主イエスが復活された朝

「主イエスが復活された朝」 イースター礼拝 宣教要旨 2014年4月20日

ヨハネによる福音書20章1〜18節      牧師 河野信一郎

 主イエスのご復活をお祝いする日に、3人の若者がバプテスマを受けて教会の家族として加えられたことは、大いに嬉しく感謝なことです。しかし、クリスチャンとそうでない人たちに違いがあるとしたら、それは一体何でしょうか?クリスチャンでない人でも素晴らしい人格の方が大勢おられます。街を歩けば、誰がクリスチャンでそうでないかなど、区別はつきません。クリスチャンでない人も、クリスマスをお祝いし、最近では「イースター」という言葉を見かけます。世界中のほとんどの人たちが、イエス・キリストは実在した人物だと認めていますが、でも信じない人もたくさんおられます。そういう中で、クリスチャンは何が違うのでしょう?

 今回の宣教のキーワードは「見る」という言葉です。ヨハネ福音書18章から20章には、この「見る」という言葉が多く用いられています。ぜひ数えてみてください。イエスを殺そうと図った大祭司や捕らえた兵士たち、イエスの女性の弟子たちも主イエスが十字架に架けられ、死んで、墓に埋葬されるまでの一部始終を見て、目に焼き付けていたのです。イエスの死を喜ぶ人たちと痛み悲しむ人たちがいます。イエスの十字架を見た人々は、イエスの死を見、そして主を愛した人たちは絶望したのです。けれども、キリストの父なる神は素晴らしいお方です。キリスト・イエスを甦らせられました。それは、わたしたちに永遠の生命を与えるためです。

 20章1節に「マグダラのマリヤが墓に行くと、墓の大きな石が取り除けてあるのを見た」とあります。主イエスの死に深く傷つき、悲しみ、希望を失っていた彼女に追い打ちをかけるかのように、イエスの亡がらがないことを見るのです。彼女は混乱し、シモン・ペテロたちのもとへ行って、「誰かが主を墓から取り去った」と叫びます。ペテロたちは急いで墓に向かい、本当に主イエスの亡がらがないのを見ます。8節に「これを見て信じた」とありますが、これは「歴史上のイエス・キリストがいない」という事実を見て信じたということです。

 ペテロらは失望して彼らの家に帰りますが、マリヤは墓の外で泣いていたとあります。けれども、そのような彼女に想像もしなかったことが次に起こります。「のぞく・見る」という言葉に注意して11節から13節を読んでみてください。そして14節、後ろを振り向くと復活された主イエスが立っておられたのですが、マリヤは主だと気付きません。どうしてでしょうか?それは、主イエスを失い、亡がらを失ったという悲しみのほうが大きかったからです。

 しかし、そのようなマリヤに復活された主イエスは「マリヤよ」と彼女の名を呼ばれます。そして、自分の名を呼ばれて初めてマリヤは復活された主イエスを見ます。そして主イエスの復活を信じます。クリスチャンとは、自分の名を主イエスに呼ばれたことを聞いて、主イエスを信じて喜ぶ人です。復活された主イエスを信仰の目で見て、信じ、感動する人です。クリスチャンとは、復活された主イエスに出会って、この救い主に聴き従ってゆくことを幸いと喜ぶ人です。主イエスは、マリヤの名を呼びました。主は、今回バプテスマを受けた3人の名を呼ばれ、彼らはそれぞれにイエス・キリストに出会い、信じ、従う決心をしました。感謝!

 主イエスは、あなたの名前をいま呼んでおられます。主は、全世界の人々の名を呼んでおられます。それは、すべての人に永遠の生命を与えたいからです。ご自分の永遠の生命をあなたに、わたしたちに与えたいと願われたので、神はキリストを地上に遣わし、キリストは自らの死をもって贖い与え、死人から永遠に生きる者の初穂として神はキリストを甦らせました。ここに神のわたしたちに対する豊かな愛と赦しが、真の愛があります。信じて、従いましょう。