主を待ち焦がれよ

「主を待ち焦がれよ」 十二月第二主日礼拝 宣教 2022年12月11日

 詩編 37編1〜9節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も、神様の恵みによって礼拝者とされている事を神様に感謝し、皆さんと賛美と礼拝をおささげできて嬉しいです。だいぶ寒くなってまいりましたが、皆さんが神様の愛の中で日々守られ、歩まれておられると信じ、恵みの神様に感謝いたします。

 

今年もあと2週間でクリスマスを迎えますが、クリスマスイブ礼拝は24日の17時から、翌日の25日はクリスマス礼拝が11時から、クリスマス夕礼拝を17時からおささげします。25日は2022年の最後の主日ですから、救い主イエス・キリストを通して神様から日々受けている数えきれないほどの恵み、祝福を喜び、感謝の礼拝を共におささげいたしましょう。

 

さて、宣教に入る前に、皆さんに一つお願いがあります。昨年に引き続き、今年の「漢字」を募集します。残り少ない2022年を振り返る中で、ご自分の一年の歩みを表す漢字を一つ選んで、コメントを添えてお知らせください。昨年も大勢の方がご自分の漢字を紹介してくださり、多くの恵みを受けました。ご苦労や苦悩のあった方、大切な人とお別れした方は、必ずしも心が躍るような漢字ではないでしょう。ある方は、実に形容しがたい一年を過ごされたかも知れません。その反対に、感動的な恵みが色々あった年であったかも知れません。

 

25日まで応募をお待ちしておりますので、あなたの今年の漢字をお伝えくださり、神様の真実さ、神様の愛の深さ、神様のご計画の素晴らしさを分かち合ってください。専用カードを用意しましたが、メールでお知らせくださっても結構です。このリクエストは、大久保教会の会員限定ではなく、この礼拝堂で、オンラインで礼拝に参加されている方々、宣教原稿をいつも読んでくださる方々、海外から出席くださっている方々もすべて歓迎しています。

 

水曜日の朝と夕べの祈祷会に出席されている2名の方がすぐにお伝えくださいました。お一人は、「労」という漢字を選ばれました。その方は、私に「この一年もたくさん労働し、苦労もたくさんありました。けれども、水曜日の祈祷会で毎回『労り』を受け、感謝でした」と伝えてくださいました。涙が出るほど、嬉しかったです。もう一人のお方も「嵐」という漢字を選ばれ、コメントに「この一年は嵐の連続で心が不安や恐れなどのゴミで散らかったけれども、祈祷会に出席しておられる皆さんが一緒にゴミ拾いを手伝ってくださった」という趣旨の分かち合いを送ってくださって、心が感謝と喜びで、本当に温かくなりました。

 

わたしも今のところ三つ候補がありますが、その中から最初に外れると思う漢字は「鳩」です。残念ながら、他の場所に移動してしまいましたが、この2022年の前半、教会のみかんの木に巣作りを試みたキジバトのつがいからたくさんの事を教わりました。鳩は平和のシンボルと言われますが、キジバトの鳴き声は苦しい時のわたしに平安を与え、その弛まぬ努力から忍耐とは何かを教えてくれました。神様が遣わしてくださったのだと感謝しています。

 

皆さんにも何か思いつく漢字が一つ、二つあると思います。どうぞお分かち合いください。その分かち合いが誰かを慰めたり、励ますために用いられます。この一年を振り返りながら、祈りながら、ご自分の心を少し探ってみてください。

 

さて、このようなことを考えることは、非常に無神経で、無責任かも知れませんが、ウクライナやミャンマーや世界各地でその存在を小さくされている方々が自分の今年の漢字を選ぶとしたら、たぶん悲しみや痛みや怒りに満ちた一文字になることでしょう。ロシアの軍事侵攻によって、ミャンマーのクーデターによって、数えきれない人々の命が失われ、その悲しみに打ちひしがれる方々の数はその何倍にもなるはずです。そういう中で、今年のクリスマスを迎える準備が果たしてできるでしょうか。わたしたちにできることは何でしょうか。

