ルカ(5) マリアの賛美歌

ルカによる福音書1章46〜56節

今回は、ラテン語で「マグニフィカト」と呼ばれている「マリアの賛歌」、マリアが神様をほめ讃える箇所に聴いて行きたいと思いますが、彼女の賛美は、前回聴きました彼女とエリサベトとの出会いなくして生まれてこなかったと思わされています。その理由は、エリサベトに出会い、彼女と共に語らう時間を過ごす中で、マリアは神様から与えられた「しるし」をはっきり確認することができ、主なる神様は本当に生きておられ、わたしのような小さな存在に目をとめ、神様の御用にために用いようとされているという真実を明確に知ることができ、それによって大きな喜びと平安、感動に満たされ、その感動を神様への賛美としてささげたのだと思わされます。

 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。恐れることはない。神にできないことは何一つない」という御使ガブリエルの言葉は、エリサベトの「あなたの挨拶の声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょうか」という言葉によってバックアップされた、裏打ちされたというか、マリアの心の大きな支えになったのだと思います。

 

さて、このマリアの賛美は大きく二つの部分に分けることができます。まず46節から49節前半は、特別な立場に置かれたマリアの神様への個人的な賛美であり、49節後半から55節までは、この世の中で救いの御業をなさる神様を賛美する内容になっています。

 

まずマリアの個人的な賛美を読んでまいりましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」とあります。

 

マリアがなぜ神様をあがめ、賛美するのかと言う最大の理由は、神様が人の目にも留まらないような彼女の小さな存在に目を留めてくださり、用いようとされるからです。わたしたちも家族や仲間の中で気付かれないとさみしい思いにさせられ、自分の存在を小さなものと感じてしまいますが、他でもない神様がわたしのような者に目を留めてくださった。それが彼女にとって大きな喜びであったのです。

 

この社会の中で、学校や職場や様々なところで目も留められない、気付かれない、小さくされている人たちがたくさんおられます。わたしたちもかつてはそのような人で悩みや苦しみの中にあったかもしれません。無視されたり、いじめられたり、存在自体を忘れ去られたり、蔑ろにされている方々がおられます。そのような人たちを探し出し、神様のもとに置くために主イエス様はこの世に来られました。

 

マリアのように、神様がわたしにも目を留めてくださったこと、そして暗闇から光へと移してくださったこと喜び、感謝し、主をあがめ、喜びたたえてゆくこと、賛美と礼拝を大切にしてゆきましょう。それは神様がわたしたちに求めておられる応答だと信じます。

 

46節から47節を読みますと、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とあります。わたしの魂、わたしの霊とありますが、マリアがいかに神様に集中していたかが分かる言葉であると思います。わたしたちは今、自分の魂と霊をもって、どの様なことに取り組んでいるでしょうか。魂も霊もないような生活、何にも集中していないような、舟が水面をただ漂っているような目的のない生活をしていないかをチェックする必要があると思います。魂に、霊に力を与えてくださるのも神様です。

 

さて、46節から49節を読んでゆきますと、面白い発見があります。46節と47節の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」は現在形で、48節前半と49節前半の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」が過去形で、48節後半の「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」が未来形になっています。神様の憐れみと愛と恵みは、信じる者たちに「時を超えて」、豊かに注がれ、信じる者たちは大いなる喜びで満たされると云うことだと思います。

 

48節後半の「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」というマリアの言葉は、マリアが特別な存在であるから「幸いな者」と呼ばれるという意味の言葉ではなくて、マリアと同じように、神様を信じ、喜び、あがめてゆく者は誰であれ、過去と現在と未来のどの時代にある者でも、すべての人が、ごく普通のわたしたちが、神様からの憐れみと恵みを受けて、「幸いな者」とされると云う励ましの言葉です。

 

