主の僕(しもべ)の歌

宣教要旨「主の僕(しもべ)の歌」          副牧師 石垣茂夫2016-10-16

*聖書  イザヤ書42章1~4節(旧約p1128)   *招詞  ヨハネ福音書13章34節

先週の礼拝は大雨の中で始まりましたが、午後はボーリング、料理教室と夕飯作り、散策、草刈などに分かれ、「教会一日キャンプ」を、皆さんで楽しくすごしました。

わたしは大人5人で、「新宿御苑」の散策に行ってまいりました。往復2時間の歩きでしたが、その散策で新しい発見がありました。わたしたちは「ひこばえ」というのを見たのです。耳慣れない言葉ですが、「ダビデのひこばえ」(黙示録5:5,22:16)という聖書の言葉を思い浮かべました。

「ダビデのひこばえ」は、イザヤ書11章1節に次のような言葉があり、これが典拠です。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」

エッサイとはダビデの父親です。「株」とは、切り倒されて残った切り株のことで、価値がないもののことを言っています。このみ言葉は、貧しい羊飼い“エッサイの家系”から、新しい時代の「救い主」が生れると、イザヤが預言した言葉です。エッサイの子ダビデとその家系を巨木になぞらえ、巨木は倒れたが、その切り株から「芽が生え」、その根から、「ひとつの若枝」が育つと言っています。これが「ひこばえ」であり、これに例えて「主の僕」出現を告げる預言です。

新宿御苑の案内図には、「アメリカキササゲ」という巨木があると、その位置が出ていました。そこには、枯れた巨木が、7~8メートルくらいの高さに切り詰められ、残されているのが目に入りました。大きな枯れ木の根元にある説明文には、この「アメリカキササゲ」は雷に打たれて枯れてしまった」。そして「その根元から、今、「ひこばえ」が育っています」と書いてあったのです。

ユダヤ人は、「巨木であるダビデは倒れたが、その根元から、「ひこばえ」である「救い主が生れる」と信じ、この実現をずっと待っていました。ユダヤ人の中でも、初代キリスト教会を形成した人たちは、ベツレヘムに生まれ、ナザレに育った「イエス」こそ、「救い主」だと、イザヤの言葉から信じたのです。ダビデが倒れて1000年を経て、主イエスが生れました。その「主イエス」という巨木が、十字架に倒れたことで、わたしたちに「新しい命」が与えられたのだと、先週の「ひこばえ」との出会いから、改めて思わされました。

聖書の舞台であるイスラエルは、ダビデの繁栄の時代から400年後のことですが、エルサレムを中心とした南ユダ王国が、バビロニア帝国の激しい攻撃に会い、事実上、国家として滅亡しました。

その際に、国のおもだった人々は捕えられ、約800キロ離れたバビロン、現在のイラク南部に移住させられました。約60年続いたこの出来事を「バビロン捕囚」Babylonian Exileと呼んでいます。

この時代は、捕らわれの身となりバビロンに住む人にとりまして、また、捕囚を免れてエルサレムに残った人々にとりましても、大変つらい時代でありました。

しかし、この時代があったからこそ、「救い主」を待ち望む思いが起きたと伝えられています。

聖書朗読では、最初の「主の僕の歌」にあたる「イザヤ書42章」の一部を読んでいただきました。

42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。

『わたしが選び、喜び迎える「わたしの僕」を見なさい。』、『主の僕を見なさい』と42章が始まります。新約聖書では、この「主の僕」とは、神の独り子、このわたしのことだと、主イエスご自身が明確に語っています(マタイ12:15~21)。更に今日の教会は、『主イエス・キリストの体(からだ)として、この歴史の中に存在する群れである』と導かれています(エフェソ1:23など)。

そして教会に集うわたしたち一人ひとは、キリストを幹とする枝として、キリストの体である教会につながっています。「主の僕」とは「イエス・キリスト」であり「教会」であり、「教会に連なるわたしたち」のことなのです。

神は「主の僕」になされたように、「教会」と「わたしたち」に、ご自分の聖霊を置かれます。聖霊がわたしたちに与えられることで、わたしたちは神に用いられるのです。第1節はそのような意味の言葉です。

42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない。

神さまの目に、バビロン捕囚の人々は「傷ついた葦、ほの暗い灯心」、そのように見えたのです。

「主の僕」は、“傷ついた者たち”を、折って捨ててしまうことはしない。

「主の僕」は、今にも消えそうな“灯心”をもみ消し、絶やしてしまうことはしない。

そのように言われました。これが、第二イザヤの口をして、神がバビロン捕囚の時代に生きる人々に告げ、希望を与えた言葉です。彼らはそのとき、精いっぱいがんばっても、『傷ついた葦、ほの暗い灯心』でしかなかったのです。弱さ以外に、何も持っていないと落胆していた人々でした。神はその弱さを知って救い主である「主の僕」を送ると呼びかけたのです。

彼らはこの言葉にどれほど励まされ、慰められたことでしょう。

やがてユダヤ人は、シナゴーグと呼ぶ会堂をバビロンに建て、礼拝の場や様々な集会に用いられました。「シナゴーグ」という言葉は「集まる」というヘブライ語で、わたしたちの教会の語源でもあります。自分ひとりでは倒れそうになり、挫折しそうになる時にも、同じ道、同じ生き方を目指す友の群れが、シナゴーグにはありました。

そうして集められた兄弟姉妹と共に、集会を止めることはせず、祈りを忘れることなく、「主の僕」の到来を待つ一団が形成されていきました。

今も、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。」 と神は呼びかけてくださいます。

主イエスを見上げましょう。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と呼びかける主イエス・キリストに従い、主イエスを信じ、新しい一週の歩みを踏み出しましょう。fullsizerenderimg_0362