主の日を待ち望む者

宣教「主の日を待ち望む者」大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫    2022/12/18(アドベントⅣ)

聖書:ルカによる福音書2章8~14節(p103)

 

はじめに

11月の終わりからクリスマスに向けて、わたしたちはアドベント(Adventus)という期間を過ごしています。

アドベントについてですが、日本語では「待降節」と書き、「待つ」という字を当てていますので、アドベントの期間を “わたしたちが、救い主の到来を待つ日々”と言う意味で理解していると思います。

しかし、アドベント(Adventus)との言葉は、ラテン語で、「近づく」と言う意味の言葉であり「待つ」とい意味はないようです。本来、アドベント(Adventus)とは、神様が、ご自身の思いで、救い主を届けようと、わたしたちに“近づいて来てくださる”ことを表現しています。

わたしたちがアドベントを過ごしながら祝う「救い主キリストの誕生」は、2,000年前、偶然に起きたことではなく神様の深いご計画の中で、神様がわたしたちに近づいて来られ、キリストの誕生をもって、わたしたちの救いのためになさった、そのような出来事です。

わたしたち人間の、「待つ」という思いが先に在って、クリスマスの出来事が起きたのではないのです。

 

本来はこの出来事で神さまの計画は完成した、終わりだと思われました。しかし、主イエスが天に帰られるとき、「終りの日に再び来る」、「すぐに来る」と約束して、天に上って行かれました。そのために、最初の弟子たちは、「再び来る」、「すぐに来る」と約束して行かれた「再臨のキリスト」を、緊張して「待つ」ことになりました。

このようにして、わたしたちも、「最初のクリスマス」と「再臨のクリスマス」、この二つのクリスマスの間の時、中間の時を今、生きているという事になりました。

そのようにして「待つ」、わたしたちに求められていますのは、この「中間の時」を、どのように生きるのかが問われています。このことも、神様のご計画です。

「中間の時」の生き方を、今朝のみ言葉から導かれたいと思います。

 

「なぜ羊飼いたちなのか」

 

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

 2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 

“救い主キリストの誕生”、この事実を最初に伝えられたのは、夜、羊の群れの番をしていた「羊飼いたち」でした(2:8)。

 

この「羊飼いたち」とは、羊の持ち主ではありません。持ち主に替わって夜の間だけ、野獣や盗人ぬすびとから羊を守るために雇われた人たちです。礼拝などの宗教生活を守ることが出来ず、その時代の最も貧しい人たちであり、罪人つみびととさえ呼ばれていました。

少し前の、ルカ2章1節には、ローマ皇帝アウグストウスが、全領土の住民登録をせよとの命令を出したと記されています。

皇帝が命じた住民登録の目的は、税金の徴収と兵隊を招集するためでした。しかし、税金の払えない彼ら羊飼いたちは、この住民登録が必要でない人たちでした。人として数に入れてもらえない、そのような寂しい扱いを味わってきた人たちでした。

わたしたちがもし、「あなたは必要ではありません」と言われたならどう感じるでしょうか。

そうした人たちを、神様は敢えて最初に選び、救い主キリストの誕生を告げたのです。

わたしには、「なぜ最初に羊飼いなのか」、このように問うことは、大事なことに思えて来ました。

 

2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

羊飼いたちは天使から直接、『あなたがたのために救い主がお生まれになった。』と言われたのです。人間の世界では忘れられているような彼らにとって、『あなたがたのために』と言われた彼らは、どれほど嬉しかったことでしょう。

ルカ福音書のこの言葉に、わたしは、神様の大きな慰めを覚えました。

 

「主の天使とは何者か」

もう一つ、救い主の誕生を羊飼いたちに伝えたのは、「主の天使」だと書かれていました。「主の天使とは何者か」、これも難しい問題かもしれません。

わたしは、ドイツの牧師ブルームハルト(1842-1919)の文章を読みながら、天使について、興味深い言葉を見つけました。

 

