主の愛を受け継ぐ者

「主の愛を受け継ぐ者」 7月第一主日礼拝   宣教 2020年7月5日

 マタイによる福音書 9章35〜38節    牧師 河野信一郎

新しい月、7月に入りました。わたしたちが今朝もこのように、そしてインターネットを介して礼拝堂に集められ、共に礼拝をおささげできる幸いは、実に神様の愛と憐れみであり、お導きであり、御心であると信じて、心から神様に感謝いたします。昨日は、大久保教会の55回目のお誕生日でしたが、今朝はこの教会が新宿・大久保の地に立てられていることを喜び、感謝し、教会の存在理由を再確認する時です。また神学校週間の最終日でもありますので、神学校で学んでいる学生たち、バプテストの3つの神学校を覚え、さらにこれから牧師・伝道者としての召命を受けて立ち上がる人たちが必要であること、そのような人たちが主の励ましの中で多く起こされてゆくことを祈り求めてゆく朝としたいと願っています。

さて、宣教に入る前に一つ猛烈に感謝したいことがあります。それは厚生労働省から支給されたマスクを集めてフィリピンの子どもたちに送るプロジェクトが終わった感謝です。なんと52世帯から115枚のマスクが寄せられました。募集を締め切った28日の翌日とその翌日にさらに2世帯から寄せられ、7月1日の午後に名古屋にあるNPOへお送りしたのですが、28日の礼拝の時に呼びかけさせていただいたマスクを送る送料も、「たくさんのお金は必要ありません。50円玉、100円玉の協力で大丈夫です!」ってわたしが言ったのにも関わらず、千円札をポンと募金の瓶に入れてくださった粋な方や、これまた言葉通りに50円玉、100円玉を入れてくださった素敵で純真な方々がたくさんおられ、「大久保教会って本当に素敵な人たちの集まりだなぁ」と感動しました。突然の呼びかけにも関わらず、その日2450円が集まりました。ゆうパック送料は980円、わたしは10円玉3つをたして2480円とし、1500円分の切手を購入、お手紙と一緒に箱に入れて、心の中で「神様、わたしたちの思い、小さな愛の行いですが、そのわずかな思いをあなたの愛でいく倍にもしてくださり、マスクを用いてフィリピンの子どもたちの健康と命を守って祝福してください」と短くお祈りして送りました。

今回のマスクをフィリピンに送るというわたしたちの行いは、本当に小さなもので、ある人たちに言わせれば「偽善」なのかもしれません。それもそれでよく分かっています。しかし、一つだけ確信していることがあります。それは、マスクをフィリピンへ送ろうという思いを抱かせ、わたしたちに寛容さ、優しさという霊の実を結ばせてくださったのは、他でもない主なる神様とイエス様、そしてご聖霊であるということです。わたしたちに大切なのは、人の声や言葉に耳を傾けるのではなく、神様を信じ続け、イエス様の言葉に聞き続け、ご聖霊の導きに従い続けることです。小さなことに忠実な者を神様は祝福し、主の御用のために、主が用いられます。わたしたちが用いられたいとか、用いてくださいと願うよりも、神様はわたしたちを主の御用のために用いたいと願っておられます。ですから、暗闇に彷徨っているわたしたちを見出し、わたしたちを罪から贖い出し、救い、御心に従って生きる者とするために、御子イエス・キリストを救い主・メシアとしてこの地上に遣わしてくださったのです。イザヤ書9章6節にあるように、神様の熱意が、わたしたちに対する篤い愛がそのようにさせたのです。わたしたちは、そのことを信じて、主にあって喜び、大いに感謝し、次は何をしようかと心を弾ませたいと思います。

東京のコロナウイルスの新規感染者数が連日100名を超える厳しい現状です。20代、30代の感染者が増えているとのことです。執事会において今後の対策に関して話し合ってゆかなければならない状態です。ですから、基礎疾患をお持ちの方、感染に不安を感じる方、ご家族の健康と命を守らなければならない責任がある方、ご高齢の方、神様から幼児を託されている方は、どうぞ今後も礼拝ライブ配信を通して礼拝をおささげいただきたいと思います。

今、わたしたちに必要なのは、祈りと思いの一致と感染防止への最大の努力と忍耐、そして互いへの思いやりの心です。積み重なるストレスが原因で、短気になって軽はずみなことを言ったりしたりする誘惑が日々わたしたちに襲いかかりますが、そうなった場合はすぐに立ち止まって、空か上を見上げて、ゆっくりと大きな深呼吸をしましょう。大きく深呼吸したら、ご聖霊が忍耐する力を心に満たしてくださいます。大切なのは、決してイエス様を見失わないことです。しかし、それも不安・恐れを抱いてしまうならば、このわたしに電話かメールをください。ご一緒に神様に心を向けて祈りましょう。

