主の聖なる民である

「主の聖なる民である」   大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫                2021/11/21

聖書:イザヤ書6章1~13節(新共同訳旧約p1069)  招詞:申命記7:6(新共同訳旧約p292)

 「はじめに」

先ほどお読みいただいたイザヤ書6章3節に、次のような言葉がありました。

「彼らは互いに呼び交わし、唱となえた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

この3節で、「聖なる、聖なる、聖なる」と、三回繰り返して神に呼びかけています。ヘブライ語には最上級に当たる言葉がないので、最上級は、このように三回繰り返す形になります。

ヘブライ語の「カドーシュ」(Kdsh)ですが、日本語になりますと、「聖」という言葉になります。

日本語の「聖なる」という言葉は、人間とは遠く離れた存在を意識させ、使うことを避けてしまいますが、「カドーシュ」という言葉は大変奥おく深ぶかい意味を持っています。

「カドーシュ」は、第一に「あるものから分けられる」「分離すること」を意味しますが、同時に、「別のものに属する」という二つの意味を合わせ持っています。わたしたちが、「罪の世から分けられて、神に属する者とされる」という事を、一語で表しています。

「カドーシュ」は、もう一つ「献身する」という意味を持っています。わたしたちが「神の招きに応えて立ち上がる」ことを、「献身」と表現していますが、これも「カドーシュ」の意味の一つです。この「献身」は、牧師のように伝道献身者について使われますが、信徒の方々、お一人お一人にとりましても、同じように「献身」は、極めて意味深いことです。

わたしたちが第一に目指さなくてはならないのは、それぞれが、今立たされている所で「神の呼びかけに答えて献身する」という事です。今朝は、そのような事を念頭に、お聞きいただければ幸いです。

 「ウジヤ王が死んだ年」(742年頃)

6章のはじめに「ウジヤ王が死んだ年のことである」(6:1)と記されています。その年は、イスラエル王国が南と北に分かれてから100年ほど経ちました時期に当たります。

このウジヤ王は、南ユダの歴史の中では、ダビデ・ソロモン以降で最も安定した時代を形成した王で、人々の期待と尊敬を受けきた人物でした。列王記にはウジヤ王(元の名はアザルヤ)は「主の目に叶うことをおこなった」(列王下15:1,2)とあり、と歴代誌には「主を求めた」(歴代下26:5)と記されています。このためユダは繁栄をしていきました。

しかしウジヤ王は次第に思い上がった心を持つようになりました。ある時、神殿に上り、祭司にのみ赦されている至聖所に入り、「香をたく」という祭儀を、王自らが行ってしまいました。 そのため、神の怒りにふれ、重い病を患い、王でありながら人との接触を禁ぜられ、隔離されてその後の長い余生を送ることになりました(歴代誌下26章16節以下)。ウジヤ王(BC783-736)の在位は長く、52年に及んだと数えられていますが、その治世の大半を、王に替わって政務を行う摂政せっしょうを置いて政治を行っていました。

青年時代のイザヤは、初めに、このウジヤ王の盛んな時代に、宮廷に所属する祭司の一人として、そば近く仕えてきましたので、「ウジヤ王の死んだ年」は、祭司イザヤにとって、大きな悲しみの時となりました。

「預言者イザヤへの召命」

ある日のこと、悲しみの中、神殿で祈っているイザヤは、不思議な幻を見ました。高くあげられた王座に、神が座っておられのを見たのです。その王座を天使たちが囲み、声高く叫んでいます。

この光景は、まるで神がそこに座しておられるように、イザヤには見えたのです。(6:1)

 「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。」(6:2)

「セラフィム」という天使は「雷の光」「稲妻」と言う意味です。複数の「セラフィム」が仕え、それぞれ六つの翼を持っていたとあります。二つの翼で空中を飛び交い、二つで自分の顔を覆い、二つで、自分の足を覆っていたと書かれています。不思議な姿ですが、人々は「神を見たものは死ぬ」と教えられていて、天使でさえ、神を見ないように自分の顔を覆っていたのです。

 「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。」(6:3)

これは、神様を讃える天使の歌声です。それは神殿が揺れ動くほどの響きでした。

イザヤは初めて見る荘厳な有様にすっかり心を奪われ、恐れでいっぱいにになり、このように祈りました。

 「自分は、尊い神さまの前に立っていられるような者ではない。わたしは神殿に仕えながら、神様の思いを人々に伝える役目を果たせないでいる。神に背いて来たイスラエルの国は二つに分かれ、なお、未だに神に背き続けている。わたしはなんと不幸な罪びとなのだろう。」と祈ったのです。

 イザヤは祭司の務めを担いながら、人々を神につなげる役目を果たせないままでいる自分を責めています。すると、天使の一人が、祭壇から、燃える炭火を持ってきて、イザヤの口に触れながら言いました。

「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎とがは取り去られ、罪は赦された。」(6:7)

 このようにして、イザヤが幻のなかで清くされたとき、神さまの声がしました。

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(6:8)

イザヤは、すぐ答えました。

わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(6:8)