ブルームハルトはこう言っていました。天使たちとは、人として生きている間、神様の働きを、神様と一緒に担になってきた人たちだ、と言っていました。

以下は「天使」についての、ブルームハルトの言葉です。

【スライドで表示する】

わたしたちは、地上の命を終えた後、“幸いにして”天に上げられたとします。

【ここに“幸いにして”とあります。ブルームハルトによれば、天に上げられることは、当たり前のことではなく「幸いにして」のことなのです。】

わたしたちは“幸いにし”て、一度、天に滑り込むことが出来たとします。

でも、もう二度とそこからは出られないと思い込んでいるのではないだろうか。

【面白いと思ったのは、幸いにして天に滑り込むという表現です。神様がわき見をしている間に、天に滑り込むところなのでしょうか? そうであれば、天に行くには、滑り込むときに骨折しないように注意しなくてはいけません。でも、もう二度とそこからは出られないと思い込んでいるのではないだろうか。

そして一度、天に滑り込んだなら、そのあとは、ただ天にいるだけと思ってはいないか、と言っています。】

しかし天とは、そのように、一度入ったら出られない、閉ざされたままのものではないのです。

これら、天にいる人たちは生きています。この地上で神の国が前進すると、ますます、いきいきと、天で生きるのです。

【天は閉ざされてはいない。出入りのできる場所なのだと、ブルームハルトは言っています。地上で神さまの働きを共にした人は、天の使い、天使となって神さまの働きを地上に伝える役目をするのです。天は閉ざされてはいない。出入りのできる場所なのです。

続いて、このように天で生きる人たちは、「地上で神の国が前進する」ことを喜び、元気になります。

「地上で神の国が前進する」。それは、今日のわたしたちにとっては、「福音宣教が進む」という事です。】

天使とはアブラハムかもしれない。ダビデかもしれない。天使とは預言者イザヤかもしれない。バプテスマのヨハネかもしれない。

そのようにして神の国は受け継がれ、今のわたしたちがキリスト誕生の時を迎えたのです。

【ブルームハルトは終わりに、最初のクリスマスについて述べていました。

神様は、アブラハムやダビデの名を挙げて、何世紀もの間、彼らと一緒に神の国を準備して受け継がせ、彼らと共にキリストの誕生を、地上に実現したのです。】

 

「主の天使とは何者か」と問いましたが、天使とは、そういう人たちであり、神様の出来事の大事な時には、いつも地上にに遣わされていました。

 

その天使は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と羊飼いたちに告げました。

天使は確かに「あなたがたのために」と、羊飼いたちに言いました。羊飼いたちは、「あなたがたのために」との言葉を自分たちに投げかけられた言葉として、喜んで受け止め、救い主を探しにベツレヘムに行き、救い主を探し当てたのです。「確かに、わたしたちのために救い主がお生まれになった」。彼らにとってはそれで十分だったのです。事実を確かめ、そして何をしたのでしょうか。それは、神が始められたこの出来事を、自分の口で人々に知らせたのです(2:17)。「自分の口で人々に知らせる」この羊飼いたちの働きこそ、ブルームハルトが言っていた「神の国が前進するための働き」ではないでしょうか。

 

「なぜ再臨の約束なのか」

わたしたちは、最初のクリスマスの出来事を信じ、神の子、イエス・キリストこそが救い主であると信じています。

そうであれば、最初のクリスマス、これで神さまの救いの業は終わったとしてもよかったはずです。

それなのに、先ほども申しましたように、主イエスは、「再びこの地上に来る」と約束されたのです(使徒1:11、マタイ16:27、ルカ21:27、黙示1:7)。「なぜ再び来られる必要があるのでしょうか」

 

わたしたちはこの朝、「待つ」という事を考えていますが、初代教会の人たちは、主イエスは再び来られる、しかも、すぐに来る、この約束、キリストの再臨を、わたしたちよりもはるかに強く受け止め、緊張して待っていました。

