二つの大切なこと

「二つの大切なこと」 二月第一主日礼拝宣教 2021年2月7日

 ガラテヤの信徒への手紙 6章11節〜18節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。素晴らしい朝を神様に感謝いたします。2021年も早いもので2月に入り、今朝はもう7日目です。2月は短い月ですので、また「あっ」という間に一ヶ月が過ぎてしまうかもしれませんが、どうせ「あっ」と驚くぐらいならば、日々の生活の中で神様から受ける大きな恵みに「あっ!」と驚き、喜び、感謝しながら過ごしてゆきたいと願います。

さて、首都圏では緊急事態宣言が延長されましたが、東京のここ数週間の新規感染者数は確かに減少しています。感染症の専門医であり、当教会員のI兄弟がおっしゃるには、おそらく3月7日には宣言は解除されるだろう、ということです。つまり、また礼拝堂でご一緒に礼拝ができるようになりますので感謝なことですが、I兄弟のその後の言葉が重要です。「しかし解除したら、また感染者数は増えるだろう」という言葉です。1年以上も新型コロナウイルス感染症の最前線で働いてくださっている医師の言葉、たとえそれが夫婦の会話の中で交わされた言葉であっても、とても重みのある言葉だと思います。しかし、そうこうしているうちに、去る5日の金曜日の夜、新橋、銀座、新宿の繁華街へ繰り出した人の数は前の週の20%以上の増加があったと報道されていました。そのような報道を医療従事者の方々はどの様な気持ちで聞かれるのでしょうか。そういう報道に耳を傾ける暇もないほどに働き続け、そういうことに心を向ける気力もないほどに疲れておられるのではないでしょうか。

全国でコロナ感染の医療に携わる医療従事者の方々は疲弊されています。そのような方々には過酷な労働時間による疲労、日々の緊張とストレス、不条理な風評被害を受けて、やり切れなさを感じたり、逃げ出したいと思ったことも多々あったでしょうし、今もあると思います。しかし、それでも命を守ろうと日々頑張ってくださっている。ワクチンを接種することができれば全て安泰というわけにはいきません。ですから、わたしたちにできること、お互いの命と健康のためにステイホームを心がけ、外出する時もソーシャルディスタンスをしっかり取り、感染予防に細心の注意払ってゆくことに努めたいと思います。

さて、先週31日から今日まで「協力伝道週間」を過ごしてきましたが、これからもずっと全国の諸教会との協力伝道と日本バプテスト連盟での協力伝道を大切にしてゆきたいと願っています。先週も連盟事務所の国内伝道室に東京のある教会の牧師から特別支援の問い合わせがあったそうで、地区宣教主事のわたしにも情報の共有がありました。牧師や教会員がどんなに頑張っても、願い通り、計画通りにいかないことが多々あります。二進も三進も行かない教会・伝道所が現実的に存在します。

この大久保教会もそのような危機的な状態に直面したこと、苦しい経験は55年の歴史の中で何度もあります。しかしその都度、神様の愛と励まし、教会員たちの主イエス様を信じる信仰と祈り、連盟に連なる諸教会と日本バプテスト宣教団の祈りと励ましがありましたのでずっと今日まで守られて来ました。神様の愛と憐れみが変わることは決してありませんが、大切なことはわたしたち信徒の側にあります。つまり、大変な苦難、困難に直面しても、主イエス様から目を逸らさないで、イエス様に信頼する信仰にとどまること、イエス様につながり続けることです。わたしたち一人一人がイエス様にしっかりつながっていないと教会はバラバラになります。主イエス様を教会の全ての事柄、活動の中心としていなければ、キリストのからだなる教会ではありません。神様の愛の中で、イエス・キリストに結ばれていることを喜び、感謝して、共に主と隣人と教会に仕え、全国の諸教会・伝道所のために祈りとサポートを続けて参りましょう。