 

日本にも、どれだけ多くの人々が社会から排除され、小さくされ、痛み、かぼそい叫び声がかき消され、わたしたちの無関心さに失望し、闇の中をもがき苦しんでおられるでしょうか。そういう中で、どれだけの人々が今年のクリスマスを迎える準備ができるでしょうか。人の努力や思いの強さだけでは不可能でしょう。しかし、今年も、絶えず、神様の愛がすべての人々に差し出されていて、受けなさいと招かれています。

 

神様によって旧約聖書の時代からずっと約束されてきた救い主の誕生が、新約の時代に、御使いたちによって宣言され、天の軍勢によって高らかに賛美され、この救い主のところに行ってみなさいとすべての人、民が招かれています。神様の愛を、イエス・キリストという神の御子を通して受け取りなさいと声をかけられています。教会の働き、わたしたちの働きは、この良き知らせを携えて出て行って、イエス・キリストという光を必要な人々に出会ってゆき、イエス様の存在を伝えること、今年のクリスマスにお招きすることです。

 

お話しが前後しますが、今朝のメッセージは、「主を待ち焦がれよ」という主題です。「待つ」ということがテーマになります。待つとは、主イエス様を待つということであり、神様の救いの御業をひたすら待つ、静まって待つということです。しかし、わたしたちは、全般的に、「待つ」ということに困難さを覚えると思います。待つ事が不得意な人がほとんどだと思います。皆さんの中に、待つことが得意な方はどれだけおられるでしょうか。もし得意な方がいらしたら、その秘訣をぜひお聞きしたいです。しかし、くどいようですが、ほとんどの人は待つことは難しいと思います。わたしがその筆頭です。

 

では、なぜ待つことは難しいのでしょうか。いったい何が待つことを困難にしているのでしょうか。その理由、原因はすべてわたしたちの心の中にあります。今朝は、手短にいくつかを紹介したいと思いますが、ランダムに紹介しますので、そのいずれかが皆さんに当てはまるかも知れません。待つことを難しくしているは、待つことは時間の無駄と思い、非効率なことを嫌うからです。絶えず何かをしなければ、前進しなければと自分を急かしてしまう。その反対に、まだやり残したこと、解決していないことがあって、だから前進できない、もっと時間が欲しい、現在にもっと留まっていたいと考えることがあります。

 

なぜ前に進むことを躊躇するのか。なぜ今に留まり続けたいのか。理由は無数にあるでしょう。しかし、基本は恐れです。変化を恐れている、これ以上傷つくことを恐れている、手放すことや失うことを恐れている、そういうことがあるでしょう。その反対に、いま在るところからとにかく逃げたい、苦しみをすべて捨ててしまいたいという思いがあり、待てないということもあります。文化的に待つことが当たり前の社会もあれば、待つことが当たり前でない日本のような国もあります。とにかく、何が原因なのか、それはわたしたちの心を支配する「恐れ」です。今に満足している人は変わることを恐れ、変化や解放を願う人は変わらないことに恐れを抱く。恐れが強ければ強いほど、待つことが難しくなるわけです。

 

この世の中で、最も幸いな人、それはお金や地位、健康や保証がある人ではなくて、「恐れ」がない人と言えるでしょう。恐れがないので、人に寛容になれますし、人の成すことに苛立つこともありませんし、どんなことでも忍耐し、待つこともできるでしょう。では、恐れから解放されるためには、どのような心構えがわたしたちに必要でしょうか。アドベントの季節とはあまりマッチしないかも知れませんが、詩編37編の1節から9節が語るべき言葉と示されましたので、今朝はここから神様の語りかけを共に聴いてゆきたいと思います。

 

この詩編37編には、「ダビデの詩」という言葉が添えられており、ダビデ王の格言集としてユダヤ人に親しまれている詩編です。25節にダビデが「若い時も、老いた今も」と言っていますので、歳を重ねて人生経験豊富なダビデが、神様との長く親しい交わりの中で経験した神様の真実さ、信仰を持ち続けることの大切さを教えようとしたことが読み取れます。