あの使徒パウロでさえ、「わたしたちが生きているうちに、主は来られる」と言っていました。「主が来られるまで生き残る…」と、テサロニケ一4章15節でパウロは言っています。

しかし、この再臨と言う出来事は、実は中々起きなかったのです。新約聖書の終わりの方には、待つことにいら立ちを覚えるような言葉があります。

先週の夕礼拝でも読まれましたが、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(Ⅱペトロ3:4)と言い出す人もいました。この疑いは、初代の教会の人たちを苦しめました。そうした疑いが渦巻く中で、初代キリスト教徒たちの多くの人々は、「主よ来てください」、「マラナタ」(Ⅰコリント16:22)と繰り返し祈りました。

そして新約聖書の最後、聖書全体の最後の言葉でもありますが、ヨハネの黙示録は、「わたしはすぐに来る。主イエスよ、来てください」(黙示22:20)と、叫ぶような祈りの言葉で閉じています。

それにしても、なぜ再臨は中々起きないのでしょうか。わたしたちは再臨の時を、なぜ2000年も待つことになったのでしょうか。

 

「神の日が来るのを早めよう」

招詞で、ペトロの手紙二を読んで頂きました。この第二の手紙は、なぜ再臨の時が遅れているのかという批判と向き合うために書かれています。

後の時代の人たちは次のように導かれて来ました。

もしも、羊飼いたちが出会った主イエスの誕生とその生涯、そして十字架の死と復活によって、神の救いが完成していたなら、それは神様の一方的な恵みであって、そこには現在の人間の関与など、必要のないままに終わってしまいます。

しかし神様は、最初のクリスマスの前にもなさったように、現在の人間こそが「再臨」に関わっていくことを求めておられました。そうした、現在の人間が関わり、「再臨」に備えるため、「最初のクリスマス」と「再臨の時」との間に、人間が自分の救いの完成に参与するための「中間の時」を設けられたのです。これを、「教会の時」と呼んでいます。

この、今の時は、教会の働きのために神さまが設けられた時です。わたしたちはその中間の時代、「教会の時」を生きる者なのです

招詞の終わりでは、ペトロ二3章12a節を読んで頂きました。そこに「 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。(3:12)とありました。「神の日」とは「再臨の日」の事です。

「神の日が来るのを待ち望み」というのは分かるけれど、「それを早めよう」とはどういうことでしょうか。実はそこに、わたしたち「教会の時」を生きる者の生き方が込められています。

古い聖書では、「早める」という言葉は「急ぐべきだ」と訳されていました。しかし人間が、主の再臨の時を早めたり急がせたりすることはできるのでしょうか。

 

新約聖書には、主イエスのたとえ話が沢山ありますが、その中に再臨への備えを怠おこたるなと言う例えが幾つかあります。「花婿はなむこを待つおとめたちのたとえ」や、「タラントを預けるたとえ」などがそれです。ただ待つのではなく、預けられた役目やタラントを有効に用い、準備して待ちなさいと主イエスは教えていました。

再臨の時は、そのようにして必ず来るのです。

わたしは先ほどブルームハルトの言葉を紹介しました。

その言葉の中に、「この地上で、神の国が前進すると」という言葉がありました。

「地上で、神の国が前進する」。この神の働きに、わたしたちが、そして教会が仕えていくことが期待されています。「進める」という、この生き方そのものが、神さまの求めるキリスト者の姿なのではないでしょうか。

 

わたしたちは、自分のことだけを思って、ただ待つだけの者であってはなりません。

預けられた役目やタラントを有効に用い、「地上で、神の国が前進するために」、共に歩み支えてくださる、生けるキリストと共にお仕えしましょう。

羊飼いたちは、「今日、あなたがたのために」との言葉を自分たちに投げかけられた言葉として受け止めました。この羊飼いたちに倣って、神が始められた出来事を、自分の口で人々に知らせましょう。

「地上で、神の国が前進する」ために、今、ここに生かされていると、この朝も決心し、ご一緒に告白し、信仰を持って新しく歩み出しましょう。

【祈り】