ルカ(34) 希望を与えるイエス

ルカによる福音書7章11節〜17節

新しい年を迎えました。今年も、ルカによる福音書を引き続き聴いてゆきますが、今回の学びの中心も引き続き、主イエス・キリストの「権威」と「憐れみ」となります。イエス様がいかに神の権威と憐れみに満ちた救い主であるのかを共に聴いてまいりましょう。

 

前回の7章1節から10節では、イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムにおられましたが、そこから西南50キロメートルにあるタボル山の麓にあるナインという町に行かれます。「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」と11節にありますので、その光景を想像してみてください。弟子たちや群衆は、イエス様と一緒でしたから、大きな喜びがあったと想像されます。一応にして活気があったと想像します。

 

しかし続く12節を読みますと、「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」とあります。この光景も想像してみましょう。一人息子を亡くした母親と彼女に寄り添っていた大勢の人々には、大きな悲しみがあったと想像されます。一応にしてみな落胆していたのではないかと想像します。

 

この母親は、「やもめ・寡婦」であったとあります。夫を失うことだけでも悲劇であるのに、一人息子も亡くなってしまったのです。何とも形容しがたい悲しみがこの女性を襲っていたのではないかと思います。これからひとりで生きていかなければならないと考え、悲しみと寂しさで心が張り裂けそうになっていたのではないかと思います。

 

当時、夫を失くすということは、生活の基盤を失うということでした。女性には働いてお金を稼ぐという生活力が当時なかったからです。ですから、高齢者と子どもと同じように、社会の中で最も弱く小さい者とされていました。その彼女が唯一の希望であった息子さえも失ってしまったのです。生きる術がまったく尽きてしまったのです。ですから、そのようなことを加味する中で、いかに彼女の悲しみが大きかったかが分かると思います。

 

そのような中、喜びと悲しみが出逢うのです。イエス様と一人息子を亡くした母親が出逢うのです。13節の最初に「主はこの母親を見て」とあります。ここに記されている「主」という言葉は、「キュリオス」というギリシャ語が用いられています。これは「主人」という意味ではなく、「憐れむ主」と理解するのが良いと思います。ですから、13節は「憐れみの主は一人息子を亡くした母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」と読むことができます。

 

また、「憐れに思う」という言葉は、他の訳では「深い同情」と訳されていますが、この言葉は、「腑がねじれるほど痛む」という心情を表す言葉です。これは、自分の痛みとして共に痛み、悲しんでくださる主イエス様が彼女の前におられるということです。初めて出会っても、出会って間もなくても、目の前の人の心の痛みを理解し、同情し、寄り添ってくださるのが憐れみの主イエス・キリストです。

 

さて、わたしたちの人生においても、多くはありませんが、大切な家族を失った人に寄り添わなければならない時があると思いますが、そのような時、あまりの衝撃と悲しみの中にいる人にかける言葉が見つからなくて困ることがあります。なんと慰めて良いのか、愛する人の死を悼んでいる人を目の前にして、言葉が見つからないのではないでしょうか。涙している人に向かって「泣くな」と言えるでしょうか。死と問題はとてもデリケートなことですので、悼んでいる人に対してかける言葉を見つけるのは非常に困難です。ただただ、無言の時が流れて、重苦しい空気の中で、身の置き場に困るということを経験することがあります。

 

しかし、イエス様は、この母親に対して、憐れみの心を持ちつつ、「もう泣かなくともよい」と言葉をかけるのです。なんと空気の読めない非常識な人と思われるかもしれませんが、まったくその反対です。イエス様は、憐れみの主であり、彼女の心を唯一救える力のある救い主であるので、愛と憐れみ、そして御子の権威をもって「もう泣かなくともよい」と言われるのです。イエス様の言葉には、救い主としての絶大な権威と言ったことに責任をとる真実さがあるのです。この愛と権威の言葉を信じる信仰をイエス様はこの母親に与えようとされるのです。

 

さて、次の14節になぜ「もう泣かなくともよいのか」という理由になる出来事が記されています。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』」と言ったとあります。

 

ここで注目すべき点は、二つあります。一つは、イエス様から近づいて棺に手を触れられたということです。ユダヤ教では、死人に触れることもそうですが、死人が入れられた棺に触れることも、宗教上「汚れる」と考えられていました。ですから、普通のユダヤ人からしたら、自ら進んで棺に触れることは常識として考えられないことです。ここで大切なのは、イエス様が棺に触れられたので、棺を担いでいる人たちは立ち止まったということ、つまり死の行き先である「墓」へ葬られるプロセスが止まったということです。つまり、「墓への道」を止め、「永遠の命」への道へと切り替えることができるのは、救い主イエス様だけだということです。

 

そして二番目の注目点、イエス様が死んだ人に対して「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言ったことです。死んだ者に向かって「起きなさい」と命じるのです。そこには死人に「起きる、起きない」の自由さはまったくなく、主イエス様の権威の言葉、ご命令があるだけなのです。「若者よ、起きなさい」と言う救い主イエス様の言葉の力、神としての権威がはっきりと示されているのです。

 

