主を仰ぎ見て 共につながり 共に歩もう

「主を仰ぎ見て 共につながり 共に歩もう」 五月第一主日礼拝 宣教要旨 2017年5月7日

  ヘブライ人への手紙12章1b〜2a節       牧師 河野信一郎

 今回の宣教主題は2017年度の年間標語、聖句は年間聖句です。実は、この年間聖句と標語を祈り求め、聖書をむさぼるように読んでいた期間、たくさんの苦しみがわたしの中にありました。教会の兄弟姉妹の中にも、様々な大変な出来事を経験されている方々がおられ、その全てのことを覚えて祈る中で、心が大きく、そして繰り返し揺さぶられ、信仰が試されているような経験を何度もしていました。そのような中で、わたしに出来ることは、主を見上げ、主に助けを求め、主に信頼して、主のお導きに従うだけでした。そして、そのようにした判断は間違っていませんでした。神と主イエスとご聖霊は、本当に素晴らしい神です。主はこの者を助け、励まし、最善を備えてくださいました。わたしの祈り、そして一緒に祈ってくださった方々の祈りに主は応えてくださいました。この主を大久保教会の兄弟姉妹たちと共に見上げ、共に主につながり続け、これからも共に歩み続けよう。互いに愛し合い、祈り合い、支え合い、励まし合い、労り合い、仕え合い、共に歩みたい。そのような強い感謝と感動の思いの中で、今年度の聖句と標語を執事会に提案し、総会で承認されました。

 このヘブライ人への手紙は、厳しい迫害や困難のうちに置かれ、最初のうちは試練に立ち向かって闘っていたクリスチャンたちが、長引く霊的戦いの中で霊的に弱くなり、日々の戦いに耐えられなくなり、キリストを信じる信仰を捨てたり、ユダヤ教に逆戻りしようとした、信仰の危機に瀕していた兄弟姉妹たちを励まし、キリスト・イエスにとどまらせるために書き送られました。

 私たちも、苦しみ悶える時、辛い時、どこかへ逃げ出したいと思う時が実際にあります。過去に、現在にあり、そしてそのような中を今後歩まされるでしょう。人生には、避けては通れない数々の問題、課題が繰り返し生じます。

 問題は、文字通り、私たち一人ひとりが問われていることです。私たちの誠実さ、やる気、本気などが問われ、強いて言えば、私たちの信仰が、どれだけ神に信頼しているかが問われます。課題というのも、一人ひとりに課せられている事柄で、誰か他人に任せることのできない、自分で向き合うべき事柄です。問題は、いま問われていることなので、いま取組まなければなりません。課題は、今後向き合って処理して行かなければならないチャレンジです。どちらも蔑ろにしたり、先送りできないことで、真剣に向き合い、取組まなければなりません。

 もし目の前にある問題や課題を面倒くさいと思って先送りしようとする時、私たちは身勝手になり、不誠実になり、その場を取り繕おうとして、嘘をついたり、真実を隠したり、他人に無理矢理に責任を押し付けてしまうことが起こります。周囲の人に負担をかけ、傷つけ、苦しめてしまうという「罪」を犯すのです。残念ながら、そういう弱さを持つのが、私たちの多くです。

 私たちには、それぞれが負わなければならない社会的責任、働き、使命があり、それを「重荷」と呼ぶ人もいます。子育て、勉強、仕事、介護など、生きてゆくためには、私たちが負わなければならないことであって、第三者に代わってもらってはいけない事柄です。

 時に、私たちは誰かの身勝手さから、重荷を負わされることがあり、大きなストレスを感じます。また、突然の事故や病気で負わされる重荷もあります。重荷がない人は誰一人いないと思います。それぞれが、悩み、痛み、悲しみがあると思います。もしなければ、その人は幸いな人です。しかし、その幸いのために、誰かが働き、時に苦しんだり、犠牲になっているかもしれません。その場合のほうが確率的に大きいでしょう。私たちの幸いは、誰かの働き、犠牲の上にある訳で、それを省みないことは傲慢さの表れだと思います。

 さて、私たちは社会的責任だけでなく、創造主なる神に対して、救い主イエスに対する責任、使命があることを覚えたいと思います。主イエスを通し、神に愛され、恵みを日々受けて生かされている、その恵みに応えて生きる使命があり、それは強制されることではなく、信仰から、自発的になされてゆくべき喜びと感謝の表れです。神を愛し、隣人を愛し、兄弟姉妹たちと互いに愛し合って生きる。神が主イエスを通して成してくださった愛の業を宣べ伝えてゆく。神を誉め讃え、神にすべての栄光をお帰ししてゆく。主イエスにつながり続け、神に喜ばれる実を結んでゆくこと。負わなければならない重荷がたとえ大きく重く、辛いものであっても、自分の中に多くの弱さがあっても、主なる神を信じ続けて生きてゆく。それが、「自分に定められている競走」です。

 この「競走」は、短距離走ではなく、マラソンのような長距離走です。この地上で命が与えられている限りに走るべきものです。この人生の、信仰のマラソンを忍耐強く共に走り抜きましょう。たとえ苦しみや試練がのしかかって来ても、信仰と忍耐と希望をもって走り抜きましょうと励ましを与えています。

 しかし、走る道のり、進路、行程が不明確であれば、私たちは不安になり、自信を失い、やる気がなくなったりしてしまいます。ですから、この手紙を記した人は、「信仰の創始者、また完成者である主イエスを見つめながら、共に走りましょう」と励ますのです。

 この「見つめながら」という言葉は、私たちの視線を「固定し、外さない」という意味のある言葉です。周囲の弊害や誘惑を見て怖じ惑うことがないように、主イエスだけを見つめ、走るべき競走の行程を信仰をもって走る。その主イエスの導きの先には、永遠の命と祝福が準備されていて、そこへと主イエスが守り導いてくださる。だから、大丈夫。主イエスを信じなさいと励まされています。

 ヘブライ11章では、信仰の先駆者と呼ばれる旧約時代の人々が登場しますが、12章では神の御子イエス・キリストが信仰の創始者であり完成者であると記されています。この「信仰の創始者」というのは2章にある「救いの創始者」ということでもあり、つまり主イエスが救いへの道を開いてくださり、示して下さった方であるということです。また、「創始者」は「優勝者、チャンピオン」という意味があり、サタンと罪と死に勝利された方が主イエスであるということを示しています。この主イエスが私たちと共に歩んで、神の御もとへと導いてくださる。この救い主は、2節の後半にあるように、「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで、十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになられた」お方ですと言っています。

 私たちが主イエスを見つめるように促されているのは、主イエスが私たちを救うために、私たちの身代わりとなって、私たちが負うべき重荷を負ってくださり、十字架上で死んで下さり、私たちと共に生きるために、私たちより先に重荷を負って歩んでくださったからです。そして、このお方が私たちに信仰を与え、信仰を守り、信仰がなくならないように祈り、神の御もとへと導いてくださり、救いを完成してくださる絶対的勝利者であるから。それまで絶対に私たちを見捨てたりしないから。だから、私たちは大丈夫なのです。主イエスが大丈夫にしてくださるのです。恐れたり、不安なる必要がないのです。ただ、主イエスを信じて従ってゆけば良いのです。暗闇の中を歩むことが今後あったとして、今そのような中にあっても、共に主イエスを見上げ、主と共に歩み、また主にある兄弟姉妹たちと共に歩みましょう。