ルカ(9) 羊飼いたち、救い主に出会う

ルカによる福音書2章8節〜20節

前回、時の権力者の命令により、住民登録をするためにガリラヤのナザレからエルサレム近くになるベツレヘムという小さな町を訪問したヨセフとマリアの夫婦のこと、そしてベツレヘム滞在中にマリアは月が満ちて子を産んだこと、その生まれた子は神の御子であったこと、またその子が飼い葉桶の中に置かれたという箇所を聞きましたが、今回は、その日の夜のこと、羊飼いたちが救い主に出会っていった箇所に聞きたいと思います。

 

しかし、まず、救い主に最初に出会っていった人たちが、なぜ羊飼いなのかというところから入って行く必要があると思います。8節に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とありますように、ベツレヘムの郊外で野宿しながら、夜を徹して羊の群れの番をしていた羊飼いたちがいます。

 

彼らは、現代社会でいう最も仕事をしたくない「3K」の労働者、「きつい、汚い、危険」な仕事を負っている人たちでした。飼っていた羊は自分たちのものではなく、お金のある人たちから預かっていたもので、神殿で犠牲をして捧げられる羊の世話をし、野獣から守る危険な仕事であったと思われます。

 

つまり、ユダヤ社会全体の中で非常に重要な仕事であるにも関わらず、誰もしたがらない「3K」の仕事をしていた人たちであったと考えられます。その上、律法を守れない生活環境なので、宗教的にも汚れた者とされ、住民登録も必要とされないような酷い扱いを受けていた人たち、社会の中では存在しないかのように無視され、小さくされていた人々であったと考えられます。

 

しかし、人々の視界には映らない人々、人々からは顧みられないような人々に神様の目は注がれ、そのような人たちが救い主の誕生を最初に喜び祝う者とされてゆきます。つまり、神様はそのような顧みられない人たちを顧みるということです。そのような人々のために救い主はお生まれになられたということ、それがなぜ羊飼いなのかという答えです。

 

9節に「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」とありますが、闇の中で、彼らには焚き火の光と月星の光しかなかったと思います。わたしたちが感動するたくさんの流れ星も当たり前のことであったでしょう。しかし、そのような彼らに何の前触れもなく天使が近づき、神様の栄光が彼らの周りを照らしますから、恐怖を覚えないはずがありません。腰を抜かすほど、心臓が止まるほど驚いたと思います。しかし、もっと驚いたのは、天使が言葉を発したこと、そしてその天使の口から出た言葉であったと思います。

 

まず「主の栄光が周りを照らした」という表現ですが、これから天使が告げることは、神様からの特別な啓示であるということを示すものです。それではその内容とはどのようなものであったでしょうか。10節から12節です。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」とあります。

 

「恐れるな」という言葉の後に、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」とあります。この「民全体」という言葉は、ユダヤ人だけでなく、異邦人たち、わたしたちも含められていますが、もっと厳密に言いますと、「イエスを救い主として受け入れる心を持つ人全体」ということになります。この素晴らしい知らせは全ての民が聞くべきことです。しかし、救い主の誕生を告げられても、つまり聞いても受け入れない、信じない、喜ばない人もいます。信じる人に喜びとなります。

 

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」とあります。昨日ではなく、明日でもなく、あなたがたのために、あなたのために救い主が「今日」お生まれになられたということ。ルカ福音書では、この「今日」ということは非常に重要です。ルカ福音書の4:21、5:26、19:9、23:43を読んでみてください。

 

「今日」というのはもう待つ必要はないということです。ですから、救い主を昨日信じたのなら、今日も信じ、明日も、これから日毎に信じ続けなさいということにつながると思います。信じる時、恐れや不安から解放され、神様から平安と喜びが与えられるのです。

 

「救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とありますが、当時「救い主」と人々から讃えられていた皇帝アウグストゥスではなく、真の救い主、神様から油注がれたメシアがお生まれになったと力強く宣言するのです。

