主イエスの言葉に素直に従う時

「主イエスの言葉に素直に従う時」 一月第二主日礼拝      宣教要旨 2017年1月8日

ヨハネによる福音書 2章1〜11節       牧師 河野信一郎

2016年から2017年へと年が移り変わったからといって、すべてが新しくなったわけではありません。私たち一人一人は、昨年から、またそれ以前から引きずってきた多種の課題と問題、様々な責任を担って歩んでいて、それらが重荷となっているわけです。心悩むこと、心が締め付けられて窒息する程に辛い苦しいことがあります。しかし、けれども、そのような私たちの傍に主イエスが共におられ、私たちの心を照らし、歩むべき道を照らして導いてくださいます。「主イエスさまが共にいてくださる」と信じるだけで、私たちは光のうちを歩んでいるのです。まことの光であるキリストが伴ってくださるので、私たちは恐れることも、怯むことも、焦ることもなく、主の憐れみのうちに生きてゆくことが許されているのです。

今回の聖書箇所は、ガリラヤ地方のカナでの婚礼で主イエスが最初のしるし・奇蹟を行われた箇所です。世の中には、「奇跡」を信じないという人もいますが、イエス・キリストを信じる人は「奇蹟」を信じる人であると思います。何故ならば、主イエスは地上で数多くの奇蹟を行われました。4つの福音書に記されています。それを信じます。そして何よりも、キリスト・イエスご自身が与えられたことが奇蹟、恵みであると信じるからです。

では、この新しい年、あなたはどのような奇蹟が起って欲しいと願われるでしょうか。神があなたの生活の中で起こしてくださる奇蹟。人間の力では成し得ないけれども、神の力、主イエスの力であれば成し得ると信じることです。神に出来ないことは何一つありません。

今回は、主イエスがカナの婚礼の場で行われた最初のしるし・奇蹟から大切なことを学んでゆきたいと思います。

まず最初に心にとめたい大切なことは、主イエスが起こされた最初のしるし・奇蹟は、どのような目的があったのかということです。主の言葉、行動など一つ一つには必ず主の目的、意図、意味がありますが、この最初のしるし・奇蹟の目的は何であったのか。その答えは、11節に記されています。そこには連動する2つの目的があったことが分かります。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」とあります。

まず一つ目の目的は、イエス・キリストの栄光、つまり力を示すためであったということ。そして二つ目は、弟子たちがイエスをキリストとして信じるためであったということです。それは、弟子たちがイエスを信じていなかったので信じさせようとしたという意味ではなく、彼らの信仰を更に強めることが目的であったということです。なにせ、彼らが主イエスを信じて従うようになって、まだ3日しか経っていません。彼らの信仰を強固なものにするために主イエスは救い主としての力を現され、示されたのです。

さて、ガリラヤ地方にカナという町がありました。ガリラヤ湖から西へ約22キロに位置し、イエスの母マリアが住んでいたナザレから北へ約18キロにある町です。その町で婚礼があって、イエスの母がそこにいたと1節に記されています。彼女の親友の息子か娘が婚礼を挙げ、その婚礼に出席し、また手助けをするためにナザレから来ていたのでしょう。主イエスと弟子たちもこの婚礼に招かれたと2節にあります。

当時のガリラヤ地方での婚礼は、1週間から10日も続いたそうで、誰もが招かれ、出席できたそうですから、相当の量の食事とぶどう酒が準備されていたはずですが、事もあろうか、ぶどう酒が足りなくなるというハプニングが起こります。婚礼パーティーを主催する家族にとってはとても恥ずかしい失態で、人々の信頼を失ってしまうような大ピンチです。

そういうことを素早く気づいたマリアは、イエスの所へ来て、「ぶどう酒がなくなりました」と言ったと3節に記されています。ここでもう一つ心にとめたい大切なことは、人生の中でピンチになったら自分の力で何とかしようとはせずに、主イエスにすぐに知らせるということです。主イエスを心の拠り所とし、いつも主のもとに行くということです。

