主に信頼をおく

「主に信頼をおく」 新年礼拝宣教 2021年1月3日

 イザヤ書 40章28〜31節      牧師 河野信一郎

おはようございます。新しい年、2021年が始まりました。今朝は、この礼拝堂で皆さんとお会いして、新年のご挨拶ができると心待ちにしておりましたが、ライブ配信のみの新年礼拝となりましたので、寂しく感じております。礼拝堂での元旦礼拝は10名のみの出席でした。今まで経験したことのない少ない出席者数でした。コロナの恐ろしさを感じました。しかし、わたしよりも、新年最初の日曜日に教会に戻ってこられることを楽しみにされていた教会の家族がこのカメラの向こう側に大勢おられることも重々承知しております。さぞかし残念に思われていることでしょう。

わたしたちが危惧しておりました首都圏でのコロナ新規感染者数に歯止めが効かなくなっております。昨日の午後に首都圏の知事たちが政府に緊急事態宣言の再発出の要請を出しましたので、夕方5時に執事会で状況を確認して、この新年礼拝をオンラインのみとする決定をいたしました。新年早々、誠に残念でありますが、一人ひとりの健康と命には替えられません。もしこの数日の間に緊急事態宣言が再発出されますと、この先1ヶ月から2ヶ月はオンライン礼拝のみとなる可能性が非常に高いです。昨年の春の時もそうでした。本日午後にオンラインで臨時執事会を開催し、今後の対応について取り決めてまいりますので、どうぞお祈りください。決定事項はメールなどですぐにご報告いたしますので、今しばらくお待ちくださいますようお願いいたします。兎にも角にも、お互いの生活と健康が守られますように、ぜひお祈りください。教会でも皆さんのことを覚えてお祈りしております。

新年早々、あまり嬉しくない話題から入りましたが、ここ最近感謝なことも幾つかありましたので、最初に皆さんと分かち合いたいと思います。2019年のクリスマス頃からでしょうか、1年以上音信が途絶えていました中国のSR姉妹からクリスマスのメールが教会へ先週届き、また新年のメールがわたし宛に昨日届きました。地元で働きたいとい願いも叶えられ、地元に創設された新しい大学での就職も決まって働いておられるそうです。ご両親共々お元気に過ごされ、信仰生活、教会生活を続けておられるそうです。大久保教会の礼拝のユーチューブ配信は、残念ながら視聴できないそうですが、毎週水曜日に配信しています教会からのメルマガは無事に届いていて、また教会ホームページに掲載している宣教も読んでくださっているそうです。わたしは、その事実を知って本当に嬉しくなり、心を撫で下ろし、神様の憐れみとお守りとお導きに心から感謝いたしました。教会の皆さんもどうぞ喜んでください。こんなに嬉しいことはありません。

もう一つ嬉しかったことですが、教会のみかんの木、もう10年以上も実をつけることがなかったのですが、一昨年には確か3つ結び、昨年はみかんが12個ほど結んだことを覚えておられるでしょうか。当時はその大きな収穫を喜んだのですが、今年はたったの1個しか確認できずに残念に思っていましたが、つい二日前に目を凝らしてよく見てみますと、木のてっぺんの方に、葉に隠れているみかんをもう3つ見つけました。つまり今年は合計4つ実を結んだということです。確かに昨年よりも三分の一の数ですが、1つではなく、4つ実を結んでいることを確認できた時に心が躍りました。何故かというと、わたしは、心の中で、今年は1つしか実を結ばなかったと完全に諦めていたからです。しかし、青かったみかんが日々熟してゆき、黄色くなってゆく中で、今まで確認できなかった3つの実を見つけることができるようになりました。わたしは本当に嬉しくなって、家族にすぐに知らせましたが、家族も一緒に喜んでくれ、わたしの喜びが何倍にもなりました。