 

次に「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」とあります。ザカリアには「口が利けなくなる」というしるしが与えられ、マリアには「歳をとっているエリサベトが妊娠した」というしるしが与えられましたが、羊飼いたちには「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」がしるしとして与えられました。

 

普通の人たちの目には取るに足らないように見える中に、神様の救いがあるということです。この「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしをつまらないものとしてしまうのがわたしたち人間の弱さ、足りなさです。しかし、羊飼いたちはそのように受け取りませんでした。普通の人たちより小さく、つまらない存在として扱われていましたので、そのようなしるしが与えられたことを喜んだのだと思います。彼らは、その後、しるしを見つけ出し、ザカリアやマリアのように主を賛美する者にされてゆきます。

 

13節と14節に「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。』」とありますが、神の御子、救い主、メシアの誕生は、天においても、地においても、大きな喜びの出来事であり、神様を賛美する以外に喜びを表せないということの表れであると思います。

 

「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美の意味、一般的な理解は、イエス様の誕生が天におられる神様と地上にいるわたしたち人間をつなげる役目があること、イエス様によって天では神様に栄光が、地には神の平和がもたらされるというもので、イエス様は天と地の橋渡しをするために生まれたとします。しかし、ルカが本当に伝えたいことは、先ほども申しましたように、「イエスを救い主として受け入れる心を持つ人」に神様の平和があり、救い主を信じる人たちが地上で一人でも多く生まれる度に天では大きな喜びがあるということだと思います。

 

さて、天使たちが去った後のことが15節以下に記されていますが、喜びの知らせを伝えられ、知らされた者たちがどのようなリアクションをとったのかが記されています。

まず15節と16節に「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。

 

羊飼いたちの最初のリアクションは「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」ということ、つまり自分たちの救い主を自分たちで捜し求めたということです。「そして急いで行って」とありますようにすぐに行動に移したということです。彼らはどのように羊の番の係を調整したのでしょうか。仕事を放棄すれば仕事をうしないます。

 

小さな町であっても赤ちゃんをベツレヘム中で探し当てるのも大変であったでしょう。しかし、すべてをかけても探し出す価値のあるお方、自分たちの救い主であると彼らは感じたのでしょう。リスクを負い、時間をかけ、労苦を重ね、救い主を探し求め、ついに「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。

 

懸命に捜し出して、救い主に出会うことができた時の感動と喜びは、さぞかし大きかったでしょう。彼らの次のリアクションは、17節の「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」ということ、救い主の誕生を人々に知らせたということで、ある訳では「言い広めた」と訳されています。それほどまでに救い主に出会えたことは、救い主が乳飲み子であっても、大きなことであったということが分かります。この救い主の成長を心から願い、期待し、希望が生まれたと思います。

 

次の18節に羊飼いたちの言葉を聞いた人々のリアクションが記されています。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。なぜ不思議に思ったのでしょうか。理由は、救い主が来られた真の意味を知らなかったからではないでしょうか。意味や目的が分からないと、わたしたちは受け止めることも、信じることも、喜ぶこともできません。ですから、こんにち生かされているわたしたちの使命は、その意味と目的を知らせること、分かち合うこと、言い広めること。それが無いと人は信じられないのです。

 

19節に「しかしマリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。御使ガブリエルによる受胎告知から始まり、妊娠中のこと、出産のこと、そして羊飼いたちの訪問などすべてじっくり考えていたということです。聖書のみ言葉を読む時、じっくりと考える必要がわたしたちにもあり、それが信仰の成長につながると言えます。

 

20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ということが記されています。彼らは、神様が自分たちのことも覚えていてくださっているということを幼い救い主に出会うことではっきり知ることができ、信仰が与えられ、大きな喜びに満たされ、神を賛美する者とされました。同じ恵みが、わたしたち一人一人にも与えられていることを喜び、感謝いたしましょう。