 

さて、この詩編37編の主題は、「なぜ悪事を行う者が栄えるのか」というこの世の謎です。悪事を謀る者たち、不正を行う者たち、悪事や不正を隠蔽する者たち、そのために平気で人々を利用し、見殺しにする人たちがなぜ生きながらえるのかと腹立たしく思ったことはないでしょうか。国内外のリーダーと呼ばれる傲慢な人々や政治家の振る舞いを見たり聞いたりする中で、毎日、苛立ったり、怒ったり、自分の価値観で裁いているのではないでしょうか。その反対に、この世の地位や権力、富や名声をうらやむ人たちもいます。なぜ悪事を平気で行い、自国民や他国民を裏切り続ける者たちが栄え、いつも正直に、誠実に、懸命に生きようとして働いている人々が苦しむのか。わたしたちのストレス、フラストレーションの原因の大部分がそこにあります。明らかに不平等なのです。明らかに間違っているのです。しかし、声を上げる者は検挙され、暴力によって鎮圧され、そういうことを恐れる者たち、わたしは、安全な所に身を置きながら、隠しながら、わめき散らしているだけなのです。

 

山あり谷ありの長い人生、紆余曲折の人生を送り、最高な時も最悪などん底も経験してきた老人ダビデを通して、主なる神様は、恐れや不安や怒りを抱くわたしたちに大切なことを教えてくださいます。第一のことが1節と2節にあります。「悪事を謀る者のことでいら立つな。 不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。 青草のようにすぐにしおれる」とあります。わたしたちが常に目と耳と心を向ける所は悪をなす人々ではない、儚く散る人々に心も時間も力も用いるな、そんな無駄なことはやめなさいということです。

 

そのようなことに時間や力や心を用いることをやめ、人やその行いに目を注ぐことはやめて、神様に心を向け、主に信頼しなさいというアドバイスがあります。もっと大切なことは、悪事や不正を行う者たちから虐げられ、苦しめられている人々は、救いを神に求めなさいということです。自分の力だけで悪や不正に立ち向かうなということです。

 

3節から5節前半に、「主に信頼し、善を行え。 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。 信頼せよ」とあります。これは、わたしたちが頂いている使命を守り、持ち場を離れず、主に信頼し続けて生きなさいという勧めです。しかし、勧めとして聞くのではなく、主のご命令として聞き従うことが恐れから解放される道です。つまり、主イエス様の言葉に聞き従うことによって、恐れや怒りから解放されるのです。救い主イエス様が真の解放者なのです。

 

主イエス・キリストを信じ、従う人、信仰を糧とする人を神様は顧みてくださいます。取り計らってくださいます。世の光である主イエス様を通して、神様は何をしてくださるか、6節にあります。すなわち、「あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを 真昼の光のように輝かせてくださる」ということです。神様が闇の中にある悪をその神の正義と公平さと力で裁き、苦しむ者たちを、わたしたちを光の中においてくださるのです。

 

憐れみの神は、わたしたちを闇から救い出し、罪と死の恐れから解放するために御子を救い主としてこの地上にお遣わしくださいました。神様の愛によってこの地上に光がもたらされ、約束と希望が与えられました。その恵みに応答してなすべき事柄が7節と8節に記されています。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」とあります。主なる神様に心を向け、まず沈黙すること、そして神様の救いの時に備えて待機することの重要さが記されています。神様の御心は主イエス・キリストにあって、真の平安に生きることです。怒りや憤りや妬みの中を生きることではありません。

 

9節に「主に望みをおく人は、地を継ぐ」とあります。この「地を継ぐ」という言葉は、他に11節、22節、29節、34節にもあります。特に34節では「主は地を継がせてくださる」とあります。神様とイエス様を信じる者、主に信頼する者は、神様の愛と憐れみの力によって、恐れや不安から解放され、光の中に入れられ、平安が与えられると確約されています。この約束を信じ、主に望みを置く者に、神の時と御業を待ち焦がれる信仰が与えられます。アーメン。感謝です。主のみ名を崇めます。