少し話が逸れますが、わたしの友人の一人に祈りと経済的なサポートを必要としている方がおられます。教会にも食べ物やお金を求めて来られる生活困窮者が時々来られます。わたし個人にできることは本当に限られていて、友人や生活困窮者の方々に申し訳ないと思いますし、正直言って、「お金がたくさんあればどうにかしてあげられるのになぁ」という考えに、そういう誘惑にかられることも時にあるのです。しかし、みんなで祈りながら、みんなで少しずつサポートしてゆけば、たとえわずかでもみんなが心を、持ち物を分かち合えれば、必要としている人たちの心が励まされ、喜びで満たされ、立ち続けることができるのではないでしょうか。協力伝道週間後も、そういうことを一緒に考え、祈り続けたいと願っています。

さて、昨年の4月末から9ヶ月間、ご一緒にガラテヤの信徒への手紙を聴いてまいりましたが、この間の宣教と学び、皆さんはいかがでしたでしょうか。わたしは宣教者としてとっても楽しく恵まれた時間を過ごさせていただきました。たくさんの発見があり、たくさんの励ましを受け、たくさんの知恵をいただきました。今朝がその最終回となります。来週の17日から今年の受難節が始まりますので、イエス様の十字架の意味、十字架に向かわれるイエス様を宣教の中で皆さんに分かち合って聴いてゆきたいと願っています。また、来月は東日本大震災から10周年を迎えます。岩手、宮城、そして福島県で福音宣教と教会形成にひたすら励んでおられる諸教会を覚えて祈りたいと思いますので、祈りと心の備えをお願いします。

さて、6章にわたるガラテヤの信徒への手紙を9ヶ月にわたって聴いてきましたが、今朝の6章11節から手紙の結びの部分が始まります。10節までは使徒パウロが口頭で話したことを弟子が代筆してきた、いわゆる口述筆記であったようですが、11節で「自分の手であなたがたに書いています」と記しています。「わたしはこんなに大きな字で」書いていますという言葉から、パウロ先生が弱視であったので口述筆記という方法で手紙を書き送ったと考えられますが、手紙の最後に来て先生自らが筆をとります。それほどまでにガラテヤの信徒たちへ最後に伝えたかった重要なことがあったということが分かると思います。それではパウロ先生はガラテヤ地方に生きる異邦人クリスチャンたちに一体何を伝えたかったのかということが重要なことになってきます。それが12節から15節に記されていることで、大きく分けて二つあると考えます。ですから、今朝の宣教題を「二つの大切なこと」といたしました。

パウロ先生が伝えたかった一つ目のことは、12節から14節に記されていることです。12節から読み進めてまいります。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」とパウロ先生は、手紙の結びの部分でも、ガラテヤの教会に分裂をもたらしている張本人たちのことを触れています。そもそもこの人たちは、つまりクリスチャンと言えどもユダヤ主義者で、律法を守ることを重視する人たちは、神様の憐れみ、恵みを台無しにしていると彼らの福音理解の間違いを厳しく指摘しています。

「ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」とありますが、当時のキリスト教会はユダヤ教から迫害を受けていました。呪いの木にかけられて死刑にされた者がメシア・救い主であるはずがない。三日目に甦えったということも信じがたいとキリスト教会を拒絶する力がユダヤ社会にはあったわけです。そのような迫害から身を守るために、割礼を受け、律法を守り、それを隠れ蓑にしたほうがあなたがたの命のためだ、得策だと異邦人クリスチャンたちを勧誘していました。しかし彼らの思惑は、ユダヤ主義的キリスト者を一人でも多く増やし、自分たちの「グループ」を少しでも大きくして誇りたい、また自分たちの身を守りたいということでした。ですから、パウロ先生は13節で「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」と書き送ります。ユダヤ主義的「クリスチャン」たちにとって、彼らの考えの中心は自分たちの命を守ることで、主イエス様のことなど二の次になっていました。キリストを中心としない所には、矛盾と混乱と分裂、恐れと痛みと悲しみしかないのです。

