ルカ(51) 弟子たちに謙遜さを教えるイエス

ルカによる福音書9章43b〜48節

9章の学びも、今回で7回目になります。この章を通しての大きなテーマは、イエス様による弟子訓練ですが、その成果はいかがなものでしょうか。イエス様の計画通りに進んでいるでしょうか。どちらかと言えば、弟子たちがイエス様の足を引っ張っているように思えるのは、わたしだけでしょうか。訓練ということには、忍耐と根気が必要であり、そのためには神様への祈り、そのように求めることが必要であるということを教えられます。

 

9章18節の学びの時に、ペトロと弟子たちがイエス様を「あなたは神からのメシアです」と告白できるように、イエス様が神様に聖霊の励ましを先んじて祈られたという事を聴きました。弟子たちの信仰告白の背後にはイエス様の祈りがあった。凄いことです。イエス様はなぜ事前にそのような執り成しの祈りを父なる神様になさったのかという理由を考えました。その理由は、弟子たちが謙遜でいるためであったとお伝えしました。

 

すなわち、「弟子たちが自分から救いを求め、自分の決断でイエス様を信じるようになって、自分の意思でイエス様に従っていると言う傲慢な思いにならず、いつもイエス様の祈りが自分の信仰生活の背後にあるという真実を覚えさせて、いつも謙虚に歩ませるためであったと考えられる。イエス様は、わたしたちに対しても、いつも低姿勢で、控えめで、謙虚に生きることの大切さが教えておられる」と申しました。わたしたちは、「自分の努力だけで生きているのではない。常に神様の愛の力が働いている。想像も出来ないほどの細やかな配慮がある。だから、思い上がらないで、謙遜になって、お互いのことを覚えて絶えず祈り、お互いの祝福を熱心に祈る者とされてゆきたいと願う」と申しました。

 

さて、前回の37節から43節前半の学びでは、悪霊に取りつかれた子から悪霊を追い出すことが出来なかった弟子たちとすぐに悪霊を追い出されたイエス様の力の凄さという事を聴きました。弟子たちは、まだまだ訓練の最中であって、訓練が完成するまでほど遠い事を知る事ができましたが、わたしたちも生かされている間は訓練の時と謙遜に生きることが大切であると思います。

 

今回、まずご一緒に注目したいのは43節です。ルカは、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いた」と記します。大勢の群衆は弟子たちの無力さを見ましたが、それ以上に、イエス様の力の偉大さをはっきりと見て、驚愕、驚嘆するのです。その驚きのレベルはどれくらいであったでしょうか。しかし驚いたのは群衆だけではありません。弟子たちが群衆以上に驚き、無力さを恥じたと思います。

 

けれども、イエス様はすぐさまもっと驚くことを弟子たちに告げるのです。「皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。『この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。』」と44節にあります。これは、ご自分の死に関する2回目の予告です。1回目は22節にありました。弟子たちが驚愕・驚嘆している最中にそう言われるのです。その理由、また目的は、これほど偉大な救いの業を行うイエス様が、神様に選ばれた者、神様の御心を行う忠実な僕として苦しみと死に遭うメシア・救い主であるということを弟子たちに教えるためでありました。その部分を強調するために、1回目の予告でカップリングされていた復活の予告の部分が今回省略されています。

 

イエス様の願いと目的は受難を知らせることにありました。しかしながら、弟子たちのリアクションはどうであったでしょうか。イエス様の思惑どおりになったでしょうか。いいえ、そうはなりませんでした。45節に、「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」とあります。

 

弟子たちが理解できなかったのは、なぜイエス様が苦しみを負わなければならないのか、なぜ死ななければならないのかという「意味と目的」が理解できなかったのです。ルカはここで、「彼らには理解できないように隠されていたのである」と記します。弟子たちがイエス様の死の意味を理解するのは、復活されたイエス様に出会って、イエス様からの解き明かしが必要であったのです。

 

わたしの生活の中でも、なぜ?、どうして?と理解に苦しむことが多々起こります。しかし、その理由と目的が神様によって隠されているのであれば、答えは見つかりません。ですので、すべてにご配慮とご計画のある神様に信頼して、神様が解き明かしてくださる時まで「待つ」ということも、平安に生きる一つのテクニックであると思います。かなり高度なテクニックですが、神様の助け、聖霊の助けを祈り求めることから始めましょう。わたしたちは、神様による訓練の時の中にいることを日々の覚え、成長を祈りましょう。

 