さて、次に注目したいのは、主イエスの反応です。4節に「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』と応答します。この言葉を聞いて、「イエスさまって冷たい人なんだ」と感じる人もいるかもしれませんが、主イエスは冷たいお方ではありません。とても暖かいお方です。

ここで主イエスがおっしゃりたかった事は、主イエスの救いに血縁は関係ないということです。母親が頼むから、親族や親しい知人であるから救うということではなく、誰であっても、人生のピンチにある人をわたしは助け、救うから安心してくださいとおっしゃるのです。

すべての人は、神と主イエスと聖霊によって造られ、愛され、生かされている存在だから。

「わたしの時はまだ来ていません」という主イエスの言葉の真意は、主イエス以外の人にはこの時に理解することは不可能でした。何故なら、「わたしの時」とは、主イエスが十字架に架けられて贖いの死を遂げられる時を指しているからです。ですから、この十字架の死を暗示させることをカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇蹟を最初のしるしとして起こされるのです。5節から7節をもう一度読みましょう。

「母マリアは召使いたちに『この人が何か言いつけたら、その通りにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が6つ置いてあった。いずれも2ないし、3メトレテス入りのものである。イエスが『水瓶に水をいっぱい入れなさい』と言われると、召使いたちは、瓶の縁まで水を満たした」とあります。

ここで注目したいことが2つあります。まず第一に注目したいのは、6節にある「ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶」の「清め」という言葉です。清めに使う石の水瓶に水が注がれ、その水がぶどう酒に変わる。主イエスは十字架に架けられる前夜にこのぶどう酒をご自分の血として、私たちの罪を洗い清める血潮に例えています。つまり、私たちの罪を贖い、洗い清める水はキリスト・イエスであって、主イエスの血潮のみであるということを私たちに伝えているのです。そして事実、主イエスは私たちを救うために十字架に架かってしんでくださいました。神の御子イエスの死によって、私たちは罪赦され、聖められ、主の僕として生きられることが最大の奇蹟であり、神の愛が私たちに注がれているしるし・証しなのです。その神の愛、主イエスの愛を信じるように、私たちは(婚礼へと)招かれているのです。

第二に注目したいのは、5節の「この人(つまり主イエス)が何か言いつけたら、その通りにしてください」という促しを聞き入れ、7節で主イエスがおっしゃる言葉に素直に聞き従うということです。「イエスが『水瓶に水をいっぱいに入れなさい』と言われると、召使いたちは瓶の縁まで水を満たした」とあります。召使いたちがイエスの言葉に素直に従った時、どのようなことが起ったでしょうか。水が一瞬にして最高級のぶどう酒に変わるという今までに経験したことのない体験をするのです。すべて主イエスの力によって起こされました。

召使いたちは、主イエスがどのように水をぶどう酒に変えたのか分かりませんでしたが、イエスがそのようにしたということは信じることができました。同様に、私たちも主イエスがどのように私たちの願いを叶えてくださるか分かりませんが、主イエスが奇蹟を起こされる、起こしてくださると信じることが恵みのうちに許されています。

もう一つ私たちに出来る事、それはとにかく主イエスの言葉に素直に従うことです。水をいぶどう酒に変えられる時、主は「水よ、ぶどう酒に変われ!」と言葉で命じませんでした。主イエスの意志がそこに働いて、水がぶどう酒になりました。ここで示されていることは、主イエスは何も仰せになられなくても、意志だけで物事を造られるお方であるということです。すべては、神の、そして主イエスのご意志のままになされていく、それを信じて素直に従ってゆく時、私たちは主の栄光を拝し、恵みに与り、信仰が育まれて強まるのです。

私たちが共に力を合わせて主の言葉に素直に従順に従い、水瓶に水をいっぱいに満たす時、この教会を恵みで満たし、この教会を用いて栄光を現され、主イエスを救い主と信じる者たちが次から次へと起こされてゆきます。それまで、主イエスを共に信じ、主の言葉に共に素直に聞き従い、共に主と隣人に仕える者として生きましょう。その時に、私たちの願いが祝福のうちに叶えられます。そう信じましょう。従いましょう。仕えましょう。共に。