ルカ(6) バプテスマのヨハネの誕生

ルカによる福音書1章57〜66節

今回は、バプテスマのヨハネが誕生した時の箇所をご一緒に聴いてゆきますが、この場面は、後にヨハネの父親となる祭司ザカリアに御使ガブリエルが息子ヨハネの誕生を予告した箇所(1章5節から25節)を念頭に置きながら読み進める必要があります。

 

そして今回の箇所の鍵となる言葉は、神様の「憐れみ」です。これは「お情け」とか、「不憫に思う、同情する、気の毒に思う」というレベルのものではなく、人間に対する神様の「真実な愛」を表すもので、その真実さはイエス・キリストに表され、神様の究極の憐れみはイエス様の十字架で表れました。それでは、バプテスマのヨハネの両親となるザカリアとエリサベトに対して、神様はどのような憐れみを与えられたのでしょうか。

 

ザカリアとエリサベトは、どちらも祭司の家系に生まれ、6節には「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のですが、7節に「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあります。彼らには一つの願いがありました。それは「親」になることでした。しかし、その願い、祈りは答えられて来ませんでした。そして彼らはもう諦めていたと考えられます。しかし、そこに神様の憐れみが表されるのです。

 

主の御使ガブリエルが神殿の至聖所で祭司の務めをしていたザカリアに現れます。この至聖所に入るということについても「祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった」とあります。ザカリアがくじに当たったのも、神様の導きであり、憐れみと考えることはふさわしいことだと思われます。

 

御使いの出現にザカリアは「恐怖の念の襲われた」と聖書にありますが、この御使がザカリアに告げたことはこの夫婦にとって希望を与え、喜びを与えることになり、憐れみが与えられます。13節と14節に「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」とあります。

 

御使いに名付けよと命じられた「ヨハネ」という名前は、「神は憐れみ深い、主は恵み深い」という意味です。この子は、ザカリア夫婦にとって「喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と御使いは宣言します。その喜びも、楽しみも、すべて神様の憐れみ・恵みです。

 

しかし、ただ一つ、ザカリアは不信仰な思いを抱いてしまいました。それは神様に「しるし」を求めたことでした。「18そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」と言ってしまいます。

彼らが実際に何歳であったのか、分かりません。もしかしたら、ザカリアは40代後半から50代前半、エリサベトは30代後半から40代前半であったかもしれないのです。今の時代では親になる可能性はまだまだある年齢です。しかし、自分達のことを「老人、妻も年をとっています」というのですから、当時の常識では子を持つことは不可能と考えられていた年齢であったと思われます。ですから、そのような常識、基準からガブリエルの言葉を聞いてしまったザカリアは信じることができなかったようです。わたしたちも自分たちが体験したこと、教わったことを基準にして生きると、神様が今から起こそうとすることを信じることができなくなります。ですから、「神様にはできないことは何一つない」と言うマリアが従った基準に生きる信仰が大切であり、求める必要があると思います。

 

ガブリエルの言葉を少し変えるならば、「この喜びの知らせを伝えるために神から遣われてたのに、その恵みの知らせを喜ばないので、あなたは口が利けなくなり、この事が起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉、神様の言葉を信じなかったから」と言われてしまい、本当に口が利けなくなってしまいました。神様の言葉が実際に起こること、神様の御業をひたすら沈黙して待つためにそのようにされました。

 

さて、祭司としての勤めの期間が終わって自分の家に帰ったザカリアは、どのようにして妻とコミュニケーションを取ったのでしょうか。祭司の仲間や群衆たちには身振りで示すだけと22節にありましたが、妻に対してはどうであったのでしょうか。聖書には正確なことは記されていませんが、字で書いて示したのだと考えます。教会に来られる聾唖の方には、そのような手法を私はとりますが、ザカリアもそのようにしてエリサベトに神殿の中で何があったのか、御使に何を言われたのかなど、詳細に伝えたのだと思います。その後、エリサベトは子どもを身ごもるのです。

 

ザカリアだけでは信じられなかったことを夫婦で信じ、希望を抱き、神様に寄り頼み、すべてを神様に委ねたのだと思います。身ごもったエリサベトは5ヶ月間身を隠したとありますが、夫婦にとっては祈りの期間、親となる備えの期間となったと思います。ザカリアにとっては、親になることを人の常識だけで勝手に諦め、時が来れば実現する神様の言葉をすぐに信じられなかったことへの悔い改めの期間となったと思います。