神さまのためなら、どんなことでもしたい。これがイザヤの心からの願いでした。こうしてイザヤは神さまのお言葉を伝える預言者とされました。

 「イザヤの派遣」

しかし、最初につかわされた働きは、イザヤの思いもよらないことでした。

6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」

預言者となったイザヤが、この民に最初に発する言葉は、「この民が理解するな。悟るな。この民の心をかたくなにせよ。この民の耳を鈍く、目を暗くせよ。」と言う言葉なのです。

「この民は救われないで滅びる」。「それはいつまでなのか」。「なぜそのような言葉を告げなくてはならないのか」。このことに疑問を持ったイザヤは、一つの問いを、神様に投げかけます。

わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか」(6:11)。

 イザヤは、自分だけが清められて終わるのではなく、ユダの人々が悔い改め、救われることを願っていました。共に清められ、「主の聖なる民」となることを願っていました。

この、神さまの怒りの背景には、後継のアハズ王が、日ごろから、人の作った像を拝み、人々を苦しめる政治をしていたことがあります。更には、丁度そのころ、近隣諸国が同盟を結び、エルサレムを攻めてくるという情報が入ってきました。アハズ王の人々も恐怖に陥り、冷静さを失っていました。

主なる神はこの時、アハズ王に対して、イザヤを通してこう告げさせていました。

「アハズ王のもとに行きこう告げよ。心を落ち着けて、静かにするように。恐れてはいけない。そうすれば敵の計略は砕けてしまうだろう。」

しかしアハズ王は、イザヤが告げた神さまの言葉を信じようとせず、軍隊を整え、立ち向かうための策略に力を注ぎました。そのために神は、滅びの言葉を告げるようにイザヤに命じたのです。

 「主は人を遠くへ移される」

 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか」(6:11)。

主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」(6:11)

主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。」(6:12)

 「主よ、なぜですか、いつまでですか」と、苦しんで問うイザヤへの、神の答えは変わることがありません。「町々が崩れ去り、人影がなくなるまで」という冷酷な答えでした。

12節の「主は人を遠くへ移される。」とは言うまでもなく、二百年後のバビロン捕囚であり、「国の中央にすら見捨てられたところが多くなる」とは、その五百年以上後のエルサレム陥落です。キリスト以後のことです。

これは、今のイザヤにとって、気の遠くなるような、遥か先のことでした。

しかしどうでしょうか、「この民」が遠くに移され、「この民」が亡びることがあっても、それは「主によってなされる」という事なのです。「主は人を遠くへ移されるのです」

イザヤは次第に、これは、主によって遠くに運ばれることであり、主によって滅ぼされることなのだ。一世代では終わらないと、導かれていきました。

 「神が成し遂げてくださる」

王に直接仕える、高い地位にあった預言者イザヤの生涯ですが、結果としては、悲しみと苦しみの連続でしかありませんでした。

現代のわたしたちの周囲にも、心配なこと、悲観的なことが溢れています。わたしたちは、その解決の糸口をどこに求めたらよいのでしょうか。

 最近になって[SDGs]という言葉を耳にすることが多くなりました。「Sustainable Development Goals・持続可能な開発目標」の略称ですが、貧困と平等の問題、水やエネルギーの問題、つくること、つかうこと、気候変動など17の項目が掲げられて議論し、取り組むことを国連が促しています。この危機的で悲観的な状況を生み出したのは、自分の世代の責任でありますが、自分の世代一代で解決できることではありません。それだからと言って無視するなら、大きな罪を犯して後世に不安だけを残していくことになります。イザヤ書6章を読み、学びながらそのような思いに導かれています。

 イザヤは祈りの内に、次第に「主によって」という答えに導かれ、13節の言葉にこれをしたためました。

6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子しゅしである。

6章13節は、イザヤの「残りの者」の思想の根拠とされています。

「なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。」。それほど徹底的に「主によって」樹木が焼き尽くされるように失われるのです。

「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子しゅしである。」

そこに切り株が残る。それは聖なる種子である。神はその切り株の命を決して見捨てることは無いと、イザヤは確信しています。

たとえイザヤ自身の生涯の中で、その復興を見ることがなくとも、続く主なる神の働きの中に、その結論を委ねていこうという、イザヤの、諦めない信仰をここに見ることが出来ます。

聖なる種子は尽きていない。残ると言っています。神様はその小さくなった命を捨てることは無いと言っています。その種子は、主イエス・キリストの誕生となって実現しました。バビロン捕囚から更に、五百年以上後のことでした。これは、わたしたちにとっても、大きな慰めであり励ましの言葉です。

 「主の聖なる民である」

招詞では、申命記7章のみ言葉を読んで頂きました。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記7:6)。

わたしたちは、神様がそのようにまで言ってくださる「神の者」とされているのです。

使徒パウロも、自分を紹介するときに「キリスト・イエスの囚人しゅうじん」(フィレモン:1,9)とさえ言っています。繰り返し「わたしたちは、キリストに捕らえられ、キリストの者とされている」と言っています。

わたしたちを取り巻く多くの事が、悲観的な思いに満ちています。解決の糸口をつかむことが出来ない事態にも遭遇しています。

そうした時にこそ、神の民とされ、キリストに捕らえられた者として、神のなさる業に用いられていきましょう。自分の判断に結論を求めるのではなく、イザヤの信仰に導かれ、神の業に期待し、今の時を真剣に生きましょう。

 【祈り】