ルカ(3) イエス・キリストの誕生の予告

ルカによる福音書1章26〜38節

引き続き、ルカによる福音書に聴いてゆきます。このルカ福音書では、1章5節から2章40節までが一連の降誕記事となっていて、バプテスマのヨハネの誕生に関わる出来事と神の子イエス・キリストの誕生に関わる出来事、キリストの誕生を最初に知らされた羊飼いたちのことが記録されています。

 

この一連の出来事には3つの共通があります。1)すなわち、神様から遣わされた御使がザカリア、マリア、羊飼いたちに現れます。2)そして3つの告知がされます。ヨハネとイエスが生まれるという告知、そして救い主がお生まれになったという告知です。3)そして順番は異なりますが、まずマリアの賛美(1:46-55)、ザカリアの賛美・予言(1:67-79)、そして羊飼いたちの賛美(2:20)、そして神殿でのシメオンという男性の賛美(2:28f)と女預言者アンナによる賛美(2:38)で閉じられています。

 

これら一連の出来事がわたしたちに伝えようとしているのは、1)すべては神様からの一方的な恵みであり、2)わたしたち人間はそれをただ素直に受け取り、3)ただ神様を賛美すること、それが恵まれた人のなすべきことということが記されていると言えます。

 

さて前回は、バプテスマのヨハネの誕生の予告がされる箇所に聴きましたが、今回はイエス・キリストの誕生の予告がされる箇所に聴きます。この二つの誕生の予告にも共通した流れがあることを前回お話ししました。まず1)御使の出現、2)それに対する恐れの反応、3)神の御心・ご意志の伝達、4)それに対する反応、5)そして神のしるしの授与という流れです。

 

それでは、イエス・キリストの誕生が予告される26節から38節をご一緒に見て参りましょう。26節に「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」とあります。これが御使の出現です。「六か月目」というのは、ガブリエルがザカリアに現れ、エリザベトがヨハネを身籠ってから半年という意味です。最初の出来事はエルサレムの神殿で、神に仕える祭司ザカリアという男性に対して予告されましたが、イエス様の誕生の予告は、ガリラヤというエルサレムから遠く離れた地方にあるナザレという小さな町に生きる村娘に予告されます。

 

そして続く27節では、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」とあるように、このマリアという娘は、身分は低かったですが、ダビデ家の末裔であるヨセフという人の「いいなずけ」でした。ダビデ王はイスラエルの英雄・王様の代名詞です。ダビデ家とは、この家から王位を引き継ぐものが生まれるという予告でもありました。

 

ユダヤ社会では「いいなずけ」とは結婚と同じ重みがあり、結婚と同じ保証はされるけれども、同じぐらいの責務を負うということでもあります。つまり、マリアにはヨセフへの果たすべき責任があったと言うことです。「おとめ」とありますが、節操を守るということも女性にとって大きな責任であったと考えられます。

 

この御使はなんの予告もなしに突然マリアに現れ、突拍子もないことを宣言します。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と。突然の出来事、突然の宣言にマリアは「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んで」しまったと29節にあります。今まで経験したことのないことを経験し、神様の力に触れるのですから戸惑って当たり前です。しかし、これが、御使が現れたことへのマリアの反応でした。

 

「おめでとう」という言葉は、「喜びなさい!」という意味です。しかし何を喜べば良いのかマリアには分かりません。「恵まれた方」と呼ばれてもいったい何が恵まれているのか、正直分からない。この「恵まれた方・恵まれた人」とは、神様がこれからこの世に永遠の恵みを豊かに注がれる、その恵みが流れる川、運河としてマリアを神様が用いられる、神様の御用のためにこれから用いられるのでそのように呼ばれます。すべての人に神様の恵みを惜しみなく与える御子がこのマリアという女性からお生れます。神様のご計画のために、神様に用いられるということは凄いことです。そのことを喜びなさいという招きでもあると思います。

 

大いに戸惑い、考え込むマリアに対して御使ガブリエルは「恐れることはない。あなたは神様に選ばれました。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と命じられます。これが神様の御心の伝達です。「恐れることはない」とは、「心配する必要はない」という意味ですが、なぜ心配する必要がないのでしょうか。それは「主なる神があなたと共におられて、あなたを通して神様が働かれるから」と言います。

 

