主イエスのように互いに愛し合う

「主イエスのように互いに愛し合う」  六月第一主日礼拝 宣教要旨  2016年6月5日

ヨハネによる福音書 15章12〜13節       牧師 河野信一郎

イエス・キリストに最初に召された弟子たちは、これかもずっと主と共に生活し、素晴らしい教えを聞き、大きな感動の中を生きてゆけるものと考えていましたが、神のご計画はそうではなく、主イエス御自身もこれから十字架に付けられて死を迎えること、弟子たちから離れなければならないことを知っておられました。ですから、12章から16章までに記されていることを主は語られ、弟子たちの信仰がなくならないように17章で祈られ、18章以降では自分を捨てて逃去る弟子たちや十字架に付ける者たちを赦してゆかれます。

主イエスは、わたしたち全ての人を救い、主にある喜びで満たすために14章1節から15章10節までで大切なことを語られます。まず、「心を騒がせてはいけない。神を信じ、わたしをも信じなさい」と励まし、主イエスを信じる者たちに神の霊・聖霊を与えられることを約束されます。14章27節では、「わたしの平和を与えるから心を騒がせるな。怯えるな。わたしは去ってゆくが、またあなたがたの所で戻ってくる」と約束されます。15章1節から10節では、ぶどうの木とその枝のたとえを用いて、主イエスにつながり続けることの重要性を語り、必要なものがあれば主イエスを通して神に祈りなさいと励ましてくださいます。

さて、15章12節には、主イエスを信じる者が結ぶべき実は「愛し合う」ことだとくり返されています。13章34・35節に「新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。それによってあなたがたがわたしの弟子であることを人々が知るようになる」と主イエスはお命じになりました。「人々が知るようになる事」とは、つまり、イエス・キリストを通して神から注がれる愛は本物であること、そして全ての人にこの神の愛が必要であることが分かるようになるという意味です。そうなると人々は神の愛を求めるようになり、受けるようになり、そして神の愛によって新しい人へと変えられてゆき、互いに愛し合うことによって、神の平和がこの地に起こされてゆくのです。

この地に真の平和をもたらすために神はイエス・キリストをこの世に遣わされ、福音を宣べ伝えさせ、わたしたちの罪を贖い、救うために十字架につけられました。そしてこの主を死に勝利させ、甦らせてわたしたちに永遠の命への希望とその道を与えてくださいました。この主イエスを信じる者たちが教会となり、互いに愛し合う中で変革が起り、平和が生み出されてゆく。各自が主イエスにつながり、キリストに愛されたように隣人を、友を、兄弟姉妹を愛してゆくことによって、この地に真の平和が起こされてゆくのです。この平和は、神の御子の命と引き換えに与えられていることを覚え、互いに命を大切に生きてゆきましょう。

13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主イエスの言葉がありますが、「平和のために、友のために自分の命をささげなさい」と言っているのでは決してありません。ここでは、わたしたちに対する神の愛が本物であり、純粋な愛であること、見せかけの愛やギブアンドテイクの愛ではなく、純粋な愛をもって、誠実さをもって互いを愛してゆくことの大切さを主イエスは言っておられるのです。

今回、もう一つ覚えたいことは、主イエスにあってわたしたちの死は無駄ではなく、また決して終わりではないということ、つまり十字架に架けられて死なれた主イエスが死の淵より引き上げられ、甦られたように、わたしたちの愛も空しく終わるのではなく、主が引き上げて下さって、死をも必ず用いられるという復活の信仰が与えられてことです。主から与えられた愛をもって愛し合い、仕え合ってゆく時、その働きは決して無駄にはならないということです。主には忠実に、人には誠実に生きてゆくとき、その愛は必ず主の御用のため、主のご栄光のために用いられます。主が必ず用いてくださいます。

最後に、どのようにわたしたちが互いに愛し合うことが神の、そして主イエスの御旨なのかを主イエスの心の持ち方、生き方から学びたいと思いますが、少なくとも4つあります。

まず、主イエスがそのままのわたしたちを受け入れてくださったように、わたしたちも互いを受け入れ合って生きるということです。お互いの良いところだけを受け入れるのではなく、お互いの違いや弱さをも主に励まされつつ受け入れてゆくことです。

二つ目は一つ目と似ていますが、主イエスがわたしたちを赦してくださったように、わたしたちも互いの欠けや弱さを許し合ってゆくことが愛し合うために必要です。

三つ目は、主イエスがわたしたちのために神に祈ってくださったように、わたしたちも互いのために祈るということです。祈りは、神の助けを求めることであり、主の執り成しを求めることです。祈り合うことを通してお互いを覚え、気遣い合う時、わたしたちは主から与えられる愛と忍耐と祈りによって紡がれ、固く結ばれてゆきます。

四つ目は、主が最後の最後まで神に忠実に仕え、わたしたちに愛をもって仕えてくださったように、わたしたちも互いに仕え合うということ。思いや言葉だけでは空しいばかりです。主はわたしたちが行いをもって誠実に生き、愛し合っていきることを求めておられます。

最後にヨハネによる第一の手紙3章16節から18節を読んで終わります。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟姉妹のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟姉妹が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」