旧約聖書に、エリヤという預言者が死んだ息子を生き返らせ、寡婦の母親に返すという同じような奇蹟の出来事が列王記上17章17節から23節に記されています。またエリヤの弟子である預言者エリシャも同様の奇蹟をしたことが列王記下4章8節から37節に記されています。興味があればぜひお読みください。ここで興味深いのは、預言者エリヤとエリシャは神様に何度も祈ります。しかし、イエス様はここで祈ったことは記されていません。それはつまりイエス様はいつも祈っていなかったと言うわけではなく、朝ごとに必ず父なる神様に祈っていました。ただ、ここで祈りがないのは、イエス様の一言の言葉には権威があるという一点を強調したかったということです。

 

7章1節から10節にあった百人隊長の僕を癒やされた時のことを思い出してください。あの時は、「死にそうな病気にかかっていた人」をイエス様は離れたところから言葉だけで癒しましたが、今回は「死んだ人」を生き返らせたのです。主イエス様の言葉には憐れみと権威があることを示されるのです。

 

15節前半に「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」とあります。主イエス様の「起きなさい」というご命令とその言葉に従う者の応答がここにありますが、この「起きる・起き上がる」というギリシャ語は、イエス様のご復活の時にも用いられている言葉です。これはどういうことかと言うと、将来、十字架に架けられて死なれるイエス様がご自分の復活を先取りする形で若者を死から起き上がらせたということです。つまり、イエス様はこの時点で、人々の罪を贖うために十字架に架かって死ぬご自分が父なる神様によって、その憐れみと権威の力によって甦らせられるという神様の真実さをすでに確信し、先取りの喜びと感謝の応答をしているということが言えますし、これは凄いことです。

 

さて、今回の箇所の重要なテーマは15節の後半の「イエスは息子をその母親にお返しになった」ということです。「死」によって引き裂かれた関係性を修復するために、一人息子を母親に返すためにイエス様はナインという町に来られたのです。イエス様は、息子という希望を失った母親に息子を返して、彼女に希望を、生きがいを、生きる力を再び与えたのです。愛する息子との別れを悲しむ女性を憐れに感じたイエス様は、彼女が泣かなくても良いようにするために働いてくださったのです。そこに大きな愛があります。

 

「死」という問題は、死んだ人よりも、残された遺族の問題です。愛する人との別離・隔離を経験している人たちの悲しみを慰めることができるのは、イエス様だけです。このイエス・キリストを信じるわたしたちの責任・働きとは、この慰めの主、憐れみの主が悲しみ、そして悼む人たちのすぐ近くにいてくださるということを自分が寄り添うことによって示すということで、そこには言葉はあまり必要ないのです。ただ、そこにいるだけで、慰めになるのです。また、イエス様には希望があることを分かち合うことです。死によって分たれた人、愛する人との御国においての再会、その約束と希望は、救い主イエス・キリストにあるのです。

 

さて、この奇蹟を目撃した人々が発した言葉が16節に記されていますが、面白いことが二つ記されています。一つは、「大預言者が我々の間に現れた」という言葉です。先ほどお話ししました預言者エリヤとエリシャよりも大いなる力を持つ預言者がイエス様だと言っています。しかし、イエス様は神の子であり、憐れみの主であり、正真正銘の救い主です。そのことが分かるのは、復活の主イエス・キリストに出会う時です。

 

もう一つ面白いことは、「神はその民を心にかけてくださった」という言葉です。「心にかけてくださった」という言葉は、他に「顧みてくださった」と訳されています。この言葉は、見過ごされてしまうような存在に、目や顔を向ける、また歩み寄って行って声をかけるという意味がある言葉です。誠実に、正直に生きる人に神様は必ず顧みてくださるのです。ですから、人からの賞賛ではなく、神様の顧みを楽しみにしましょう。

 

聖書には実に面白いことが記されています。聖書には死人を生き返られる物語が多く記されていますが、その多くは嘆き悲しむ女性のためにその救いの御業が起こされます。聖書の時代、いつの時代もそうかもしれませんが、女性が社会の中で見過ごされ、小さくされることが多かったからです。しかし、神様とイエス様は違います。そのような人々に目を留められ、救いの手を差し伸べるのです。

 

最後にもう一つの注目点です。百人隊長の僕が今にも死にそうになっていた時、百人隊長はイエス様のもとへ使者を送ってイエス様の助けを懇願し、その要請に応える形でイエス様は出向いてゆかれました。しかし、イエス様と息子を亡くした女性が出会った時、この母親はイエス様に「息子を生き返らせてください」とは懇願しませんでした。それなのに、イエス様は救いの手を差し伸べられ、愛する息子を生き返らせて母親にお返しになりました。憐れみの神様とイエス様の素晴らしさ、それはその素晴らしい愛とご配慮と救いの御業は一方的であるということです。神様の側から救いの業が始まるということです。

 

イエス・キリストという神様から遣わされた救い主は、失望しているわたしたちに希望を与えるためにこの地上に来てくださいました。イエス・キリストを通して、神様はわたしたちに希望、生きがい、生きる力を与えてくださいます。その愛と憐れみを信じましょう。信じさせていただきましょう。信じる信仰も、信じる力も、すべてイエス様を通して神様が与えてくださいます。そして17節に「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」とあるように、神様の愛とイエス様が救い主であることを一人でも多くの人々に分かち合い、共に喜び、共に主を賛美しましょう。