コロナ感染に関して、今後どのような状態に首都圏が陥るか正直分かりません。日本だけでなく、アメリカや南米が制御不可能・アウトオブコントロールのように見えてしまう状況です。しかしながら、全能であり、愛の神様がこれまでの全てを掌り、ご支配・コントロールされてきましたし、今も絶大なる権威を持ってすべ収められます。それでは何故、このカオスの状態を神様はすぐに「制御・抑制」されないのでしょうか。何故、わたしたちが心に抱く不安や恐れ、痛みや苦しみや悲しみをそのままにし続け、わたしたちの健康や生活を脅かし続け、さらにこの5ヶ月の間に世界中で52万を超える人々の大切な命を取り去られるのでしょうか。

それは、わたしたちに最も重要なことを教えるためであると思います。しかし、それを学ぶにはあまりにも代償が大きすぎると感じてしまうのですが、わたしたちです。では、わたしたちはこの5ヶ月の間に何を学んだのでしょうか。一体何を学んできたでしょうか。あなたはこの期間、何を感じ、何を思い、何を考えてきたでしょうか。自分のことばかりで忙しかったでしょうか。ありとあらゆることが自分の身にふりかかり、大変であったでしょうか。そうだと思います。大変なことがたくさんあったと思います。しかし、この苦しみを通して何を学んだかがポストコロナを生きる力となるのです。

主なる神様が教えようとしていることは、自分の事ばかり考えないで、隣りの人のことを思いやる優しさ、寛容さ、憐れむ心を持ちなさいということだと思います。今、自分や仲間のことしか考えない人、他人がどうなっても関係ないと思っている人、コロナウイルスに感染しても自分は無感症のままで大丈夫と思っている人、特に若者が日本にも、アメリカにも思慮の浅い人が大勢いると見聞きしていますが、今そのような自分のことしか考えない自己中の人たちがどんどん感染し、死に直面しています。また、無感症の人が家族や同級生や職場の人を命の危険にさらしています。そして、そういう身勝手な人たちの命をそれでも救おうと医療従事者たちは今日も頑張って治療に当たってくれています。「自分は大丈夫」という考えが間違っていること、傲慢にならずにいつも謙遜に生き、他人に思いやりを持つ人になるように、神様はこの期間わたしたちを招いておられるのだと思います。

さて今朝は、ガラテヤの信徒への手紙に聴くシリーズは一回お休みさせていただき、マタイによる福音書の9章の最後の部分から、「主の愛を受け継ぐ者」という主題で宣教をさせていただき、ご一緒に主イエス様のみ言葉を聴き、主の言葉にどのように答えて生きてゆくことが主イエス様と神様の御心であるかを知り、主の言葉に聴き従って生きる者とされたいと願いますので、読んでまいりましょう。

まず35節に、「イエスは町や村を『残らず』回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、『ありとあらゆる』病気や患いをいやされた」と記録されています。主イエス様は、精力的にガリラヤ湖周辺の町や村を「全て」回って御国の福音を伝え、神様のことを教え、「ありとあらゆる」病気を癒されたのです。つまり、イエス様は人々の置かれている環境と状態、精神と身体の健康状態、それぞれが負っている苦しみや痛みや必要(ニーズ)をつぶさにご覧になられ、そのニーズに応えられてゆかれました。イエス様のその働きは力強く、大きかっただけでなく、人々が求める、最も必要とすることでありました。人々のニーズ、最も必要としていたもの、それは癒しやお金ではなく、御国の福音でした。

すべてのユダヤ人は、神様の存在は知っていましたし、信じていましたが、モーセの律法を守らなければ救われない、神様の許へは行けないと思い込んでいました。つまり、自分が頑張らないとダメなんだと思い込んでいたわけです。しかしどんなに忠実に生きようとしても、どんなに毎日頑張っても達成感はありません。満足することなどありません。いつも「これでいいのかなぁ。いや、足りないかなぁ」と不安でなりません。その不安を打ち消すために、さらに頑張ってしまいます。そういう人、この日本にもたくさんおられるのではないでしょうか。世界中に大勢おられるのではないでしょうか。あなたがその人で、自分に嘘をついて、精神的にも肉体的にも、もうアップアップの状態なのに、それでも歯を食いしばって頑張りすぎているのではないでしょうか。あなたに、そしてわたしたちに必要なのは栄養ドリンクや栄養バランスの良い食べ物ではなく、神様の愛の言葉、慰めの言葉、励ましの言葉、平安と希望を与える神様の言葉、福音なのです。

