の人生は不幸な人生だということです。

 

まず24節には、「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」とあります。これは20節の幸いと対になっています。ルカによる福音書では、富を持っている人たちへの警告が多いです。12:13-21、16:13、16:19〜31などです。この地上での富や地位に満足していれば、この地上だけの人生に終わり、しかもそのすべてを地上に置いていかなければならなくなる。地上の慰めをすでに受けていれば、神様からは慰めを受けることはできないから不幸だとイエス様は言っています。

 

続く25節には2つの不幸が記されていますが、二つとも21節の幸いと対になっています。まず「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」は、この世のものに満足しているならば、その満足は地上での生活で終わり、永遠には続かない。神様の祝福はそれ以降ないということです。

 

「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」です。富や地位や自分の頑張りようで得たものを喜び、満足し、笑っている人は、地上での命が尽きる時に、今まで築いてきたもの、得てきたものをすべて手放すことになるので、悲しみ泣くようになるとイエス様は警告しています。一時のものに心を奪われ、それに縛られずに、永遠に続くものを追い求めて生きなさいということです。

 

そして最後は26節。「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」とあります。人というのは、人々から褒められたり、羨ましがられたり、チヤホヤされたり、注目されることを求めてしまう性質があります。しかし、人々の評価というのは当てになりません。傲慢になると疎まれたり、妬まれたり、敵意を向けられたりします。大切なのは、神様がわたしたちを見ておられるということ、最終的に評価されるのは神様であり、神様に「よくやった」と褒められる生き方が大切だということです。

 

この箇所を読み終わる中で心にしまわなければならないことは、誰のために生きるかということです。自分と自分の身近な人々のためだけに生きるか、それとも社会の中で小さくされている人たちに目を向け、その人たちのために生きるか。その心を、判断を、生き様を神様はいつもご覧になっており、人々のために生きる人を神様は祝福し、幸いを与えてくださり、その幸いは永遠に続くと教えてくださり、あなたはどのように生きるかと問うておられます。これはわたしたちに対する脅しではなく、祝福への招きの言葉です。