ですので、わたしたちに大切なことは、神様の祝福の言葉を信じて、「わたしは神様から幸いを得ています。わたしは神様に祝された者です」と告白し、いつも感謝をささげ、主を賛美し、その恵みを周りの人たちと分かち合ってゆくことです。そのようにしてゆくと、人々から妬まれるのではなく、人々が神様の祝福に与ってゆき、人々から喜ばれるのです。

 

それでは、「妬む人」と「喜ぶ人」の最大の違いはいったい何でしょうか。何がわたしたちの心に違いをもたらすのでしょうか。その答えが49節後半から50節にあります。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。「主なる神を畏れる」ことが「妬む人」と「喜ぶ人」に決定的な違いをもたらすと教えてくれています。神様の祝福を受ける人と受けない人の違いは主なる神様を「畏れる」か「畏れない」かです。

 

畏れるか、畏れないかは、わたしたちの自由な意思に任せられています。自由に選びとって良いのです。しかし、なぜマリアは主なる神様を畏れ、今日わたしたちは神様を畏れなさいと招かれているのでしょうか。なぜ畏れる必要があるのでしょうか。その理由が50節から55節に6つほど記されています。

 

第一に、50節にありますように、神様の愛、憐れみがイエス・キリストを通してわたしたちに与えられ続けているからです。

第二に、51節にあるように、主なる神様はその力強い御腕を振るって、イエス・キリストを通して驚くべき救いの御業を成してくださったから、これからも成し続けてくださるからです。

第三に、52節にあるように、身分の低い者、小さくされている者を高く上げてくださるからです。

第四に、53節にあるように、主イエス・キリストによってわたしたちの必要をすべて良いもので満たしてくださるからです。

第五に、54節にあるように、わたしたちを受け入れて、その憐れみを決してお忘れにならない、いつも覚えておられるからです。

第六に、55節にあるように、主なる神様はそのお言葉を、約束をとこしえに守られるからです。

 

神様の愛はイスラエルだけにとどまりません。アブラハムとその子孫にだけ祝福がある訳ではありません。主の憐れみ、愛は主を畏れる者すべてに及びます。つまり、私たちにも神様の愛は注がれ、主を畏れ、主に従う者は恵みのうちに「幸いな人」とされ、人々からも呼ばれるのです。

 

主イエス・キリストの十字架と復活の恵みに与り、「幸いな人」とされているわたしたちの神様への応答はどのようなものでしょうか。

 

それは第一に、イエス・キリストを通して神様の愛、憐れみを受けた者として、まだこの愛を受け取っていない人たちに分け与えてゆくこと。

第二に、その力強い御腕を振るって、イエス・キリストを通して驚くべき救いの御業を成してくださり、これからも成し続けてくださる神を人々に伝えてゆくことです。

第三に、わたしたちを高く上げてくださったように、小さくされている人たちを探し出し、主の御前に連れてきて、神様に彼ら彼女らを高く上げていただくことです。

第四に、主イエス・キリストを通してわたしたちの必要を良いもので満たしてくださったように、主の憐れみを人々に分け与えて、その人たちの最も必要なものを満たすために働くと云うことです。

第五に、わたしたちが主に受け入れられたように、神様の愛を必要としている人々を受け入れてゆくと云うことです。

第六に、主なる神様の言葉であるイエス・キリストを伝え、この方こそ救い主、この方を通して永遠の祝福を受けることが約束されていること、その良き知らせを伝えてゆくことがわたしたちの役目、使命だと示されます。

 

ですから、まず主を喜び、崇めることから始め、神様の伴いと助けと導きを祈り求めましょう。主に目を留められた者としていつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝できるように、憐れみを受けた者として人々に優しくなれるように、思いやりのある人になれるように、そのように造り変えてくださいと祈りましょう。マリアのように神様を畏れ、主イエス様に従う人たちを神様は祝福し、主のご用のために豊かに用いてくださいます。主を畏れ、主の言葉に聞き従い、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」とわたしたちも言わせていただきましょう。