主の恵み深さを味わおう

「主の恵み深さを味わおう」 五月第一主日礼拝 宣教 2022年5月1日

 詩編 34編9〜10節     牧師 河野信一郎

  おはようございます。早いもので、5月最初の日の朝を迎えました。わたしの好きな新緑の季節です。このような素晴らしい朝に、皆さんと共にここに集い、賛美と祈りと礼拝をおささげできる幸い、恵みを神様に感謝いたします。礼拝に出席くださっている皆さんのお顔を拝見できて嬉しく思います。また、オンラインでご一緒に礼拝をおささげくださっている方々のお顔も、近い将来、主のお導きの中で、拝見できれば大変嬉しいです。

日本国内は3年ぶりのゴールデンウィークということで楽しんでおられる方も多くおられると思いますが、教会内では、お母様が先週お亡くなりになられ、本日が葬儀の姉妹がおられます。また、教会に戻ることをいつも楽しみにしている子どもたちが風邪を引かれたり、体調不良のため欠席されています。不安定な気候や最近の冷たい雨が原因ではないかと思います。今日も夕方から冷たい雨が降り注ぐようですので、どうぞお大事に今週1週間をお過ごしください。

先週、北海道の知床では観光船の痛ましい事故が起こりました。ウクライナでも悲惨な状況が続いています。悲しみと怒りが入り混じった苦しさを感じます。そういう中で、今朝ともに聴きます詩編34編の22節には、「主に逆らう者は災いに遭い、主によって罪に定められる」ということが記されています。つまり、自分の罪によってその人は自滅し、主に裁かれるということです。しかし、続く23節では、「主なる神は、その僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない」と約束されています。わたしたちはただ、この神様に信頼して、すべてを裁いてくださる主にお委ねするしか心に平安はないのです。

皆さんの先週の歩みはどのような歩みであったでしょうか。それぞれ様々なことがあったと思います。大変であったでしょうか。感謝であったでしょうか。牧師の家も大人5人の家族です。毎日ドタバタしながら、時にはブツブツ言いながら、それでも祈りながら、励ましの声を掛け合いながら、それぞれが為すべきことにコツコツと取り組み、無理せずにぼちぼちと前進しています。すべては神様の愛とお守りと祝福であり、皆さんの愛とお祈りが背後にあるからだと日々恵みを数え、感謝しながら歩んでいます。主にすべてをお委ねしながら、コツコツと誠実に生き、自分に嘘をつかないで、ぼちぼち生きることがベストだと思います。

さて、今朝は皆さんにぜひ見ていただきたい写真があります。昨年から宣教の中で度々話題に上げていますキジバトの写真です。ここ最近、また巣作りを始めています。昨年は失敗に終わりましたが、諦めずに巣作りを再開し始めました。見えにくいかもしれませんが、次の写真は地面に落ちた数々の小枝です。その小枝を今朝持ってきました。写真もあります。

これらの小枝は、わたしたちに大切なことを教えてくれていると思います。それはキジバトの目標に向かって粘り強く前進しようとする精神、諦めない精神、コツコツと取り組む精神を持つことの必要性です。すごいと思いませんか。親鳥になろうとしている鳩のつがいが、どこかで小枝を見つけ、それをくちばしにくわえて巣の候補地に一本ずつ持ってきます。しかし、太い枝や中太の枝の間にうまく小枝が乗らず、せっかく運んできた枝が地面に落ちてします。人間なら手足を使って上手に、また工夫しながら巣作りをすると思います。しかし、鳩には「くちばし」しかありません。鷲のような大きな足があれば、もっと長くて太い枝を運んでくることもできるでしょう。

人間ならば、地面に落ちた枝を拾って再利用するでしょう。しかし、鳩は人間のようにはしません。地面には、猫などの動物が襲ってくる危険があるからかもしれません。理由は分かりませんが、またどこかへ行って、小枝を探し、見つかったら、それをくわえて持ってくる。忍耐と不屈の精神が必要な巣作りです。コツコツと励み、もしダメだったら、また小枝を探しに飛んで行って、小枝を見つけて持ってくる。そのような作業をずっと繰り返します。それはしっかりとした「巣を作る」という目的があるからです。遊びではありません。