わたしたちは、このコロナ禍の中、目や手で確認できない時は「今年はこんなもんだろう」とすぐに諦めてしまうことがあり、探し求めることを止めてしまうことがあります。しかし、今回のみかんの実のことで、3つのことを痛感させられました。一つは、神様は素晴らしいということ。もう一つは、簡単に諦めてはいけないということ。もう一つは、みかんの実が黄色くなる、つまり神様の時を信じて待つことの大切さです。夏や秋口では見えなかった物が、実を熟して色が変わることで冬に見えるようになった。全ての事柄には神様のご配慮と時があるということを再確認させられました。

わたしたちは、この厳しいコロナ禍の中で、忍耐力が低下し、すぐに物事に見切りをつけたり、すぐに諦めることが多くなっているのではないでしょうか。しかし、花が咲くに時があり、果物が実をつけるに時があるように、神様の時を待たずして諦めてしまうことは誠に残念なことではないでしょうか。神様の時、思いよりも、自分の考えや時間の感覚の枠内で物事を判断することは、実に愚かで、心に虚しさを与えることではないでしょうか。

さて、新年最初の宣教は、「主に信頼をおく」という主題で、イザヤ書40章の後半部分からみ言葉の分かち合いをさせていただこうと願っていますが、なぜ主なる神様に信頼をおくことが大切なのかということを分かち合わせていただき、新年を歩み出すための信仰の第一歩を力強く踏み出せるようにされてゆきたいと願っています。

さて、先ほどのお話に少し戻りますが、なぜ忍耐できないですぐに諦めてしまうのかという理由、原因について考えてゆく時に、わたしたちの身体と心の「疲れ」というものが要因の一つではないかと思われます。新年の初っ端から皆さんに質問すべき事柄ではないとも思いますが、大切なことですからお尋ねしたいと思うのですが、皆さんは「お疲れ」ではないでしょうか。心と身体に疲れを覚えておられないでしょうか。「新年が始まったからゲームのように心も身体もリセット、リフレッシュされて最高!」と感じるよりも、昨年から持ち越している課題や問題を引きずり続け、心も身体も疲労困ぱいという方も多くおられるのではないでしょうか。

実はわたしも、こう見えて疲れているんですね。心配なことも実はいくつかあるんです。クリスマスの諸集会、年末年始のプログラム、そしてこの礼拝と午後の臨時執事会が終わると四日間の冬休みをいただくことになっていて楽しみにしていたのですが、首都圏の4人の知事たちが緊急事態宣言を再発出して欲しいと政府に昨日要請を出している状態の中、どこにも出かけることができません。わたしの体格を見てお分かりになられるように、わたしは食べることが大好きで、今回の休みに近くの美味しい韓国料理屋さんやタイ料理屋さんで食べたいものがあったのですが、それもすべてお預け、もうしばらく我慢しなければなりません。会いたい家族や友人にも自由に会えず、心は本当に悲しくなり、心が塞ぐようです。しかし、わたしよりももっともっと疲れておられる方々、もうずっとずっと長い期間、昨年中ひたすら懸命に医療の第一線で働いてくださっている医療従事者の方々やライフラインを守ってくださっている方々がおられる訳です。そのような方々に申し訳なく思い、疲れているなんて恥ずかしくて言えないという方もたくさんおられると思います。

しかし、皆さんも例外なく、心身ともにお疲れであると思います。みんなコロナ疲れを持っていると思います。疲れていない人は大人も子どももいないと思います。運動して疲れたり、働いて疲れる以外に、どのような疲れがわたしたちの身の回りにはあるでしょうか。心配疲れ、待ちくたびれ、人の目や世間体が気になる疲れ、比較したり競い合う疲れ、人を簡単に裁いたり、裁かれる疲れ、大切な人を失う悲しみ疲れ、孤独感にさいなまれる疲れ、色々あると思います。家族や住み慣れた街から離れて暮らす寂しさもあると思います。疲れには、身体的、精神的、あるいは環境による疲れなど多岐に亘ります。

