主は降ってきて バベルの塔の物語から

宣教『主は降(くだ)ってきて バベルの塔の物語から       副牧師石垣茂夫   2017/9/17

聖書 創世記1031~119(旧約聖書p13)

招詞 ヨハネによる福音書114

8月の教会学校で、この「バベルの塔」の箇所を読みましたときには、「世界中の言葉が同じであったなら、どんなに便利だろう」と互いに思いました。同時に、「言葉が同じなのになぜ、よく話し合えないのか」と、そのような思いにもなりました。

今朝は、「バベルの塔の物語」に示されています、そうした問題を通して、聖書の言葉に導かれたいと思います。敢えて10章の終わりから読んでいただきました。

10:31 これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。

洪水から救われたノアには、三人の息子・ハム、セム、ヤフェトと、その家族がありました。10章には、それぞれの家族が祝福を受けて数を増し、互いに別々の地域で、三つの民族を形成していったことが記されています。

それぞれの子孫については、異なる言語で、異なる地域に住んだのです。これは、神が計画されたことでした。神の意思によって、東に散らされていたセム一族が、何らかの事情で安住の地を求めて西に移住してきました。彼らが安住の地だと定めたのがシンアル(バビロン)でした。彼らがそこに町を作ったとき、シンボルとなる塔の建設を始めました。一人の権力者、一つの宗教、一つの言葉。これは外国を占領した国が用いる手法に他なりません。はじめは、注目を権力者に集中させるための塔でしたが、最上階に神殿を作り、宗教的中心にさえしました。共通の言葉を持った人々は、安住の地を見つけ、進歩した技術を手に入れました。技術の進歩によって、一層生活は快適になり、安定していきました。

すると人々は、これからは神なしでいい、自分たちでやって行けると、自信を深めたようです。問題は、人びとが自信を深めることによって、次第に神から離れていったというところにあります。

11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

4節は『バベルの塔』建設の目的が書かれています。そこには大きな問題が生じていました。「天」とは、神のことです。「天まで届く」とは、「神を、手の届くところに置いておこう、神さえも自分たちの意のままにしよう」という思いを持ったことです。

「有名になろう」という言葉があります。自分たちが主役になろう、神は脇役でいいということです。人々の、最終の目的は「散らされることがないようにしよう」ということでした。

「11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。」 考古学者は、アブラハムの故郷ウルに、ジグラト(Ziggurat)と呼ばれる遺跡を発見し、これがバベルの塔の遺跡ではないかと判断しました。これを調査していた考古学者たちによりますと、その調査のときに、あることに気付いたということです。

確かに、町の中心を作った。そこの頂きには神殿が作られていた。ところが、町の人々が神を礼拝していたという痕跡は、どうも見当たらないというのです。どのように調査したのかわかりません。神殿は形ばかりであった。人びとが礼拝していたという痕跡は見出せなかったというのです。

神は、人びとの生活ぶりを見ておられます。そして、神ご自身の方から人に近付いて来られ、わたしたちをご自分の計画の中に導こうとなさるお方だということを共に覚えたいと思います。東の方の民は、「ノアとその子孫が、全地に広がり満ち溢れていく」という神の約束、神の祝福の業に期待していなかったと思えます。その祝福を与えてくださる造り主を信頼出来なかったと思えるのです

今の私たちも、言葉が同じであっても、話し合えないことを経験します。心が一つになれないことに苦しんでいるのです。果たして神は、こうした、言葉の混乱したなかに、再び「降って来て」くださるのでしょうか。

招詞で「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、読んでいただきました。

ヨハネは、「主はわたしたちの間に宿られた」と言いました。「宿られた」とは「住んでくださった」という意味です。一時的に宿泊されたかのような言葉ですが、「住んでくださる」のです。しかもこの言葉は、礼拝される者として、永遠に住んでくださるという場合にのみ使われる言葉です(黙示録21:3)。

出エジプトの時、人びとは移動式の天幕を準備して旅を続けました。移動する度に宿営地を定め、そこには最初に神の住まいである「幕屋」を設営したのです。神は遠く天におられるのではなく、荒れ野の旅にずっと、一緒に、すぐ近くに住んで、旅をしてくださいました。そのように「宿る」という言葉は、神殿である「幕屋に宿る」という時にしか使われない言葉だということです。礼拝されるお方として共に住んでくださるという意味の言葉です。この混乱した、罪の世界に、神は人の子となって、再び天から降って来られたのです。

「キリストは、人となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネは言いました(ヨハネ1:14)。ヨハネはわたしたちに、「常に、神の幕屋を作って、礼拝者としてこの世の旅路を歩みなさい」と、伝えようとしたのではないでしょうか。

この一週も、「わたしたちの間に、神として住んでくださるキリスト」を仰ぎながら、礼拝する者として、共に歩んで参りましょう。