それでは、わたしたちはどうでしょうか。神様に愛され、主のお守りの中を生かされ、日々恵みを受けながら歩ませていただいていますが、わたしたちは神様に日々感謝しながら、信頼しながら、助けと励ましを祈り求めながら、自分が為すべきことをコツコツと取り組んでいるでしょうか。諦めないで、神様から委ねられた働きを日々担って歩んでいるでしょうか。つまり、自分は何のために創造され、何のために生きているのか、何をして生きてゆくべき存在なのか、その存在意義と神様の目的を知りながら生きているでしょうか。生きる意義、生きる目的、喜びを持って生きているでしょうか。

もしかしたら、神様に創造され、神様の愛の中に生かされていること、日々守られていること、恵みを絶え間なく受けながら生かされていることを知らないで、自分の力だけで生きていないでしょうか。つまり、自分は何のために生きているのか、勉強したり、仕事をしたり、苦労をしているのかが分からない。自分は正直に生きようとしているのに、周りの人たちから苦しめられていて、その苦しみや痛みや悲しみの意味がまったく分からない。自分の存在意義も、存在価値も、生きている意味も分からない。ただ虚しさや不満や怒りが心に満ちている。八方塞がりの状態になっている。自分がどこに向かって生きているのかも分からない。

このコロナパンデミックの中で、精神的に追い込まれた経験が何度もあるかもしれません。その都度、どうやって苦しみや不安の大波を乗り越えてきたかも、がむしゃらだったので分からない。でも、今朝、わたしたちはここにいて、生きている、生かされている、礼拝者とされている。これって、凄いことだと思うのです。自分の力だけではどうすることもできなかったことだと思うのです。そして、すべてに神様の愛があると感じさせられるのです。

2022年度にふさわしいみ言葉は何であろうかと祈りながら、思い巡らしながら、聖書を読みました。副牧師にも祈っていただき、協力をお願いしました。いろいろな候補が与えられましたが、最終的に導かれたのが、詩編34編の9節と10節でした。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」という言葉です。

まずこの詩編の背景をお話ししなければなりませんが、「ダビデの詩」とあります。若者ダビデは勇敢な戦士、強い戦士で、戦いに出れば大軍をも打ち負かすような人でした。しかし、戦いに勝ち進む中で、イスラエルの国民はダビデを英雄視し、当時の王であったサウル王と比較するようになりました。皆さん、人と人を比べることは不幸の始まりです。比べ出すと競争が始まり、そこに妬みや憎しみや怒りが出てきて、それが徐々にエスカレートしてゆき、相手を殺してしまおうという思いに支配されてしまいます。物であっても同じです。人が持っているものが欲しくなり、奪ってしまおうという思いに支配されてしまいます。

ダビデはサウル王に妬まれ、命の危険を感じるようになり、自分の国にとどまることができなくなり、敵国に身を隠すことになりました。敵国で生きてゆくために、ダビデは持ち物一つだけを残して、それ以外はすべて捨て去りました。命に勝るものはありません。命がながらえれば、再起するチャンスは必ず巡ってくる、必ず与えられるとダビデは信じていたのだと思います。とにかく、生きようとがむしゃらになりました。

さて、ダビデは生きていくために持ち物一つだけを残して、それ以外をすべて捨て去ったと申しました。ダビデが手放さなかった唯一のもの、それは神様への信仰です。神様への信頼だけは決して手放さなかった。すべてを諦めても、神様に愛され、守られている確信だけは諦めること、捨てることはできませんでした。何故でしょうか。それは、神様が自分を決して諦めない愛のお方であることを体験してきたからです。これまでの人生の中で、戦いの中で、霊的な戦いの中で、神様に愛され、守られ、危険のたびごとに救い出されている神様の奇跡、人々から辱めを受けても神様は自分を愛し続けて、自分の心を強く守ってくださったことを経験してきたからです。そして、これからもそうしてくださると信じていたのです。

「味わい、見よ、主の恵み深さを」とあります。神様の愛を、その憐れみ、恵み深さをあなた自らが味わいなさい、自分の目で見なさいと勧められています。あなたの前には、わたしたちの前には、神様の愛と憐れみ、恵みが差し出されています。その愛をイエス様が差し出してくださっています。ずっと差し出し続けてくださっています。そのイエス様の差し出される手には十字架に付けられた時の釘の跡があります。その傷跡が神様の愛の印なのです。