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」とあります。「イエス」という名前は「主は救い」という意味で、当時では珍しい名前ではありませんでした。ただ、ユダヤ社会では父親・あるいは男性が子どもに名前を付けますが、マリアにそのように命じるのは彼女を通して生まれてくる男の子は特別な存在であるということを示していると考えられます。つまり、マリアを通して神様がこの世に誕生させる「主は救い」という名の子がもたらす「救い」とは、ローマ帝国による支配からの解放・救いではなく、わたしたち人間を神様から引き離す罪の支配からの解放・救いを意味しています。この違いは非常に大きな意味のある違いです。

 

今アメリカで中絶を合法化すべきか禁じるべきかの判断が最高裁まで来ています。中絶を選ぶか選ばないかの自由は自分にある。わたしの体はわたしのものであり、わたしが判断してなにが悪いのかと声を上げる人たちと命は神様から与えられるもので、それを人間の判断で取り去ることはしてはならないと声を上げる人たちが毎日のようにデモをしています。神様が与えてくださる命の重さを尊重するよりも、産む・産まないという人間の自由、判断を尊重すべきという訴えです。

 

ですから、女性たちを通して生まれてくるはずの命たちが、人たちが成長してどのような働きをするのかも分からないまま、そういう可能性を無視して捨ててしまう、人間の手で摘み取ってしまうということが人間の「自由」という名の下に行われます。

 

御使ガブリエルは、マリアという村娘を通して神様がこの世に誕生させる子どもは成長し、どのような人になるのかを明確にマリアに告げます。それが32・33節です。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」とあります。

 

「偉大な人」とありますが、ただの「偉大な人」ではありません。「いと高き方の子」、つまり神様の子である。その主なる神様がマリアから生まれくる子どもをダビデの王座に就かせる。しかも「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない、つまり永遠に続くと御使は言います。これは終末の時に御子イエス・キリストが来て治め、そのイエス様の支配は終わることがない、永遠に続くというのです。「治める、支配する」という言葉がありますが、これは傲慢な人たちを裁き、小さくされている人たちを顧み、そしてそのような弱い人たちを支え、心を配るという意味があります。

 

さて、御使ガブリエルを通して告げられる神様の御心に対して、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」とマリアは言います。これが神様の御心を伝達された時のマリアの反応です。

 

ヨハネの誕生を告知されたザカリアは御使に対して、「何によって、わたしはそれを(神の御心だと)知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」という反応をした所為で、彼は子どもが生まれるまで口が利けなくなりました。彼の不信仰が罰せられました。マリアはどうであったでしょうか。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と反応したのに、彼女はザカリアのようになりませんでした。二人の反応にどのような違いがあったのでしょうか。

 

ザカリアは神に仕える祭司・聖職者であったのに、マリアは普通の田舎娘であったからでしょうか。ザカリアは人生経験豊かな老人なのに対し、マリアは若かったからでしょうか。その最大の理由は、マリアは「どうしてですか」と神様の御心を求めたのに対し、ザカリアは「何によって」と「印」を求めたからです。どうしてですかというマリアの問いかけに対して御使は丁寧に説明を受けます。35節に「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とあります。

 

「男の人を知らない女性、おとめ、処女」に意味はあるのでしょうか。神の子を宿す体にとっては大きな意味があります。「男の人を知らない」とは、男のために用いられていないという意味があります。男の人を知っているとは、既に用いられているということです。男の人を知らない女性を神様が神様の御心を行うために用いられるために重要でした。また、「おとめ、処女」とは、ユダヤ民族の存続のために必要不可欠な構成員たる男性と結ばれていない女性という意味で、結ばれているとユダヤの構成員になってしまいます。神様は、ユダヤのためだけに救い主をこの世に誕生させるつもりはなく、すべての国民の救いのために救い主を誕生させる計画をお持ちであったので、ダビデの家からすべての民の救い主を世に派遣するためにそのようにされました。そのために神様が、ご自身の霊・聖霊で包み、神様の力によって神の子がマリアに宿らせたのです。

 

マリアが神の子を身ごもるということは神様の御心であるということの印として、マリアの親戚のエリサベトの妊娠が告げられます。「36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」それは「神にはできないことは何一つない」ということを示し、マリアを励ますための印でした。

 

マリアは、神様に用いられるということを聞いて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と38節で答えます。とても大きな決断と勇気を必要としたことであったと思います。ヨセフとの関係は、周りの人たちとの関係など、どうなってしまうか分からない中で、しかし神様が共にいて守り、導き、自分を用いてくださるという神様への信頼があったのです。どのような道が備えられていても、その道を共に歩んでくださる神様がおられるという約束は大きな力となります。