しかし、パウロ先生には希望が、誇れるものがありました。その希望がガラテヤ地方のキリスト教会とそこに連なるクリスチャンたちの信仰を守り続ける力となることを確信していました。その希望とはイエス・キリストの十字架です。このイエス様の十字架が神様から与えられている救いの出発点です。律法は救いの出発点ではありません。わたしたちを神様へと再びつなげるのは、イエス・キリストであり、主イエス様の贖いの十字架なのです。わたしたちを神様につなげるのは律法ではない。律法を守ることではなく、イエス様の贖いの死を、わたしたち一人一人の罪のため、わたしたちの罪の代金を完済するためにイエス様が身代わりとなって十字架で死んでくださったことを信じること、ただ信じることが大切なのです。

パウロ先生は14節でガラテヤの信徒をこのように励まします。「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と言っています。ここで注目すべき点は、「わたしには」とパウロ先生が言っている点です。「わたしたちには」と言っていません。つまり信仰共同体である「わたしたち」も大切ですが、それ以前に、それ以上に大切なのは、「わたしとイエス様の個人的な関係」であるということです。

夫婦や家族や一族でイエス様を信じておられるということは確かに恵みでありますが、もっとも大切なのは一人一人がイエス様にしっかりつながることです。誰か人につながっていて、その人がいなくなってしまったら自分もイエス様から離れてどこかに行ってしまっては、その人が主イエス様につながっていなかった証拠になります。配偶者や親や愛する人から離れても、イエス様にしっかりつながっていることが重要で、実に身勝手なことですが、私は自分の子どもたちや家族の信仰のために祈っています。皆さんもそうだと思います。愛する人たちがイエス様を信じてつながること、つながり続けることを日夜祈りますが、まず自分が主につながっていなければなりません。そのために、イエス様の十字架を見上げるのです。

主イエス様が、イエス様の十字架がすべての恵みの出発点なのです。自分の信仰とか、努力とか、強い意志とか、行いではなく、すべて神様の愛・憐れみ・慈しみ、恵みなのです。どんなに努力しても、強い意志があったとしても、自分の力だけで律法を守りきることはできません。そもそも神様はそのようなことをわたしたちに期待されていません。神様が期待されていること、それはわたしたち一人一人が自分の弱さを認め、神様の愛に寄りすがり、この愛と恵みのうちに生きることです。今朝もイエス様を通して招かれています。イエス様を救い主と信じ、この恵みのうちに生かされることが神様のわたしたちに対する願いです。

「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」というパウロ先生の言葉は、自分がイエス様に出会うまで持っていた自分中心の思いや誇りや欲をイエス様のために働くためにすべて手放して捨ててしまった、十字架につけたということです。自分の誇りを捨てて、イエス様の十字架を誇りとして生きているパウロ先生がここにいます。パウロ先生の誇り、それはイエス様に出会うまで先頭に立ってクリスチャンたちを迫害していた自分を神様が赦し、イエス様を通して救ってくださり、愛と恵みのうちに生きる者、キリストの福音を宣べ伝て生きる者としてくださっているという神様の憐れみ、その愛と憐れみを表しているイエス様の十字架だと胸を張って告白しています。

大切なことが二つあると言って、最初のことにたくさんの時間と言葉を用いてしまいましたが、二つ目に大切なことが15節にあります。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」とパウロ先生は書き送ります。「大切なのは新しく創造されること」。では何が誰によって新しく創造されるのか。それはわたしたち一人一人が、主イエス・キリストによって新しくされることです。わたしたちには自分を新しくする力、人生をリセットすることはできません。唯一できるのが父なる神様であり、救い主イエス様であり、ご聖霊です。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実を結べるのも神様の力です。わたしたちに必要な救い、平安、喜び、希望の源は神様であり、イエス・キリストとご聖霊を通して与えられます。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされるのです。」(2:16)というパウロ先生の言葉、救いへの招きの言葉、神様の愛の言葉を今朝も受け取り、主の力強い言葉によって新しく造り替えられましょう。