わたしたちは勘違いしてはなりません。今は神様の愛をひたすら待つ時ではなく、目の前に差し出されている神様の愛と恵みを受け取って、応答する時なのです。これは人任せにすることもできません。あなたが自分から求めなければ、自ら進んで、心を開いて神様の愛を受け取り、その愛の豊かさ、高さ、広さ、深さを体験してゆかなければ、救いも、平安も、喜びも、希望も与えられないのです。求めること、それは信じてみようという思いから始まりますが、そのような思いも、神様がわたしたちに豊かに与えてくださる「信仰」なのです。

さて、神様の恵みを味わう方法はたくさんあります。その恵みの深さを味わう方向は何でありましょうか。この一年も、ご一緒に聖書から聴いてゆきたいと思いますが、9節に最初のステップが記されています。「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」とあります。神様の恵みを味わうためには、神様の御もと近くにいる必要があります。神様の臨在を近くに感じること、どこにいても神様のことを思うということ、思いを寄せていくということです。

わたしたちが求める前から、神様はいつもわたしたちのすぐ近くにいてくださいます。そのように約束し、インマヌエルなるイエス様が、神の霊であるご聖霊がいつも共にいてくださいます。そのことを信じること、そこに目を注ぐこと、フォーカスすることが大切です。わたしたちは決して独りではない、いつも主が共にいてくださる。もしそう感じることができなければ、すぐに祈り求めれば良いのです。それが御もとに身を寄せるということです。

神様から恵みを受け、信仰が与えられています。しかし、信仰が与えられているからと言って、戦いがないわけではありません。試練や災いもあります。主が確かに共にいてくださいますが、独りで信仰生活、教会生活を歩むことも実に大変です。そういうわたしたちに10節の前半で、このように主は語られます。「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え」と。

「主の聖なる人々」とあります。わたしたちには「聖なる人々」が神様から与えられています。それが神の家族、教会の家族、主にある兄弟姉妹です。しかし、わたしたちはよく知っています。自分たちが「聖なる人」ではないということ、たくさんの弱さや欠けを持った人たちであることを。しかし、主なる神様が、イエス・キリストの御名によって、イエス様の十字架の贖いによって、わたしたちを「聖なる人々」と宣言してくださるのです。神様は、わたしたちを「聖なる人々」とするために、御子イエス様を救い主としてこの地上にお遣わしくださいました。十字架に死んでわたしたちを贖ってくださったイエス・キリストによって、神様の霊によって、つまり神様の愛とみ言葉と力によって造り変えてくださるために。

いびつな形をした石を丸く形成するために、たくさんの石が樽の中に一緒に入れられ、そこに神様の霊の水が注がれ、ガランゴロンとかき回され、石と石がぶつかり合う中で、お互いの突起物が削られてゆき、丸い石に変えられてゆきます。確かに社会の中でも、わたしたちは欲や妬みや憎しみや怒りの中に入れられ、かき回され、踏みつけられ、たくさんの痛みを味わい、傷を負いますが、神様はそこからわたしたちを救い出してくださり、教会の中に置いてくださいます。教会とは、神様の愛に感動し、喜びと感謝に満たされた人々のあつまりです。主なる神様を畏れ敬う人々が集められ、神様を愛し、共に仕えてゆくのが本来の教会のあるべき姿です。神様の愛を感謝し、喜んでいる人々の中で、共に賛美と礼拝をささげ、共に祈り、主の声に聞き従うならば、主はわたしたちみなを丸くし、恵みで満たされます。

10節の後半に、「主を畏れる人には何も欠けることがない」とあります。神様を畏れ敬う人を神様が不思議な方法で必要を満たしてくださいます。物を手当たり次第に欲する欲はなくなり、いま与えられている物に感謝し、主の恵みに応答して生きてゆこうとする心に変えられてゆきます。一瞬で心が変えられる人もいます。二段飛びができる人もいます。器用にスイスイといける人もいます。しかし、そのような人たちと自分を比べると不幸の始まりです。そうではなく、主を毎日見上げ、神様から与えられた恵みを活用し、毎日コツコツと生きていく中で、心が変えられてゆく人の方が着実に前進し、たくさんの実を結ぶことができると思います。

「若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない」と続く節にありますが、ライオンのように貪欲に求めても、時が経てば、また飢え渇きを覚えます。しかし、神様に信頼し、主の恵みを求める人は祝福され、数ではなく、質の良いもので満たされます。主の恵みは質の良いものであって、また深い所にあります。それをご一緒にみ言葉に求め、礼拝と交わりの中で味わい、また神様の愛を必要としている人たちと分かち合うことで、その愛と恵みの深さを味わいましょう。それがわたしたちへの神様の御心です。