 

子を宿したエリサベトは、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と言います。彼女にとってこの期間は、主の大きな憐れみを喜び、感謝し、神様の御心に従って、神様から託される子どもを大切に育ててゆくこと、母親となる心構えをする大切な月日となっていたのではないかと思います。

 

それでは、今日の箇所を読んでゆきましょう。57節と58節に「57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」とあります。御使ガブリエルを通して伝えられた神様の言葉、「エリサベトは男の子を産む。そして多くの人もその誕生を喜ぶ」が実現するのです。エリサベトも、近所の人々も、親類も、神様がエリサベトを大いに憐れまれた、慈しまれたことを喜び、みんなが喜びで満たされます。エリサベトは長年負ってきたプレッシャーや恥じる思いから解放されるのです。それはすべて神様からの憐れみなのです。

 

さて、アブラハムの時代からずっと受け継がれてきた割礼の日を迎えます。59節に「59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々」とあります。アブラハムとサラも高齢になるまで子どもが与えられない人でしたが、男の子が与えられました。神様が憐れんでくださった恵みに対してアブラハムが神様に誓いを立てたこと、わたしの民はあなた様に従いますという約束の「しるし」として「割礼」があり、生まれて8日目に割礼を施すことが約束事でした。(創世記17:1〜14、23〜27)

 

この日にはもう一つ大きなイベントがありました。それは子どもに名前をつけると言うイベントでした。1世紀ごろまで、ユダヤ社会では、最初に生まれた男児に父か祖父の名をつける習慣があり、人々は父親の名を取って男児を「ザカリア」と付けようとします。ロバート・ダウニー・ジュニアとかサミー・デイビス・ジュニアとか、アメリカなどでは、ジュニア、3世といった父親・祖父と同じ名前の人がまだいます。ザカリア宅に集まって割礼の儀式を終え、次のビッグイベントを楽しみにしていた人々は誰もが「ザカリア」(神は覚えておられる)という名が男の子に付けられると思っていました。

 

しかし、それに異を唱える人が現れ、みんなは驚きます。60節です。「ところが、母は、『いいえ、名はヨハネとしなければなりません』と言った」とあります。男性ではなく女性が、父親ではなく母親となったエリサベトが「この子の名は、ヨハネとしなければなりません」と言うのです。これにはみんな驚いたと思います。彼らの知る限り、そのような前例がないからです。ですから、人々は「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と61節で言うのです。そして父親であるザカリアに身振りで尋ねます、「この子に何と名を付けたいか」と。皆さんも一度「この子に何と名を付けたいか」と言う質問を身振りだけでやってみてください。とても滑稽に見えると思います。

 

さて、私が考えるザカリアとエリサベトがしっかりコミュニケートできたと考える手段が次の63節に出てきます。「63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた」とあります。ザカリア夫婦はこの板に字を書くと言う方法を用いて、互いの思いを通わせたのだと思います。

 

では、なぜこの夫婦は、息子に「ヨハネ」(神は憐れみ深い)と名付けたのでしょうか。少なくとも3つ理由があります。1)神様がそのようにお命じになられたから、2)二人が神様の大きな憐れみを体験したから、3)この幼子は我が家のものではなく、神様のもの、神様の御用のために生まれた人であると信じ、受け入れ、喜んだからだと思います。

 

次の64節と65節です。「64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65近所の人々は皆恐れを感じた」とあります。神様の憐れみを強く感じ、感謝し、喜んだ時に、ザカリアは口が利けるようになり、彼の口から出た最初のものは神様への賛美でした。この信じ、受け入れ、喜んだ時、それが「この事が起こる日まで話す事ができなくなる」とガブリエルに言われた時であったのです。今まで口が利けなかった人が口が利けるようになり、神様を誉め讃えるようになったことが山里全体で話題となり、人々は「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と考えます。この幼い子どもに神様の力を見たのだと思います。わたしたちにも神様の愛と憐れみがイエス様を通して与えられています。そのことをただ信じ、受け入れ、喜ぶこと、その喜びの中に生かされる事が大切であるとこの聖書箇所から示されます。皆さんはどう聴かれるでしょうか。