二度と奴隷に戻るな

「二度と奴隷に戻るな」 9月第一主日礼拝   宣教 2020年9月6日

 ガラテヤの信徒への手紙 4章21節〜5章1節    牧師 河野信一郎

おはようございます。2020年も9月に入りました。今朝も、この礼拝堂で、またインターネットを通して、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを喜び、この恵みを与えてくださる神様に心から感謝いたします。数日前から報道されています沖縄、九州、そして韓国が、強烈な台風10号から守られますように、被害が最小限にとどめられ、人々の命と生活が守られるように、心を込めてお祈りいたします。

さて私は、先々週の24日から先週の1日まで教会から夏休みをいただきました。お祈りをありがとうございました。今年は、皆さんと同じように、ステイホームの夏休みになりましたが、ハプニングも多少あり、必ずしも気持ちと時間にゆとりを持ちながら過ごせたという訳ではありませんでしたが、ずっと先延ばしにしていたことや、この夏休みにどうしてもやりたかったことは、一つ以外、一通りできたかなぁと主に感謝しております。

まず教会周辺の草むしりを早朝からしたり、埃がたまっていた本棚も1日がかりで整理整頓できましたし、ごちゃごちゃになっていた道具箱も整理できました。その時に、このような大きな釘を見つけました。道具箱の中にこの釘を見つけたことが、今年の夏休みの最後の方で、私を悔い改めへと導いたのだろうと思います。他には、教会のパソコン内のデータの整理もかなりでき、達成感を味わうことができました。と言うように、今年の夏休みは掃除と整理整頓の日々でありましたが、終わってみて、「こりゃダメだぁ」と思ったのは、最初に片付けなければならなかったはずの牧師室が何も手をつけなかったということでした。そのために「もう数日お休みをください」とも言えませんので、今後コツコツと掃除と整理整頓をしてゆきたいと思います。

さて、この期間にもう一つしたことは、友人のお引越しの手伝いで半日外出したことでした。住宅周りの草むしりと芝生の植え替えを主にしましたが、アメリカで生活している時、学生時代に庭師のアルバイトをしていましたから、私にとって一番得意なお手伝いです。しかし、作業をしている時にこんなことがありました。私と友人はまず雑草を抜く作業をしました。ちゃんと軍手とゴム手袋を二重につけて開始しましたが、しばらくして友人が「痛っ!」て言う声が背後で聞こえました。雑草の中に小さな棘が無数ついた雑草があって、それを引き抜こうと茎の部分を握った時に棘が手袋を突き抜けて刺さったのです。私の友だちは、指を使う仕事をしているので、指や手に怪我をしてもらっては今後の仕事に支障がでます。ですので、私はすぐに「棘がある雑草は私が抜くから、棘のない雑草だけを抜いて」と彼に言って、日が沈むまで作業をし、夜8時前に帰宅しました。

シャワーに入って布団に横たわり、その日の振り返りをした時にこういう思いにさせられました。今日は棘がよく刺さる日だったなぁ。友の指や手を守るため、彼には他の作業をしてもらって、その後もすべて無事に終わって感謝だったけれど、神の子であるイエス様は、私を救うために、いばらの冠を被せられ、鞭打たれ、十字架に架けられる時、太い釘で手足を打たれたのだなぁ。私が打たれなければならなかった釘を私の身代わりとなって罪のないイエス様が受けてくださり、手足に太い釘が打たれ、十字架に架けられ、6時間もその激痛、苦しみを耐えてくださったのだ。私のような罪多い者のために、その命を惜しみなく与えてくださった。それ程までにイエス様に愛されている自分って、そういう自覚がちゃんとあるのかなぁ、本当にその愛に感動し、日々感謝して生きているかなぁ、自分のことばっかりしか考えて生きていないよなぁと思い、涙がこみ上げてきました。この涙は、イエス様に本当に申し訳ない、ごめんなさい、でもありがとうございます。イエス様、どうぞあなたの愛に応えて生きてゆけるように私を造り変えてください、という様々な気持ちが入り混じった涙でした。そういう貴重な体験をこの夏のとある日にさせていただきました。この恵みに生きたいと思わされています。これからどう生きてゆくべきか、その答えは聖書にあります。 

今朝もご一緒に神様のみ言葉に聴いてゆきたいと思いますが、今回の箇所はガラテヤの信徒への手紙4章21節から5章1節までです。いつもよりも少々長く、一度読んだだけでは判りにくく、夏休みから戻った直後の牧師が語るのには少々荷が重いような箇所ですが、できる限り分かりやすくお話ししたいと思います。

先ほど読みましたこの箇所で最も重要な言葉は「自由」という言葉で、7回用いられています。そしてこの箇所で最も重要なのは、最後の5章1節です。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」 今朝は、「二度と奴隷に戻るな」という主題をこの節からとりました。ガラテヤ地方に生きる異邦人クリスチャンたちを愛してやまないパウロ先生の兄弟姉妹たちに対する切実なる願いをここから読み取り、その願いが神様と主イエス様のわたしたちに対する御心であることを受け取りたいと願っています。

この箇所を読んでゆく中で、もう一つ心に留めなければならない言葉があります。それは「奴隷」という言葉で、回数的には「自由」という言葉よりも多く8回使われていますが、パウロ先生は、ガラテヤの異邦人クリスチャンたち、そして今日を生かされているわたしたちは、主イエス様の十字架の死、その血と死による贖いによって「奴隷」の身分から解放され、自由な身分が与えられ、神の子とされていると云う福音を手紙の中で一貫して伝えようとしている訳です。この素晴らしい福音を聞いて、イエス様を信じる者は誰でも救われる、神様の愛と憐れみによって救われている、信じるだけでいいんだと励ますのですが、ユダヤ人クリスチャンたちから強い影響を受けた人たちは、異邦人であるにも関わらず、イエス様を信じることプラス、モーセの律法を守ること、つまり自分の行いと努力によって救いを得ようとしている、要するに律法の奴隷、人間の思いと行いの奴隷になってしまっているとパウロ先生は言っている訳です。