実は、わたしはこのコロナの自粛期間に歯が本当に大変なことになって大変苦しんだのですが、わたしの歯をいつも治療してくださる台湾出身のクリスチャンの先生、奥様は日本の方ですが、このご夫妻はありえないくらいに優しい方々なのですが、先生は「健康を保つためには歯はとっても大事、噛み合わせも大事、歯にストレスをかけない、つまり寝ている時に歯ぎしりなどしないようにすることも大事」といつも笑顔で言われます。つまり、歯を食いしばって頑張り続けること、いつもストレスを抱えて生きることは、心と身体の健康面でも本当によろしくないのです。

36節をご覧ください。イエス様は「また、群衆が飼い主のいない羊のように『弱り果て』、『打ちひしがれている』のを見て、『深く憐れまれた』」とあります。「飼い主のいない羊」とは何でしょうか。それは最も無防備で弱い存在、狼や野生の動物の餌食になって死んでしまう危険性の最も高い存在、羊飼いがいないと生きてゆくことができない存在です。

自分の知恵と力だけでは生きてゆけない存在、羊飼い・イエス様が必要な存在なのに、それでもサタンの声、「あなたにはできる。大丈夫」という誘惑の声を聞いて、自分の力だけで極限まで頑張ってしまって挙げ句の果てに弱り果て、頑張っても成果が出ないために打ちひしがれてしまっている。そういうわたしたちの弱さや苦しみや頑張りようをご覧になって、イエス様は深く憐れまれたのです。つまり神様に心揺さぶられ、わたしに愛を注ごう、痛みや苦しみに寄り添おうと決意されたのです。神様の霊がそのようにイエス様の中で働かれたのです。では、どのようにしてイエス様は人々に寄り添い、愛を注ごうとされたのでしょうか。それは神様の福音、神様の愛を伝えるということと十字架上で愛を注ぐということです。

神様は律法を守らなければ救わないという無慈悲な神ではなく、「わたしのところへ戻ってきなさい、イエス様を救い主と信じなさい、わたしにつながりなさい」と招き、愛を注いでくださる神であられることをわたしたちに伝えるために主イエス様はこの地上に来られたのです。わたしたちの弱さ、罪を贖うために、イエス様は十字架に架かって死んでくださり、キリストを信じる者に永遠の命を与えるために神様はイエス様を甦らせました。この神様の愛とイエス様の十字架と復活を伝えることがわたしたちクリスチャンの使命であるのです。

この使命に生きるためには、神様と主イエス様の愛を信じ、その愛を日々受け続ける必要があります。イエス様を通して注がれる神様の愛はわたしたちにとって必要不可欠なのです。愛を日々受け続けることが、神様の愛を受け継ぐことでもあるのです。

37節と38節をご覧ください。「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」と主イエス様はわたしたち主に従う者に言われます。この言葉はあなたの周りの人に向けられているのではなく、あなたに向けられ、わたしたち一人一人に向けられている言葉です。

夏は美味しい野菜や果物の季節です。畑に育っている野菜や木にたわわに実っている果実は、収穫の時を待っています。でも人によって収穫されなければ、美味しい野菜や果物はどうなってしまいますか。大きく成長しすぎて、味もぼやけてしまい、最後は朽ちてしまいます。愛と憐れみに満ちた神様とイエス様は、収穫されないで朽ちてゆく命を見過ごすことを悲しまれます。神様の愛を必要としている人たちが多いのに、その愛を伝える人が少ない、働き手が少ない、今そういう状態なのです。

では、わたしたちはどうすれば良いのでしょうか。手をこまねいていてはダメなのです。手をしっかり合わせて、収穫のために働き手を送ってくださいと収穫の主、神様に祈り求めることからすべてが始まります。とにかく、まず祈るのです。そして主なる神様に期待し、待つのです。この祈り後、どういうことが起こったでしょうか。それは10章に記されていますが、イエス様は12人の弟子を選ばれ、派遣するのです。主なる神様を信じ、祈り求め、そして主が働かれるのを待つのです。神様の時が来る時、わたしたちは遣わされるのです。まず、神様に憐れまれ、イエス様によって罪から救い出され、主の愛を受け継ぐものとされていることを心に刻み、イエス様が愛してくださったように愛するものとされてゆきましょう。