その中で一番厄介なのが人間関係のストレスによる精神的な疲れと環境変化に起因する疲れです。体の疲れというのは休息を取ることで回復しますが、精神的な疲れと環境変化からくる疲れは、今おかれている状況や環境から別の安全な場所に移されて、そこで心の休息を得ないと回復しません。疲労回復にはバランスのとれた食事と時間の使い方も大切と言われていますが、コロナ禍で行動の自由が奪われていますので、ストレス発散ができない状態にわたしたちは置かれ、精神的な疲れがどんどん溜まってゆくだけになっているわけです。そうなりますと心と身体は弱り、物事を前向きに捉えることができなくなったり、感情をコントロールできなくなってしまい、ふと気づくと取り返しの付かないことを言ってしまっていたり、何か仕出かしたりして、周りの人たちや自分を傷つけたり、追い込んだりしてしまっていることがあります。このコロナ禍にあって疲れきって自らの命を捨てる人も増えています。

イザヤ書を読んでゆきますと、70年にも渡るバビロニア捕囚の期間、不自由な生活の中で、故郷を慕う思いや故郷に戻りたいと願ってきたけれども、もうその思いに疲れ果て、希望を失いかけていたイスラエルの民がいたことを知ることができます。その人々は、神様の救いに待ちくたびれ、自分たちは神様に見捨てられた、神様はわたしたちのことを何とも思っていない、わたしたちには希望がないと感じ、心が疲れ、折れ、塞いでいる人たちが大勢いました。しかし神様は、預言者イザヤを通してその疲れ果てているイスラエルの民、ご自分の民に対して希望の言葉を語りかけ、故郷への帰還、救いを約束されるのです。

イザヤ書40章28節に、「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」とあります。28節から31節までを読んでゆきますと、「疲れ」という言葉が4回も使われていますが、28節を読みますと、わたしたちを造られた神は、時間を超越している永遠の神であり、空間も超越している地の果てのどこにも存在する神であると記され、この神は、倦むことなく、つまりすぐに嫌になったり、飽きたり、投げ出す方ではなく、疲れることない神であり、その英知、ご計画とご配慮をすべて人間が知ることはできないと言われ、あなたはそれを知らないのか、聞いたことがないのかと問われ、そのような神がおられることをもう一度知り、もう一度このお方の言葉に聴きなさいと招かれています。

この主なる神様は、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える」お方、神であるとの約束の宣言が29節にあり、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と30節と31節に約束がなされています。

疲れ果てているわたしたちに力を与え、勢いを失っているわたしたちに大きな力を与えてくださる神様がおられ、力をわたしたちの心に注ぎたいと強く願うほどまでにわたしたちを愛してくださる神様がおられるということがここに記されています。この主なる神様に望みをおく人は新しい力を得ることができると約束されています。

わたしたちが走っても弱ることなく、歩いても疲れない。心に思い悩みや不安を抱えて弱っていても、日々ストレスを抱えて心が疲れ切っていても、常に新しい力をわたしたちに与えてくださる神様がおられる。この主なる神様に望みをおく者は新しい力がいつも与えられると約束されています。

わたしたちに大切なことはただ一つ、この愛の神様に信頼し、望みをおき、信仰の翼を大きく大きく広げることです。信仰を振り絞って、主に委ねつつ、信仰の翼を広げること。そうしたら聖霊という神様が風となってわたしたちの翼に吹き込んでくださり、鷲のように空高く引き上げられる。自力でバタバタと羽ばたく必要もないのです。ただ信仰の翼を広げるならば、神様が大空を自由に飛ぶことができる、本来の生き方ができる力を大いなる力を与えてくださり、祝福へと引き上げてくださいます。新しい年も、大変なことが続くと思いますが、主なる神様に信頼し、わたしたちの信仰の翼をまず大きく広げてゆきましょう。そして共に教会の翼を広げてまいりましょう。主なる神様が必ず新たなる力を与えてくださいます。