4章8節と9節では、「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロ先生は迫る訳です。

前回の宣教で、皆さんの中に、あなたを造り、あなたを愛しておられる神様を知らないまま、神ではないお金や社会的地位や名声、楽しいこと、自分の心を和ます物質的なものに心奪われて、そう云うものに奴隷のように仕えている方はおられないでしょうかと尋ねました。もちろん今は生きてゆくだけで精一杯という方もおられると思います。また、信じるものなんて何もないと感じておられる方もおられるかもしれません。しかし聖書には、あなたを、わたしたちを造り、愛し、わたしたちが神様の許へ立ち返ることをひたすら待っていてくださる神様がおられ、わたしたちを罪の奴隷という身分から解放し、神の子として再び神様につなげてくださる為にその命を捨ててくださった救い主イエス・キリストがおられると記されています。

神様に造られ、愛され、知られている存在であることを知らないで、お金や社会的地位や名声、楽しいこと、自分の心を和ます物質的なものに心が奪われてしまっていることは悲劇ですが、もっと大きな悲劇があります。それは、イエス様を通して本当の神様を知ったのに、いや神様に知られているのに、その神様から、その愛からまた離れて、自分の力によって生きようとすることです。「あなたがたは神様に知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロ先生は悲痛な思いを叫んでいます。ここで「逆戻りする」と云うのは、イエス様を信じる以前に縛られていた異邦人の神々、習慣への奴隷ではなく、今度はユダヤ教のモーセの律法を守って自分の努力で生きようとする、律法の奴隷になるという意味です。

さて、信じるだけで受ける救いか、それとも律法を守って受ける救いか。信仰か、行いかと云う重大な問いに対してどこからその答えを得るかが問題となりますが、パウロ先生は21節と30節でこのように言っています。まず21節の後半ですが、「律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」と言っています。そして30節の前半で、「しかし、聖書に何と書いてありますか」と問うています。「律法」と「聖書」とは、神様の言葉です。つまり、わたしたちが人生の中で直面する様々な課題、問題の答えは、すべて聖書にあり、神様の言葉にあり、神の言葉である主イエス・キリストにあると言うことをパウロ先生は言っています。またここでは主イエス様の言葉ではなく、あえて旧約聖書に記されている物語を通して、信仰か、それとも律法かと云う問いかけに答えを得ようとしています。わたしたちにとって、旧約聖書も新約聖書も重要であり、日々聴いてゆくべき神様の言葉なのです。

22節から31節でパウロ先生が話しているアブラハムの物語は、創世記の16章から21章に記されているアブラハムの息子として女奴隷のハガルから生まれたイシュマエルと妻のサラから生まれたイサクのことで、女奴隷から生まれた息子と正妻から生まれた息子の決定的違いを分かち合うことで、律法を守って救いを得ようとすることと神様の約束の言葉を信じる信仰によって救われる違いを表そうとしている訳です。

23節をご覧ください。「女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした」とあります。高齢であったサラに子どもが授かりませんでしたので、女奴隷のハガルを通してアブラハムの子どもを得ようとしたことは、人の思いと努力の結晶でした。しかし、その後にサラの胎が開き、神様がアブラハムに約束された子どもイサクが誕生しました。それは神様の約束の成就であり、神様の愛の表れです。

人の思い、肉の思いによって子どもを出産したハガルは、子どもを産めないサラを軽んじるようになり、彼女たちの間に敵意や争い、妬みや怒りが生じ、ハガルと息子は祝福から追放されることになりました。そのことをパウロ先生は28節から30節で言っているのです。

律法を守ること、つまり自分の努力で救いを得ようとすると、どうしても人間関係に摩擦が生じ、心がストレスで一杯になり、平安とは真逆の苦しみが生じます。しかし、神様の約束を信じ、神様の愛だけに寄りすがる人、イエス様を救い主と信じて聞き従う人には、神様の愛がさらに豊かに注がれ、不思議に思えるほど、心に喜びや平和、希望、生きる力が与えられます。肉の思い、罪の奴隷からわたしたちを救い出すためにイエス様はわたしたちの身代わりとなって十字架に架かって贖いの死を遂げてくださいました。イエス様の流された血潮とささげてくださった命によって、わたしたちの罪は洗い清められ、救いが与えられ、自由が与えられています。ただ信じるだけで、その愛を受けるだけでわたしたちは救われ、自由にされているのです。この自由はイエス様を通して神様にしか与えることのできない恵みです。5章の1節。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

神様と主イエス様の切なる願いは、わたしたちが罪と死の恐怖から解放され、自分の知恵と力だけで生きようとすることを止め、この地上にある様々な肉の思い、憎しみや怒りや妬みや争いという誘惑から解き放たれて生きること、神様の愛と約束の言葉を信じて自由に生きること、イエス・キリストにしか与えることのできない平安と喜びと希望の中で生きることです。そのためにイエス様はご自分の命を十字架上でわたしたちに与えてくださいました。神様とイエス様の愛にしっかりつながり続け、奴隷の軛に二度とつながれないように、神様の愛と赦しのうちに、イエス様の愛と犠牲を覚えて生かされてまいりましょう。