弟子たちは、「怖くてその言葉について尋ねられなかった」とあります。なぜ怖かったのでしょうか。自分たちがイエス様の期待どおりに成長していないこと、不信仰さ、無力さを認めつつも、イエス様に叱られるのが怖かったのでしょうか。そうかも知れません。しかし、そのような弱さを持つ人をも愛をもって受け入れてくださるのがイエス様です。

 

それでは、続く46節から48節に聴きましょう。46節に「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」、本当に懲りないですね。イエス様のことを考えるよりも、いつも自分のことばかりを考えています。しかし、そう感じるわたしたちも実は同じではないでしょうか。いつも自分の事ばかりを考えて、いつも自分と誰かを比較して、ドングリの背比べのような無駄な競争ばかりして、時に優越感に浸り、時に劣等感を抱いて苦しむ。それの繰り返しではないでしょうか。本当に懲りないですね、わたしたち人間は。人間の不幸の始まりは、比べ合うことにあると言った人がいますが、その通りだと思います。

 

では、なぜそのような比べ合いを繰り返すのでしょうか。なぜ誰が一番偉いかと競い合ったり、心の中で優劣をつけたり、比較するのでしょうか。その原動力はなんでしょうか。わたしは、認められたい、受け入れられたいという強い思いがあるからだと思いますが、皆さんはどのように思われるでしょうか。しかし、競争したり、比較したりしなくても、お互いの存在を認め合い、受け入れ合い、喜び合うことをわたしたちが学べば、競争や差別、格差や分裂などはこの地上から無くなるのではないでしょうか。

 

「弟子の中でだれがいちばん偉いか」という議論の発端は、いったい何でしょうか。それは、イエス様に価値のある者として認められたい、もっと愛されたい、もっと可愛がられたいという願望があったからではないでしょうか。

 

そういう中で、続く47節にこうあります。「イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせた」とあります。イエス様は、わたしたちの心の内を見抜かれます。何ひとつ隠し立てすることはできません。そして弟子たちに、わたしたちに重要なことを教えるためにひとりの子を招き、弟子たちの前に立たせます。そしてこう言われます。48節、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と。

 

当時のユダヤ社会では、律法を守れない子どもは、もっとも価値のない小さい者と見られ、愚弄されました。しかし、子どもたちは神様に造られた大切な存在であることに変わりありません。ただ、今は力がないので、男性の大人たちからしたら、生産性のない存在にしか見えないのです。しかし、イエス様の視点は違います。何ができる、できないではなく、利益をもたらす、もたらさないでもなく、生産性などどうでも良い、そのままの存在をイエス様は認め、喜び、受け入れられるのです。

 

「わたしの名のためにこの子供を受け入れる」とは、捕らえられて、鞭打たれ、愚弄され、見るにも耐えない傷ついた無惨で小さな姿になられて十字架にかけられるイエス様を無力な者と見るのではなく、贖い主・救い主と信じるということにつながります。子供を受け入れることは、イエス様を受け入れることであり、はたまたイエス様をこの地上にお遣わしになられた神様を受けることであるのです。神様の愛と赦しを受けて、イエス様を信じ、いつも謙遜に生きる者こそ、最も偉い者であるとイエス様はおっしゃるのです。

 

弟子たちの議論の発端、モーティベーションは、イエス様に受け入れられたい、認められたい、褒められたいという心でした。そこから競争心が起こりました。そこに決して譲らない心が芽生え、嫉妬、怒り、憎しみが起こってきます。しかし、イエス様の心はそういうところにありません。イエス様の心は、常に愛し、受け入れる心です。イエス様の心の根底・ベースは、常に神様の愛があります。誰をも愛し、平等に接しられ、何の差別もなく受け入れます。一人ひとりのありのままをそのまま受け入れてくださいます。

 

わたしたちに何ができる、何ができないということは、イエス様にはどうでも良いのです。役立つ、役立たないということも二の次です。そういう、できる、できないということが人の価値を決めるのではなく、神様が一人ひとりを造り、日々生かし、愛してくださっているということを信じて喜ぶことに生きる価値があるのです。救い主イエス・キリストを通して神様に愛されていることを、信じ、喜び、感謝し、イエス様に従って行けば良いのです。肩肘張ること、無理する必要もいっさいなく、ただ神様の愛と憐れみ、罪の赦しを喜ぶことが大切だと信じます。その喜びと感謝の思いから湧き出てくる謙遜さがわたしたちには重要で、イエス様はその謙遜さをここで弟子たちに教えているのです。その思いをわたしたちも受け取り、謙遜に生きましょう。