主イエスの祈り③

「主イエスの祈り③信徒たち・教会のために」四月第一主日礼拝 宣教要旨2014年4月6日

ヨハネによる福音書17章20〜26節      牧師 河野信一郎

 どんなに信仰歴が長くても、たとえ牧師・執事・リーダーであっても、イエス・キリストを知らないと3度も云ったペテロのようになる危険性は常にあります。しかし、そういう誘惑の中で、いつも心に覚えておきましょう。主イエスは「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」とペテロに云われます(ルカ22章32節)。主イエスはわたしたちの信仰のために祈ってくださいました。この主の祈りは2000年経った現在も有効です。

 ヨハネ17章1〜5節で、主はご自身のために祈られました。次に6〜19節で、地上に残してゆく弟子たちのために祈られました。今回の20〜26節では、弟子たちの福音宣教を通して信徒となった、まだ会ったことのない大勢の信徒たちのために主イエスは祈られます。ご自身が捕らえられ、十字架に架けられて死ぬことにつまずいて散り散りバラバラになることを主は知っておられましたから、彼らの信仰がなくならないように父なる神に祈られたのです。

 具体的に主は何を祈られたのかが21節以降に記されていますが、主がまず祈られたのは、信徒たちが「一つ」になることでした。23節までに「一つ」という言葉が4回用いられていることからもその重要性が判ります。しかし、そもそも何故一つになる必要があるのでしょう?

 理由はいくつかありますが、まず一つとなることでキリストと神の愛の内にいるため、次にイエス・キリストが救い主であることを証明し、この世の人々が主イエスを救い主と信じるためです(21節)。ヨハネ13章34〜35節に「わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。わたしがあなたがたを愛してように、互いに愛し合いなさい。それによってあなたがたがわたしの弟子であることをすべての者が認めるであろう」と主は弟子たちにお命じになられました。一つになるということは、このキリストの言葉に聞き従うことであり、キリストの愛を証しして生きるということです。キリスト者であるわたしたちがバラバラでは、福音にふさわしく生きることはできません。キリスト者が一つとなることで、世の人々が主イエスを救い主と信じるようになり、それはつまり神の栄光をあらわすことでもつながるのです(22節)。

 主イエスは、完全な一致をわたしたちに求めておられますが、ここでの課題は、生い立ちや価値観、宗教観がそれぞれ違う、同調できることよりも違いの数のほうが遥かに多いわたしたちがどのように一つになるかです。不可能のように感じられるかもしれませんが、それでも一致する道が一つだけあります。わたしたちに不可能でも、主イエスと神には可能なのです。

1)イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって一つとなってゆくしか道はありません。ですから、まずわたし(たち)一人ひとりがイエス・キリストと一つになる必要があります。

2)イエスを心に招き入れ、心を新たに変えられてゆく中で一つになることができます。

3)キリスト者としてわたしたちに平等に委ねられている使命に生きること、つまりキリスト・イエスを通して与えられている神の愛を人々と分かち合うという使命です(23・24節)。

 24節後半に「わたしに賜った栄光を、彼らに見させてください」とありますが、この「栄光」とは主イエスの十字架の死であり、復活です。キリスト者の信仰は、「主の十字架の死と復活はわたしのため」と見ないで信じること、聖書に記されている神の愛と赦しを真実として信じることです。復活された主は、「見ないで信じる者は幸いである」とトマスに云いました。見ないで信じる事は非常に困難で、人にはあざ笑われてしまうことです。しかし、主イエスを信じて、主の言葉に聴き従う者に永遠の命が祝福として神から与えられるのです。

 「正しい神よ、この世はあなたを知っていません」と主イエスは祈られます(25節)。まだまだ神がいかにわたしたちを愛してくださっているかを知らない人たちが多くおられます。しかし、わたしたちキリスト者はイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって神の愛を喜び、感謝しています。この喜びと感謝の気持ちは、主と人々と教会に誠実に仕えて生きるために神から祝福されて与えられている恵みです。

 主イエスは教会のために祈ってくださいました。わたしたちが心一つになって主の十字架の贖いの死と死に勝利した復活という福音を信じて従う者たちに永遠の命を与えてくださいます。